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 みなさん“ボトルシップ”をご存知でしょうか?
ウイスキーやワインのボトルの中に、船が組み立てられた作品のことです。
ニッカウイスキーのダブルサイズ、高さ12センチ×長さ22センチ×幅7センチの空間に、見事に納まった帆船を目にすると「どうやって入れたのか」不思議な思いに捕らわれます。例えば、作品“夕顔”の甲板には風に吹かれる龍馬や海援隊士(6mm位の人形)の姿が。記念館の“海の見える・ぎゃらりい”で始まった-小さな船で夢の大航海-「中村斗世木ボトルシップ 世界の帆船」展は11月30日までの長丁場だ。
 中村さんがボトルシップの魅力に引き込まれてもう30年になるという。ボトルシップ一つを制作するのに4ヶ月はかかるそうだから、60点の作品はずばり中村さんの人生というわけである。それにお酒を飲まない中村さんが“酒瓶”相手というのも面白い。
 中村さんのボトルシップの特徴は、船体の緻密さと美しさをさらにグレードアップさせるために、瓶の中に描かれた油絵である。それも内と外向きに。まず外向きの絵を描いて、乾くのを待って内側を描く。手間と根気のいる作業だ。大きなテーマは海。船乗りであったご自分が訪ねた異国の港町の絵も少なくない。船の本体と絵が一つになって"航海"はよりリアルに、そして幻想的。見飽きない。
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 好きな方はじーっと見入っている。鼻先が瓶に引っ付きそうなくらいに近づいている。息がかかる。そして「ホー」と大きな息をつく。「夕顔」「いろは丸」「咸臨丸」なじみの船名も楽しい。
 企画展示室では「風になった龍馬展」がスタートした。龍馬、海舟、万次郎。
結ぶキーワードは「海」と「船」である。

 来館者の方によく尋ねられるのが「龍馬は懐に何をもっているの?」という質問である。記念館のパンフレットにもなっている懐に手をいれた龍馬の立像写真。皆様の気になるところだろうが、いくつか説はあるものの本当のところはわからない。
 最近この龍馬の立像写真で、懐から手を出し、ピストルを持っている写真を音楽雑誌でみかけた。スガダイローピアノ・トリオのNewアルバム“「坂本龍馬の拳銃」-須賀大郎短編集-(上)”のCDジャケットだった。想像の世界は大胆だ。坂本龍馬の暗殺をテーマにした表題曲「坂本龍馬の拳銃」。それにしてもどうしてこの表題を選ばれたのかご本人にお伺いしてみたい。
 とにかく早速聴いてみた。導入部から繰り返される、半音階で上っていくようなメロディーラインは、先が見えない何かと時間の勝負をしているような印象を受ける。またリズムと音がピアノの鍵盤から激しく叩き出される中盤から後半部分では、内面の葛藤と爆発を象徴的に感じる。
 坂本龍馬を表現している世界には絵・文字・ストーリ・映像・音など様々なものがある。けれども今回のようなJAZZで表現された作品に遭遇するのは私は初めてで、興味深かった。次はどんなものに出会えるのか楽しみだ。
 関心のある方は、どのような印象を持たれるのだろう?

 4月の記念館は大忙しである。
 まず、海の見える・ぎゃらりいでは1日~5月10日(日)まで生野宏宜さんの「土佐の山間よりいずるもの」と題して石彫小品展を開催中。会場には河原の石に彫りこまれた様々な表情の顔が並んでいる。生野さんによって魂を吹き込まれた仁淀川の原石達には独特の雰囲気がある。間近に作品を見ていると、石に命が宿るまでの旅を想像してしまう。あなたは何を感じるだろう?

 12日(日)には“龍宮祭”だ。今年も春の桂浜に小学生扮する浦島太郎と乙姫様のパレード、大人と子どものペンギンダンス、紙芝居、そして今年の龍宮祭の圧巻は、大漁旗を掲げた漁船団が桂浜沖を舞い踊る!空と海の青をバックに心地よい風に吹かれながら桂浜を体感してみてはどうだろう。いつもあっという間に売切れるチラシ寿司とてんぷらも、もちろん販売される。みんなで気分はもう桂浜!?

 その次の18日(土)・19日(日)には「第1回 高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会」が開催される。2日間に渡って総会、発会式、研究発表、分科討論会、コンサート、宣言文発表と龍馬一色。盛りだくさんのプログラムである。“単に歴史研究ではなく、龍馬を現代にどう位置づけていけばいいかを広く考察する”という考えから立ち上がった「現代龍馬学会」。一般の方も参加自由!

 学会準備も最終段階に入り、どんな意見が飛び出してくるかスタッフも期待いっぱいだ。各イベントの詳細は記念館のホームページをごらんいただくかお問い合わせください。それではみなさん、どこかでお会いしましょう!!

