2007年5月アーカイブ

独り言Ⅲ

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 先日、当記念館の英語パンフレットをリニュアルするにあたり県の国際交流員の方にご協力頂いた。その方の流麗な日本語にはとにかく脱帽した。また同時に微妙で婉曲的な日本語の表現の美しさを再認識した機会でもあった。日本語の奥底にあるニュアンスをダイレクトな表現が多い英語に訳すのはやはり難しい。けれどもそのニュアンスをきちっと相手の方に理解していただけるように説明出来れば、的確な英語の表現を提案して下さる。

 昨今、若者の間で使われている言葉を耳にしても、私なんかすぐにはピンと来ない。若者に限らず巷で話されている言葉にもへんてこりんな日本語がたくさんある。言葉は生き物であり、時代は変遷して行くものなのでそれがいいとか悪いということでは勿論ないけれど・・・。

 携帯電話もほとんどの人達が所有するようになった。受信者の人々が周りを気にせずどこでも話しをしている光景も珍しくなくなった。館の中だと更にその声は響き渡る。何かの事件で「携帯電話を持っていなかったのでその人が印象に残った。」と証言していたのを聞いたことがある。今や携帯電話を持っていない人は好奇に見られる時代なのである。公衆電話が無くなるのも時間の問題だ。

 日々一刻一刻と前進して行く世の中、日本の良さとかつての日本人の心の在り方が刻々と失われてしまっている気がする。日本は何処へ行くのだろう・・・?

龍馬と直談判

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 世の中一体どうなっているのか?怖くなってくる。
“不可解不安雲”が日本をいや地球をすっぽり覆っている。
 母親の頭部を切断して持ち歩く少年がいた。
運動も勉強能力も優れていたという。
だとすれば勉強、スポーツそれ以前の謎。
背後を無理やり覗くと
闇よりももっと暗い漆黒の空間がパクパク口をあけている。
 知り合いの少女をリンチして、小指をはねた。
その小指を「カレーなべに投げ込んだ」と容疑者の一人が嘯いたと報道は伝える。「なにっ!」。言葉がない。
 火災でよく人が死ぬ。
心中、殺人、不可解なり。
 セクハラ農協職員、エッチな警察官、教師・・・なんかは数え上げるときりがない。
 原因は考えなくてもおよその見当がつく。拝金主義の蔓延である。
そこを起源に生じる各種ストレス。
それが嵐のごとく吹き荒れている。髪の毛は逆立つ。

 館に先日、こんなことを書き残して行かれた方がおられる。
「どうしても、なんとしても・・・」これが題。少し紹介すると
 -今日の悪政と経済悪と社会悪の流れを正したい。
その為に福島県から 坂本龍馬さんと直談判をするためにやってきました。(中略)「坂本」さんならばこの悪政、経済悪、社会悪をどのように正しますか?(中略)私は真に人の「命と暮らし」を大切にする為の政治を実現することこそ大切であり必要と考えるのですが・・・。
 同感、同感。その通りだと思わず膝を打つ。

 明治31年(1898)家族とともに北海道に渡った直寛は、北見に行かず道央の浦臼町に入植し、キリスト教布教活動に専心した。代わりに、高知出身の前田駒次が北光社の経営や稲作普及に努め、今、駒次の顕彰碑がある場所は「こうち広場」と呼ばれている。
 高知からは最果てほど離れた土地でこうして高知が生きている。そのことに、私は奇妙な感動を覚えた。
 ところで、浦臼(うらうす)と聞いてもピンとこない方がいるかもしれない。札幌と旭川(旭山動物園が人気)の中間ほどにある町だ。ここには坂本家の資料館もあって、直寛らの顕彰をしているようだ。私はまだ行ったことはないが、いつか行く機会もあるのではないかと思っている。
 私はこの1年半、坂本直行という人を道標にして広大な北海道を点でつないできた。いつの間にか、小さな点だったものが、くっきりとした線につながってきたように思う。直行展は終わったが、直行さんを通じた出会いはこれからも広がっていくのではないか。そう信じる。

 閑話休題。
 先日、縁者の方に一枚の写真をいただいた。本などでも紹介されている明治31年に直寛らが渡道する前に高知で撮った坂本家の集合写真。
 印画紙に焼き付けられたものを見ると、当時が鮮やかに見えてくる。龍馬もそうだが、坂本家の人々は写真好きであるようだ。龍馬がよくからかっていた姪の春猪もいるし、直寛の姉や兄家族も写っている。直行さんの母・直意はキリッとした少女だ。小さな子どもたちもいて、その子らが成長し当時を語ったことは今も親族に伝わっているのだから、明治はこの間のことのように思えたりする。もしや年老いた龍馬がこの写真の片隅にいてもおかしくはないと思えるほどだ。
 この鮮明な画像を皆様にご覧いただく日も遠くないと思う。
 現在開催中の「来館200万人記念・所蔵品展」。夏に開催する「暗殺140年 坂本龍馬・中岡慎太郎展」。秋からの「樋口真吉展」。年末から始まる「幕末写真館」。
 史実に沿いながら、人間のドラマが見えてくる。かつて生きた人々が、今を生きる私たちへ贈るメッセージが伝わってくる。そんな企画展をこれからも展開して行きたいと思っている。

