の最近のブログ記事

5年ぶりの登場です。
本当に久しぶりだという反面、5年前、5年間が今しがたのようにも感じられます。
今、念願の記念館リニューアルや、本格的な博物館建設が具体化し、あの頃もその頃もあのときもこのときも、過去のことが言いようもなく愛おしいものに思えるのは感傷的すぎるでしょうか。
例え感傷的であっても、改めて記念館や周辺を眺めると、自然も人もいっそうかけがえのないものに思えます。海、山、空の刻一刻を映してきた記念館。月も太陽もトンビも機影もこの上に在りました。
オレンジとブルーの建物は、この大きな自然の中ではっきりと存在感を表しています。夕刻、西側のガラスに映った空と海、2色の鮮やかさも格別です。設計者高橋晶子さんにその話をすると「西側は夕陽をイメージしたのよ」とおっしゃるが、その光景は作者の想像を超えるほど見事なものです。高橋さんのご実家は富士山の近くにあります。大きな富士山を見ながら育った高橋さんが、大きな海を正面に記念館を設計しているというのも妙味ですね。

さて、ゴールデンウィーク、立夏も過ぎました。感傷に浸っているわけにはいきません。"龍馬生誕180年"の年ですから。
まもなく5月23日(土)には第7回『現代龍馬学会』を開催します。北海道、長崎からの方も参加して会員6名が「龍馬生誕180年・原点再考」をテーマに研究発表をします。また、基調講演は、ノンフィクション作家・小松成美さんが「坂本龍馬が築いた日本人のプライド」と題してお話くださいます。龍馬大好き!と公言する小松さんの視点は興味深いですね。交流会もあります。
続いて30日には桂浜の龍馬像米寿のお祝いです。

8月はなんと言っても『よさこい』です。「桂浜・龍馬プロジェクトぜよ!」も張り切っています。
8月15日には第3回終戦記念日に誓う『子ども龍馬フォーラム』。戦後70年、小中学生とともに私たちは今、何をすべきかを考えていきます。キラキラ光る子どもたちの目を見るだけでも希望が感じられそうです。ハワイからの参加者も...。
ともに会場はお隣の桂浜荘で。参加自由、参加費不要です。ぜひ気軽にご参加ください。大きな手応えがあるはずです。

※当館主催行事の詳細はHPで。

龍馬と啄木

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weblog-100711.jpg 2階企画展示コーナー入口に龍馬のろう人形がいる。龍馬さながらのろう人形に歓声をあげて写真を撮る人は多く、なかなかの人気スポットだ。無精ひげもあってそのリアルさに「コワイ」と泣き出す赤ちゃんもいるくらいである。
 いつもなら一人でいる龍馬に3ヶ月近く、石川啄木のロボット人形が寄り添っていた。この啄木ロボットはしゃべることができるそうだが、龍馬に遠慮したのか記念館ではおしゃべりすることはなかった。33歳の大きな龍馬は、小柄で色白の啄木と並ぶとちょっとおじさん風に見える。啄木は28歳の若さで亡くなっているからだろう(ともに数え年)。
 
 「龍馬と啄木展~明日の風景」も残すところあと数日。何の接点もなかった二人が"言葉と歌"でつながり、新しい顔を覗かせてくれた。この間、みちのく岩手と土佐の高知が交流をはじめ、両県が一緒になってKI(カイ)援隊が動き出した。遠い土地が近くなった気がする。
 8月1日から石川啄木記念館(岩手県盛岡市)で「啄木と龍馬展~二人の目線」が始まる。10月には岩手県一関市で「全国龍馬ファンの集い」が開催される。龍馬が岩手とつながっていく。楽しみだ。
 
石川啄木記念館HP  http://www.takuboku.com/

weblog-100623-1.jpg6月19~20日、高校生洋上セミナー「われら海援隊!」を開催した。「風になった龍馬」関連行事で、20人の高校生が航海体験を通して、自分の夢を考えたのである。