独り言ⅩⅤ

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 “海の見える・ぎゃらりい”は記念館の二階南端にある。名前の通り、海と展示作品、両方が一度に見られるギャラリーだ。天候の変化に伴い刻一刻とその表情も変わってゆく。作品の背景として見えていた海が、時として前面に躍り出る瞬間があり、すると作品も違って見えてくるから面白い。
 9月17日から“第2回現代俳画「秋だから 桂浜」展”が始まった。先の展覧会でも出品頂いた山岸孝子先生主宰“かぶらの会”門下生の作品50点余りが、賑やかに展示されている。俳句と花々・静物・自然などが奔放に描かれ、皆さん思い思いに楽しまれている様子がよくわかる。
毎日ここに立って作品と海を眺めていると“何かをしたくなる”そんな気持にさせてくれる不思議な場所でもある。
 龍馬も忙しい日々、短い人生の中で色々なことを嗜んでいた。私もこの秋何かを始めてみようかしら。

独り言ⅩⅣ

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 館の「海の見える・ぎゃらりい」に新しい出会いの風が吹いている。
「珊瑚とジュエリー“和”のコラボレーション」というタイトルで、谷内信之氏、森謙次氏の2人の作品が加わった。
 谷内氏は珊瑚に銀製品を中心としたジュエリーで「和と龍馬」を、森氏は珊瑚の他に鯨歯・猪牙・鹿角・木彫を使用して根付を中心に「ユーモア」をそれぞれ表現している。
 作品は30点あまり。ショーケースの中を覗き込むと、細かくリアルな小品が、自由と無限の広さをを感じさせ時間さえ忘れさせる。
 また、そばに飾った2人の写真が楽しい。高知市内の武家屋敷で写したという。和服姿の2人が、縁側に座って話をしている。とても晴れやかにいい顔をしている。取り巻く空気がよい。手を広げて2人は何を話しているのだろう?話題を想像していると、きっと龍馬もこのように気の合った仲間同士、“新しい日本造り”を語り合っていたのだろうと、その姿がダブって見えた。
 とにかく是非一度、ご覧になってみて下さい。彼らの作品を。

独り言XⅢ

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 今、開催中の「出会いの達人・龍馬」展にアクセントをつけるねらいで、館の2階スペースを使って「もう一つの展覧会」展というのを始めた。展覧会に重ねての展覧会だ。これは以前、館のギャラリーで企画展をお願いしたアーティストの先生方に“出会い“をテーマに新たに作品を制作して頂き、その作品を常設展示空間に置こうという試みである。
 各先生方のメッセージパネルを作るために、制作現場をのぞかせていただき、写真を撮った。書の先生宅では部屋に入るなり、すりだちの墨の香りに足が止まった。精神的にとても落ち着く筋の通った芳香であった。そこから生まれた作品は、非常に勢いよく大胆で、男性的に思えた。次は洋画の先生のアトリエ。油と絵の具の匂いがプーンとして、自由に動く筆のタッチに懐かしさを覚えた。

 作曲をお願いしてあった先生からは“風になった龍馬”というタイトルの楽譜が届いた。ト長調のメロディーだけがModeratoでと記されている。早速ピアノで弾いてみた。生まれたての音符たちから聞こえてくる主旋律は、優しく、柔らかく頬を爽やかに撫でてゆく風のような龍馬だった。

 作家の制作現場を拝見出来るというのは、特別な空間の貴重なエネルギーを感じ取れる、私にとってはわくわくさせられる場所で、かつて舞台装置を制作した時と同じ感情である。そのエネルギーの集結が一枚のパネルになる。龍馬が引き合わせたアーティストの面々、皆さんそれぞれになんとも魅力的なお顔をされていると思うのです。会場でお楽しみください。

独り言XⅡ

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 記念館周辺の桜はほとんど葉桜になっている。桜を楽しめるのはほんの一瞬で、その短命さがまた美しい。
 記念館では現在2階企画展示コーナーで「刀は“語る”坂本龍馬記念館所蔵品」展を開催している。展示ケースには刀が並び、その後方に慎太郎、半平太、龍馬を描いた公文菊僊の掛軸がかかっている。
 朝、ケースを見ると描かれた慎太郎の立像に桜の枝が寄り添っていた。まるで掛軸に描かれているかのようにバランスよく桜が収まっていた。ガラスに映り込んだ桜の樹である。
 私はそれを見た時、以前観た舞台とドラマの一場面を思い出した。満開の大きな1本の夜桜にライトが当たり、地面には花びらが幾重にもなって落ちて行く。「その桜の樹の下には短い命を惜しげもなく散らしていった人々の魂が眠っている。」と言ったナレーションが入った。あまりにも昔で記憶が定かではないが、そういった内容だったことは覚えている。ライトアップされた花の異常な赤さが印象的に蘇る。
 まさに、幕末の志士たちとシチュエーションが重なった。映り込んだ桜が描いた偶然の掛軸。その全ての一致が胸を熱くした。
 桜には特別な想いがある。その潔く限られた時を大切にしたいと思う。