 札幌からようやく花便りが聞こえてきた。高知とは2ヶ月近く気候が違うことになる。ということは道東オホーツク沿岸にある北見市では、まだ桜のつぼみは固いのかもしれない。現在の最高気温はまだ10度前後だという。
 私が北見を訪れた4月半ば、北見では雪が舞っていた。残雪は路面のあちこちにあるし、私はその寒さに思わずコートの襟を合わせていた。
 約束の時間に遅れて北見市教育委員会を訪ねると、社会教育部長の山崎さんはじめ北網圏北見文化センターの方たちが満面の笑みで出迎えてくれた。遅くなったことや初対面の緊張を味わう時間もないほど、心待ちしてくれていたことが伝わってくる笑顔。人の温かさが北の寒さを溶かしてくれた。
 さて、北見市は直行の祖父、坂本直寛らが開拓会社「北光社」をつくり、高知の先人たちが開拓した土地。大雪山系を源流にする常呂(ところ)川が流れる野付牛(のつけうし)村に、高知からの移民団は入植した。
 小雪の舞う常呂川河畔、小さな公園ほどに整備された場所に直寛や北光社の顕彰碑が建っていた。遥かな北の大地。明治から見ると、1年前の町村合併で北海道一の面積になった北見市の発展は信じられないことだと思う。
 春先の寒さでさえ、南から来た私には厳しい北の風土を十分感じさせた。かつて男も女子どももどんな思いでここに来て、どんな毎日を過ごしていたのだろう。安穏とした今の私たちの想像を絶するものであったことは確かだ。
 わずかな滞在中に、「土佐の人たちが北見をつくってくれた」という言葉をそこかしこで聞いた。私への歓迎の言葉だけではなさそうだ。
 囚人たちにさえ過酷以上の土地であったオホーツク海近くの土地で、土佐の人たちは開拓をし続けた。その辛苦、重労働、失望、絶望、そして一筋の希望の上に人々は生き続け、信念を貫いていったのだろう。先人への感謝と畏敬の念が、私の中に沸々と湧き上がるのを感じていた。

 話は1ヶ月近く遡る。
 4月初旬、直行さんの作品群は北海道に帰っていった。4ヵ月半に及ぶ、反骨の農民画家「坂本直行」展が終わったからで、私も直行さんの絵や資料とともに北海道に出かけた。
 私の立会うもとで梱包が取り除かれ、坂本家の直行さんのアトリエには絵画が元通りに納まった。「あぁ、これでやっと元の我が家に返ったわ。」と夫人のツルさんは目頭に涙を溜めていた。「淋しかったでしょう。申し訳なかったですね。」という私に、泣き笑いしながら「淋しかったですよ。」と言っておられた。
 毎朝、直行さんの写真の前にお茶を置き、花を飾る部屋に、大好きな日高の風景がない5ヶ月。本当に淋しかったと思う。しかし、夫の絵が祖先の地に里帰りしたことにはいささかの感慨を持っていただいたとも思う。
 そんなこともあって、今回の返却作業の合間を縫って、私は札幌市円山にある坂本家の墓地を訪ねた。直行さんにもひと言お礼を言いたいと思って・・・。
 冬場に墓参りなんてしない。墓は雪の中にあって分からないからという北海道の人の言葉にびっくりしていたが、実際に4月初旬でも、墓地は融けかかった積雪の中にあった。はっきりした場所も知らないまま出かけていたので、雪の中に足を滑らせながらしばらく探し回り、ようやく見つけた坂本家は、直寛の大きな墓石を先頭に静かに佇んでいた。そして私は、『坂本家の人々ここに眠る』という直行さんの墓碑の前で、今回の直行展の報告をすることができた。
 札幌、帯広、広尾と回り、直行さんは北海道に帰って行った。私は返却作業を終えた後、オホーツク海近くの北見市まで足を伸ばしてみた。直行展開催2日目に館に来てくださった北見市の方の熱心な誘いがあったからだ。
 北見は、龍馬の甥で直行の祖父・坂本直寛が開拓会社「北光社」を作り、坂本家をあげて土佐から移住して行った土地。その話は次回にしよう。

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