乗り組んだ船は高知県・教育実習船"土佐海援丸"。150年前にアメリカに渡った咸臨丸と同じくらいの大きさで、2ヶ月間のハワイ航海実習も行っている。

"土佐海援丸"は高知市タナスカ港から出航し、土佐清水市あしずり港へ入航する予定だったが、梅雨前線の影響をもろに受けて、万次郎が漂流のときに出港した宇佐沖でUターンすることになった。

浦戸湾から外洋へ出ると、大きなうねりが船を直撃した。船首に波しぶきが上がる。陸地とは勝手が違い、高校生たちは(私も)船酔いに苦しんだ。それでも「楽しかった」「貴重な体験だった」「仲間がいたから乗り越えることができた」と、20人の高校生たちは笑顔で下船していった。順調な航海でなかった分、学ぶことは多かったと思う。

weblog-100623-2.jpg人生は決して順風満帆ではない。それでもあきらめずに前進できるのは仲間がいればこそ。20人を支えるのは倍近い乗組員やスタッフである。「誰一人かけても船を動かすことはできない」「自然の中で感じる恐ろしいという感覚は大事だ」。寡黙な船長が語る言葉は胸に響いた。=第2回は7月24~25日開催=

★次のサイトとブログでも紹介されました。
http://www.ryomakaido.com/2010/06/4068 
http://sakamoto.moeruhito.com/e1513.html

 

北の国から

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 「お客様がお待ちかねです」という職員に促されて応接室に入ると、「浦臼から来ました」と立ち上がった客人。恰幅のいい北海道浦臼町長・岸泰夫さんであった。
 浦臼は龍馬の甥・直寛が移住したところで、郷土史料館など町内には龍馬関係資料がある。『龍馬伝』によって北海道でも龍馬ブームに火がついていて、浦臼も例外ではない。"お宝"のある史料館の龍馬コーナーはリニューアル。入館者は2倍になり、問合せも頻繁らしい。石狩川近くの小さな町で龍馬が動いている。
 龍馬の子孫を紹介した「海援隊約規物語展」(2008年10月~2009年3月)では町内の資料をお借りし、昨年は同町・個人の方から一番古い(一番若い)龍馬の手紙の複製を作成させていただいた。浦臼は当館にとっても大切な町である。
 岸町長は、翌日姉妹町・長岡郡本山町の開町百周年記念行事に列席されるという。「一度も来たことがないから」と少ないスケジュールを繰り合わせて来てくださった。話の後、閉館前の館内をざっと一巡りし、足早に出て行かれた。
 龍馬は今、日本中を駆け巡っている。

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一番若い龍馬の手紙(複製軸装・安政5年7月ごろ)前の岸町長

4年ぶりの再会

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weblog0993-3.jpg この夏、懐かしい人たちに再会した。ともに4年ぶり。時間や距離の隔たりなんて感じない、うれしい時間であった。
 8月初め、記念館の設計者、高橋晶子・寛ご夫妻が設計関係の方たちとともに来館された。晶子さんは2年くらい前に、武蔵野美術大学のゼミの学生たちと来てくださっているが、寛さんとはあのとき以来である。
 4年前の光景を私ははっきり覚えている。閉館後の夕暮れ時、記念館南端の"空白のステージ"。ベンチに座って三人でいろいろな話をした。
「私たちにとってこの記念館は自分たちの子どもなんです」という晶子さんと、横で頷く寛さん。それは、晶子さんと同年の私には心に残る言葉だった。
 今回この話をしたら、「よく覚えていましたね。そうです、この記念館は私たちの子ども、しかも一番初めの子どもなんです」と晶子さん。
 4年間で記念館はすっかり変わった。「龍馬の入口」というコンセプトは「龍馬の殿堂」へ。館内の様子も展示だけでなく様々に変わった。椅子ひとつこだわって配置してきた高橋さんにとって、今の状態はどんなに映るのか。
 weblog0993-2.jpg「パソコンに例えれば、何もないPCにどんどんソフトや情報が入っている感じ。これからの変化も楽しみです」。"わが子"を見る親のまなざしは温かい。
 かわって長崎。8月末、あるNPOに呼ばれて話をして来た。
何も連絡していなかったが、長崎龍馬会の方たちが、私の長崎行きを知って集まってくださった。龍馬を辿って歩き回った4年前も暑い日だった。あのときのメンバーである。
 とりとめのない話の途中、この日の講演内容を聞かれて話す私にじっと耳を傾けてくださる面々。ふるさとに帰ったような安堵感が広がるのを感じていた。
 再会2題。歳月はまろやかに熟成しているようだ。