独り言XI

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 2月の末に記念館2階から1階へ通じるスロープの壁面に、ポスターを掲示する枠付きボードが設置された。昨日までは「幕末写真館」展と次回の企画展「出会いの達人・龍馬」のポスターを貼ってあった。15枚ポスターが並ぶと結構壮観であり賑やかだ。
「幕末写真館」展では思うところ、反省すべき点もあったけれど、お蔭様で昨日無事幕を降ろすことが出来た。そしてこの企画展に携わったことで、色々なことを知り、多くを学んだ。
 アンケートの集計結果を見ると、ポスター・チラシを見てこの企画展を知ったという方が大変多かった。いかに地道にこの基本的な宣伝活動をするかという事の大切さである。
 先日“アートボード”の定期総会に初めて出席した。“アートボード”とは、地元の方ならご存知の方もいらっしゃるでしょう。高知の繁華街、帯屋町商店街のアーケードの1本南側おびさんロードで(みずほ銀行裏側)展覧会やイベントのポスターを貼れるガラス扉付、鍵付の掲示板のことである。街行く人がちょっと足を止めてポスターを眺めてゆく。14,5枚違ったポスターが並んでいるので、自然と人々は興味のあるポスター前に立ち止まる。当記念館も、「幕末写真館」展から利用させていただき、総会参加への運びとなったわけだ。アートボードもこのシステムを始めて10年目を迎えるそうである。年に1度は「いい感じポスター展」も開催し、街行く人達にその年に展示されたポスターに投票をしていただき、「いい感じポスター賞」を表彰しているそうである。
 それぞれ皆さん高知を楽しめるよう、また好い街になるよう、思いを込めて創意工夫をされていることがひしひしと伝わってきた。そして、やはり地道に活動されている。
 今年は5月25日に「いい感じポスター展」が「おびさんマルシェ」に参加して開催されるそうだ。興味のある方はご覧になってみてはいかがだろうか。
 願わくば、アートボードのようなものが、街中あちらこちらに設置されると、高知市の繁華街にももっと活気が出てくるのではないだろうか??
 とにもかくにも、まずは龍馬記念館のポスターをあちらこちらで目に触れられるようにしていきたいと思っています!

独り言Ⅹ

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 人と人との繋がりは出会いから、あるいはモノとの関わりも出合いから始まる。「幕末写真館」展の写真を通して私は一人の女性の存在を知った。奥村五百子である。この企画展に関わるまでは、顔はもちろん恥ずかしながら名前すら知らなかった。けれど何故かこの女性に惹かれた。
 幕末から明治の時代を生き抜いた奥村五百子は、幕末の尊皇攘夷運動、自由民権運動、朝鮮半島における農業指導に学校建設、そして愛国婦人会の創立者であった。乱世の中を多彩に生き抜いてきた奥村女史だが、一貫して言えるのは「供養と援助の精神」をモットーにひたすら己を捨てて人のために生きてきた人物であるということ。写真で見る限りその目から意志の強さ頑固さは十分に感じられる。けれども男勝りというよりは静かで穏やかな印象を受ける。幕末にもこのような女性が居たことを教えてくれたのも、元をただせば龍馬である。「幕末写真館」展に携わらなければ、もっと言うなら坂本龍馬記念館で仕事をしていなければ知りえなかったことである。出会いとはそんなものであり、人生を豊かにしてくれるものに他ならない。
 4月からは「龍馬・出会いの達人」展も始まります。しかしその前に、皆様も写真との何気ない出合い、してみてはいかがでしょう!?

独り言Ⅸ

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 現在開催中の企画展「幕末写真館」展準備のために、久しく独り言から遠のいていた。約4ヶ月の準備期間をひたすら走り続けて、12月17日のオープンを迎えた。4週間を過ぎようとしている今、来館者の皆様が回答してくださるアンケートが面白い。質問の1つに「お好きな写真がありましたか?」という項目を設けてある。今のところ、龍馬と土方が人気を集めている。もちろんその他の写真の表記もある。最終的には集計をとって結果発表をするつもりでいるので、皆様も1度来館されてアンケートにご参加いただければと思います。
 さて、140点あまりの写真に囲まれ過ごしている数ヶ月、色々な経験が出来たことに感謝している。幕末というわずか15年の間に立場はそれぞれ違えども、皆信念を持って未来の平和のために行動していた。人のために命を捧げ、散って行ったひとりひとりの眼差しに触れることも出来た。今回の企画展においても色々な方々の何気ないご協力を得て、無事初日を迎えることができたことは本当にあり難くうれしい。とかく自分のことしか考えられない自分勝手な話を多く聞く現代の世の中で、私も含め人のために何かするということを、大げさでなくさりげなく出来ればいいと思う。

独り言Ⅷ

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 一日一日が、最近本当に早く過ぎてゆく。12月17日(月)から始まる「幕末写真館展」の準備に追われているせいもあるだろう。とはいえ、色々な処からお願いしてあった古写真が次々と届く日々は楽しいものである。古写真とはいえ百数十年前の写真にもかかわらず実に鮮明であり、被写体を眺めていると確実に何かを語りかけてくる。そう、無言の声を感じることが出来る。

 ところで、コンサートへ行くとほぼ毎回思うことがある。それは演奏者の演奏がまだ終わらない内に、我先にと拍手をする人が大概いるということである。演奏者が最後の音を出した途端に拍手するなんて、折角の演奏が台無しである。音には余韻というものがあり、その響きの余韻はまだ演奏の一部であって、奏者は当然そこまで聞かせていると思うのだけれど。先日赴いたコンサートでも、わずかな余韻を楽しむことなくせっかちな聴衆が多かった。どうして急ぐのと言いたくなった。演奏者が同じことを言っていたのを、何かで読んだこともある。

 余韻を聞いたり感じたりするのは、何も音だけではなく五感で感じ味わうものである。とはいえ、今の世の中余韻を味わうなどと優雅なことを言っていられないほど余裕がないのかもしれない。けれどもせめて、五感を楽しもうと自ら出向いた環境では、余韻を是非堪能してみてはどうだろう。
 そこで「幕末写真館展」では、幕末のあらゆる写真の中でどっぷりと幕末を体験し、当時を体感していただければと思います。そして、願わくば何らかの余韻を是非ご自分なりに味わっていただければ幸いです。

独り言Ⅶ

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 近江屋のセットが復元設置されて1週間が経った。その間お客様の色々な表情を見ることが出来る。セットの中へ入り、火鉢の所に座って写真を撮る紳士二人組。写真を撮ってもらっている人は、実にうれしそうに胡座を掻きポーズをとっている。撮る側も撮られる側も少し照れくさそうではあるが本当に楽しそうないい顔をしていた。
 またある時は、家族連れ3人が小さなお子さんを真中に火鉢を囲んですっかりくつろいでいた。団欒の風景である。思わず微笑ましくなってしまったけれど…。当時からは想像も出来なかった未来予想図だと思う。写真を撮ってみるもよし、くつろぐもよし、登場人物のシュミレーションをするもよし。ただ忘れないで欲しい。あくまでここは暗殺現場近江屋の復元セットの中だということを。
 私達は歴史の積み重ねの途上に存在している。過去がなければ現在もない。現在がなければ未来もない。ごくごく当たり前のことだけれどとても重要なことである。人類はあらゆることに進歩を遂げているが、人間の本質は遥か昔から何も変わっていないと思う。
 進歩とは逆行して世界規模で、いや地球規模で破壊から崩壊へと向かっていっている気がする現在。されど人間は変わらない。
 記念館を訪れ、龍馬を思い、龍馬に語りかけ、あるいは龍馬に問いかけ、答えを見つけて館を後にする方も多いようだ。歴史の途上から過去の声を体感してみてはいかがだろう。
 今後、近江屋では各方面からの対談も予定している。乞うご期待!

独り言Ⅵ

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 先日上原ひろみのジャズライブに行って来た。もの凄いエネルギーとパワー溢れる演奏だった。
 彼女のMCにこんなコメントがあった。
 「四国に来るのは生まれて初めてです。
 空港に着くと同じ顔がいっぱいあって、メンバー(彼女以外3人共外国人)にあれは誰と聞かれました。
 龍馬といって有名なお侍さんと答えました。(客席からは、坂本龍馬と言う声が嬉々として挙がった。)
 そしたら何人位殺したの?と聞かれたりして…???。
 今度来る時はもっと色々勉強してから、また来たいと思います。」
ここでも龍馬が登場した。

 ドラマ、舞台、ミュージカルと、昔から色々な役者が様々な演出で龍馬を演じている。9月からは歌舞伎座で市川染五郎が龍馬を演じるそうだ。単なる“九月大歌舞伎”の出し物というのではなく、染五郎のライフワークとしての演目にするそうだ。

 当記念館には、来館された方々に自由に書いていただく【拝啓龍馬殿】という用紙を置いてある。そこには悲喜こもごもの思いや人生が真摯に綴られている。中には龍馬に思いを寄せて、子供の名前に龍馬あるいは竜馬と名付けたというご両親の文面も見かけたりする。
 職員の間でも龍馬の普遍性が話題になった。名前一つ取っても龍馬は昔も今も全く古さを感じさせない名前なのであると。混沌とした現代に、140年前の龍馬の思想がそのまま通じる2007年。そして、多くの人々が龍馬の行動力と人物像を渇望している。

 龍馬のドラマ性にしても魅力ある普遍性にしても、この話を聞いていて私はすぐにW.シェイクスピアが頭に浮かんだ。分野は違えども戯曲の物語性において、役者なら誰もが一度は演じてみたいと思う登場人物がてんこ盛りなのである。そして演出家に至っては、時代を全く感じさせない普遍的な内容に魅了され、やはり一度は演出してみたい戯曲なのだそうだ。
 シェイクスピアは龍馬より300年早く生きた劇作家であり、戯曲を通してその時代と世相を鋭く描いた人物である。そして時代を超えて今尚、国内外どこかの舞台では、必ずと言っても過言でないほどシェイクスピアは上演されている。

 龍馬の生まれた日と亡くなった日が同じなら、シェイクスピアもまた、生まれた日も亡くなった日も同じである。(と言われているが、実のところは洗礼受けたのが誕生日の3日後と言うことはわかっているが、誕生日が果たして定められた日かどうかは、はっきりしていない。)

独り言Ⅴ

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  “良心市荒らし続々16人 張り込み1カ月被害89円で逮捕も”
5月末の高知新聞の見だしである。その記事は“良心足りず、帳尻合わず―。”と言った書き出しで始まる。皆さん良心市というのをご存知だろうか?農家の方達が道路脇に小さな小屋を設け、無人で野菜を売っている市である。支払は料金箱がそこにあり代金をいれるといったしくみである。高知市外の道路を車で走っていると時々見かける心安らぐ風景である。
 記事の内容によると、売上金が不足したり、料金箱が壊されて現金が盗まれるなどの被害があり、高知署が張り込み捜査を続けた結果、正規の料金を払わなかった16人のうちの1人を89円不足で現行犯逮捕したそうだ。この話を聞いた市民の1人が「・・・前略、ある日は小銭がちょうどなくて50円多く、ある日は50円少なく払うことだって許されるのが良心市。そういうことが許されなくなる良心市なんて、世知辛過ぎる。」と話していたそうだ。

 路線バスに乗って1万円札を両替出来なかった乗客に、運転手さんが「次回一緒に払ってくださったらいいですよ。」と言ってくれたという話も聞いたことがある。

 私は銀座でお財布をなくしたことがある。(実はその後戻って来たのだが。)いくら探しても見つからず、結局交番で電車代を借りた。お巡りさんに「どこの交番で返して頂いても結構ですから。」と言われた。恥ずかしかったけれどありがたかった。その後、近所の交番へ戻しに行った思い出がある。

 関東のある小学校では父兄のクレーム対策のために弁護士を依頼する事にしたというニュースも耳にした。クレームのあまりにも身勝手な内容と常識のなさに情けなくなってしまった。

 未来を担う子どもたちのためにも先人の培って来た日本の心を見失ってはいけないと思う。そして、田舎と都会では状況が大違いだけれど、いずれの場合にせよ人と人との信頼・信用があってこそ成り立つ話である。いつの時代にも人間性は確実に問われるのである。

 最近の“独り言”には明るい話題が少なく、批判めいたものもある。けれども私自身、この世の中にいろいろな意味で危機感を感じているのも事実であるから。

独り言Ⅳ

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 ある番組で飛び出す絵本の珍しいものを紹介していた。
 1つ目は“不思議の国のアリス”だ。1ページ1ページ、ページをめっくた瞬間に、アリスと背景が、勢いよくポップに平面から現れる。まさにワンダーランド!
 2つ目は東京写真美術館に収蔵されている約160年前のもの。大英博覧会の様子を描いた10枚のイラストがじゃばらに折りたたまれており、それを広げて手前の丸い穴から覗いて見るとそこはもう博覧会!思わず心が踊ってしまう。160年前と言えば龍馬も生きた時代である。
 3つ目は絵本を開いても何も飛び出さない。そのまま見ても良くわからない。この絵本を見るためには装具を通して見るのである。目に付けて絵本を再び眺めると、そこには3次元が動いている。絵本のタイトルははっきりと覚えていないけれど、まさに仮想空間の世界である。

 3種類の絵本にはそれぞれの時代性と特徴が顕著に表れていると思う。私たちのまわりにも、生まれては無くなりもてはやされては忘れ去られるものが数限りなくある。街の風景でさえも2~3年サイクルでどんどん変化して行く。昨日まで見かけた街の店舗や建築物が、ある日突然消えて無くなっている。すでに新しい建物が建っていようものなら以前何がそこにあったかさえも思い出せない。

 瞬間瞬間が過去になって行く私たちの日常生活の中で、人々の心に本当に残るものとはいったいどんなものなのであろう?すぐに消えて無くなるのではなく、時代を超えて現代から未来へ残るもの。少なくとも私はそういったものを探求したい。

 「・・・天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
  ・・・時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」
 司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』の最後の言葉である。

独り言Ⅲ

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 先日、当記念館の英語パンフレットをリニュアルするにあたり県の国際交流員の方にご協力頂いた。その方の流麗な日本語にはとにかく脱帽した。また同時に微妙で婉曲的な日本語の表現の美しさを再認識した機会でもあった。日本語の奥底にあるニュアンスをダイレクトな表現が多い英語に訳すのはやはり難しい。けれどもそのニュアンスをきちっと相手の方に理解していただけるように説明出来れば、的確な英語の表現を提案して下さる。

 昨今、若者の間で使われている言葉を耳にしても、私なんかすぐにはピンと来ない。若者に限らず巷で話されている言葉にもへんてこりんな日本語がたくさんある。言葉は生き物であり、時代は変遷して行くものなのでそれがいいとか悪いということでは勿論ないけれど・・・。

 携帯電話もほとんどの人達が所有するようになった。受信者の人々が周りを気にせずどこでも話しをしている光景も珍しくなくなった。館の中だと更にその声は響き渡る。何かの事件で「携帯電話を持っていなかったのでその人が印象に残った。」と証言していたのを聞いたことがある。今や携帯電話を持っていない人は好奇に見られる時代なのである。公衆電話が無くなるのも時間の問題だ。

 日々一刻一刻と前進して行く世の中、日本の良さとかつての日本人の心の在り方が刻々と失われてしまっている気がする。日本は何処へ行くのだろう・・・?

独り言Ⅱ

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 ストレスの解消法やリフレッシュの仕方は人それぞれ色々な方法があると思う。因みに、私の場合は芸術鑑賞である。アート、音楽、舞台など、とにかく自分で見たいと思ったものを観ることである。そしてその鑑賞したものが本当に良いものであった時、頭のてっぺんから爪先まで体内が浄化され至福の時を過ごした事が、その余韻と伴に心の糧となっていく。

 現代では何事においても選択肢が非常に広がって来ているので本当に良いものを選ぶことの方が難しいかもしれない。けれどもそれを選択し、見極めるのは自分自身である。その目を養うにはとにかく本物をたくさん観る事に尽きると思う。

 先日ある人物が描いている作品を見せてもらった。風景の色が今一つ納得いかないと話していた。そして、ある美術展に赴いた後再度描き始めた作品は、大胆に色合いが変わり、明らかに以前とは異なっていた。
やはり「いいものを観なくてはね。」という話に落ち着いた。

 自分の目を養うには一足飛びには無理だ。ある程度時間をかけて自分の感性を磨く外ない。それは経験にも繋がる事だから。
 作品選びには、マス・メディアの影響も多大だと思う。けれどもそこに書かれていることを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の目で鑑賞してみるべきである。書かれていることと全然違った感想を持つことだって勿論あるのだから。

 高知は悲しいかな芸術的要素の選択肢が実に狭い。寂しい限りである。そうなると県外まで足を運んでしまう。そうではなくて,高知に居ながらにしてせめて中央で見られる水準と同じものを鑑賞出来るようになって欲しいと思う。
 幸い、当記念館は県外からの来館者が多い。他に要求するのなら、当記念館も常にレベルアップを図り、自分自身の目を養える記念館の1つでありたいものである。

 私がこの記念館に来た当初からずっと気になっていたのが月琴という楽器の存在だった。果たしてどんな音が出るのか?非常に興味深く思っていた。そんな思いに答えてくれるかのように、1月28日、夕刻、桂浜荘の地下ホールでオカリナと月琴のコンサートが開かれた。お客様も160名近くの方が足を運んで下さり、その未知の音色への関心の大きさが感じられた。

 本谷美加子さんのオカリナと大村典子さんのサウルハープの演奏が始まると、えも言われぬ心地好い響きが会場を包み込んでいった。
 サウルハープの“サウル”という名称は旧約聖書から由来しているそうで、絵画などに見かける、膝の上にかかえて演奏出来る位の大きさの發弦楽器である。その音色は限りなく豊かで愛らしい。

 そして月琴もリュート属の發弦楽器であり、中国の阮咸から派生したもので義甲を用いて演奏する。音色はと言うと、“ドレミファソラシド=ヒフミヨイムナヒ”のファとシにあたる“ヨとナ”を抜いた“ヨナ抜き音階”で演奏される。その少し調子はずれのたどたどしい音色にはリュートほどの響きはなく、三味線のような強さもない。けれども爪弾かれる音の世界には幽玄の世界が深く漂っていた。
 140年以上も前の江戸時代末期に、龍馬のために奏でたお龍さんの月琴の音色。月琴は聞く側の想像力が膨らめば膨らむほど楽しめる楽器だとも思う。まるで音を耳にして舞台を見ているような気分になった。

 もっと色々な月琴の音色を聞いてみたいという想いが募る。前にも増して月琴の背景と魅力を探求してみたくなった。

それぞれの日の出

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 あけましておめでとうございます。2007年の幕開けを皆さんはどこで迎えられたのでしょう?
私たち職員は、全員で記念館の屋上展望台に上って日の出を待ちました。冷たい風を頬に受け、彼方の薄雲がかかっている天空をひたすら期待を抱いて見つめていました。日の出を待つそれぞれの姿と表情は十人十色、皆個性的で豊かです。
 海上には帆を張ったヨットが何隻も滑り出しその時を待っています。やがて黎明色の空が刻々と白み始め、瞬間真赤な太陽が頭を出しました。どよめきと歓声の中、太陽はどんどん大きくなっていきます。私は思わず拍手を打って‘世界が平和でありますように’と祈りました。

 記念館では“坂本直行展”の作品展示替えも行い3月31日(土)まで開催しております。また、1月28日(日)午後6時からは“オカリナと月琴”のコンサートもお愉しみいただければと思います。

 雄大な日の出と共に1年がスタートし、多くの方々が記念館を訪れて下さった2007年元旦。皆様にも幸い多き新年でありますように、本年もよろしくお願いいたします。

 先日、東京国税局が納税滞納者から差し押さえた品物のオークションを開いたそうである。その一つに、アリゾナ州で見つかった隕石が出品されていた。オークション価格のスタートは50万円からで落札価格が170万円。170万円も出して隕石を買う人もいるのねと思いながらニュースを見ていたら、何と落札したのは奄美大島の博物館の館長さん。その理由は「入館者を増やすための目玉にしたい。」という話だった。どこの博物館も、一人でも多くの方に足を運んで頂くことを切に願って色々な努力をされているのだと思った。

 さて、当記念館でも11月11日より「坂本直行展」が始まり1ヶ月が過ぎた。出来るだけ多くの方に、また龍馬の違った新たな側面をご堪能頂ければと言う思いで幕を開けた直行展であるが、様々な反響を頂き大変ありがたく感じている。

 直行さんの絵を見ているとその青色の使い方に目を惹かれる。インディゴ、コバルトブルー、ウルトラマリン等と多彩な青色の微妙な重なり合いが、底知れぬモチーフの存在感を表現している。
 私の好きな油彩の一枚に“ウブシノッタ沢とオホーツク海”という作品がある。沢の向こうに見える空と海の青色を眺めていると、まるで五感が響きあうようにその色の深さは静かに感性へと語りかけて来る。

 2007年1月1日から坂本龍馬記念館は開館します。元旦は、新年の日の出を脳裡に焼きつけ、当記念館まで足を伸ばされてみてはいかがでしょうか? 龍馬も眺めた高知の景勝と直行さんが描いた日高の絶景を是非ご自分の目でご覧になってみて下さい。

独り言

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 土佐弁にこんな言い方がある。「よーせん。」標準語にすると「出来ない。」という意味になるがニュアンス的には少し弱い。何か修飾語が欲しい。「どうしても出来ない。」と言ったほうが近い気がする。だからと言って、「絶対に出来ない。」というわけではない。そこには何パーセントかの可能性が含まれているような気が私はする。こういう風に標準語に直すと微妙なズレを感じる言葉が土佐弁にはいくつもあると思う。

 祖父母の時代に話されていた土佐弁が私たちの世代では、ほとんど使われていない言葉も少なくない。時代の変遷と共に言葉はもちろん変化して行くし、高知県内でも地域によって異なる表現もある。

 先日、ノーベル文学賞の発表があった。フランツ・カフカ賞を受賞していた村上春樹氏に期待が寄せられていたようだが惜しくも受賞は逃した。けれども村上氏の作品は、欧米やアジアなどの30を越える言葉に翻訳されており、現代の日本人作家として海外で最も広く読まれている作家の1人だそうである。
 方言1つを標準語にするだけでもニュアンスの違いが生じてくるのに、ましてや異国の言葉に翻訳される労力の蓄積ともなると、まるで言葉への果てしない冒険のようである。

 本来ならその言葉の意味する深さや表現は、その国の言語で理解するのが最良なのだろうけれどそれにも限界はある。それならば、少なくとも自らの想像力を出来る限りたくましく膨らませ、言葉の意味する世界を理解したい。

 言葉が持つ意味の重要性と想像力の希薄さを改めて考え直す昨今であった。

 『竜馬の妻とその愛人』というタイトルを耳にされたことがあるだろうか。脚本家三谷幸喜が劇団東京ヴォードヴィルショーのために書き下ろした作品で、舞台や映画になっている。昨秋、劇団東京ヴォードヴィルショーの舞台が高知でも上演された。再演に再演を重ねた役者陣の余裕ある芝居に、ほぼ満席の観客はすこぶる良く反応していた。この舞台が、丁度今月の5日~7日までジャパンソサエティの招聘公演としてニューヨークで上演されたそうである。
 海外で上演するに当たり「“坂本龍馬”をどのように紹介すればいいのでしょうか?」というマスコミからの質問に対して、「“チェ・ゲバラ”のような人物です。」と答えていたらしい。それが三谷幸喜氏の言葉なのか、劇団主宰の佐藤B作氏の言葉なのか私も聞いた話なので定かではないが、いずれにせよその答えに興味を持った。
 「坂本龍馬はチェ・ゲバラのような人物?」土佐に生まれた龍馬とアルゼンチンで誕生したゲバラ。どちらも偉大なる革命家であり、今なお人々の心に残る。龍馬は1867年33才で暗殺。ゲバラは1967年39才で処刑された。龍馬の死より丁度100年後のことである。そして両者ともその人気の衰えを知らない。
 来館者の中にもゲバラのTシャツを着ている方がいらした。この方は『拝啓龍馬殿』に、スペイン語でメッセージを残しており、氏名にも“チェ・~”とご本人の名前を書いてあった。ちなみに県外の方だが、2度目の来館だったそうである。
 ゲバラの遺体が発見された後、彼の次女や旧同志が受けた取材に、「チェ・ゲバラという人間の最も優れた資質は何だったと思いますか?」という質問に、「人を愛する才能です。」と皆が同じ返答をしたと本で読んだことがある。また、龍馬のヒューマニズムについては多くの書籍が物語っているように、龍馬とゲバラの相似している部分は、果たしてこんなところにあるのかもしれない。
 さて、「?」の回答は??

記念館初の展示品

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 7月1日(土)より、企画展“それぞれの幕末「龍馬、半平太、そして以蔵」展”が始まった。
 7月2日(日)Yahoo新着情報のトピックスに「岡田以蔵の所有とされるピストル公開」-毎日新聞と見出しが出ており、当記念館のホームページにアクセスしようとすると、込み合ってなかなか開けない状況だった。人々の関心の程が伺える。

 さて、その展示品「岡田以蔵のピストル」「武市半平太が自刃した短刃」「武市半平太の獄中書簡」は、どれも当記念館初の展示であり、是非この機会にご覧頂きたい。「岡田以蔵のピストル」は岡田家のご子孫より、「武市半平太が自刃した短刃」は高知県立歴史民俗資料館よりそれぞれ拝借したもので、「武市半平太の獄中書簡」は武市家関係者のご子孫より寄託されたものである。いずれにしても貴重な財産を拝借して展示させて頂いているわけで、何かがあってはそれこそ一大事。
 そこで取られた手段が、それぞれの展示品へ特注で作られたカバーを設置し、施錠する事にした。毎日朝のミーティングが終わると職員全員でこのカバーを外し、閉館後、またそれを元に戻す。2ヶ月の期間中職員全員に課せられた責務である。

 以前、アイルランドの絵画強盗について描いた映画と本を読んだ事がある。悪事とはいえ、その手口は鮮やかであり、信じられないほどの内容だった。
 とはいえ、やれるだけの事はきちっとやり、1人でも多くの方々に当記念館へ足を運んで頂ければ幸いである。そして、8月31日(木)まで開催している“それぞれの幕末「龍馬、半平太、そして以蔵」展”が、無事終了することを願っている。

心で聴く声

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 高知も先週梅雨入りをした。ジメジメとした天気がこれから1ヶ月ほど続くかと思うと気分も多少重くなる。けれども今年は少し様子が違う。4年に1度のサッカー・ワールドカップが時期を同じくして開催された。連日のようにメディアでも報道され、多くの人々が日本の勝利に期待を寄せている。この勢いと興奮の中にいれば、いつの間にか梅雨も終わりそうである。
 さて、当館でも6月はイベントが2つ催される。
 1つは、海の見えるギャラリーにてボーカルkasumi(秋山香純)の個展『うたから生まれた作品たち展』の開催に伴い特別イベント“MONOTYPE スペシャル LIVE”(6月17日[土]開演17:30)。
 もう1つは“女優・日色ともゑ『龍馬の手紙』を読む!!夕べ”である。
 演劇制作体地人会の公演で、何度も公演を重ねている『この子たちの夏』という舞台がある。演出家・木村光一が構成・演出し、6人の女優が被爆した親子の手記を読む朗読劇である。東京、各地を巡演しているので観劇された方もいるのではないだろうか。舞台は実にシンプルであり、時折バックのスクリーンに顔写真と書面が映し出される。その前に立つ麦藁帽子をかぶった女優たちの何層もの声が心に染み渡る。私も色々な舞台を見て来たが、観劇中にこれほど涙を流した舞台もそうは無い。
 劇団民藝の役者である日色ともゑさんも『この子たちの夏』に出演されていた。良く通る澄んだ声で、真実の悲しさを真っ直ぐに伝えていた姿が印象的だった。
 6月24日(土)開演18:00、日色ともゑさん朗読による『龍馬の手紙』の声の世界を、是非味わってみてはいかがでしょう!?

小さな訪問者

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 4月からこちらへ勤務するようになり色々なことが新鮮である。
 その一つ、2階で仕事をしていると、時々コツコツ、コツコツと物音が聞こえてくる。最初は何の音だろうと思っていたのだが、それはものすごい勢いと速さでガラスの壁面をつつく小さな訪問者、シジュウカラのガラスをつつく音だった。
 ほとんど毎日のようにどこからか飛んで来てはガラスをせっせとつついている。キツツキのような鳥の習性なのか、それともガラスに写る姿を見ているのかその目的はよくわからない。けれども小さな身体から出されるその力強い音には生命力と存在の頼もしさを感じる。
 そーと近付いて行くと、いつも飛び去ってしまう。でも明日もまた海風に乗って遊びに来るのだろうかと想像するだけで、優しく豊かな気持ちにしてくれるのである。

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