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 “高知の台所”と言われる大橋通り。かつては(というほど昔でもないが)、天ぷらを揚げる店や魚屋の呼び込みの声が響き、夕餉の買い物客で賑わっていた。こぎれいなアーケードになった今、往時の活気は感じられない。前掛け姿の元気なおんちゃん、おばちゃんたちが行き交っていたあの頃が懐かしい。
 この大橋通りから追手筋に抜ける一角に“ひろめ市場”がある。開設以来10年が過ぎ、県民や観光客の人気は高い。アジアの屋台街を彷彿とさせるここに高知の食と元気が集まっているようだ。
 もとは幕末の土佐藩家老、深尾弘人(ふかお・ひろめ)の屋敷跡で、ひろめ市場ができる前には“ひろめ屋敷”とか“ひろめ”とか呼んでいた。近くの高校に通っていた私は、“ひろめ”にあった太鼓まん(まんじゅう・大判焼)屋やパン屋、本屋などによく通ったものである。
 そんな思い出もあるひろめ市場の一角。私は毎月第4木曜日、『龍馬を知ろう・語ろう会』と銘打つ会で話をしている。へんしも会主催で、4月から1年間の予定。「へんしも」とは土佐弁で「急いで、すぐに」の意。いいことはすぐに実行!という、ひろめ市場テナント会の女性たちが中心である。
 お城のすぐ下、吉田東洋や武市瑞山殉難の地もすぐ近く。ひろめさんは山内容堂の信頼が厚く、東洋の施政にも貢献した人。追手筋界隈には幕末がいっぱいある。
 天ぷらやお惣菜の匂い、混沌としたざわめきに包まれながら龍馬を語る。実に土佐風で面白いものである。
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 4月18-19日の2日間にわたって開催された「第一回現代龍馬学会」が終わった。準備から1年、立ち上げから半年。いよいよ総会が始まるんだという2日前の緊張は晴れ渡った空に消えていった。初夏の海も目に鮮やかである。

 『何もかもが混迷を極め、未来へのヴィジョンが失われてしまったかに見える現代。坂本龍馬の思想と行動に学び、その精神を今日に生かそうとして、高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会は発足した』。
 7人の研究発表者の一人として、また、現代龍馬学会発表のトップバッターとして、私も演台に立たせていただいた。与えられた時間は短いけれど、掘り下げれば内容はどこまでも深い。どういった発表にするべきか、ずぼらな私なりに少しは悩んだ。
 諸先輩、諸研究者の発表の口火切り役であるということは、初めて甲子園のマウンドに立つ高校球児のような気持ちである。しかも初めての龍馬学会。が、マウンドにいる神様(龍馬)も一緒なので何とかなるだろうという気持ちで臨んだ。

 1日目の総会、発会式のあと、自分の発表を終え、他の発表を聞き終わったとき、えも言われぬ気持ちの良い風が吹いた。
2日目、分科会での討論。西村直記さんのトークコンサートの後の総括と宣言文発表。2日間を終えた会場に、充足感が加わった心地よい風が吹いた。
 『三十三年の生涯で龍馬が夢見たもの、それはヒューマニズムに根ざした新しい日本の建設だった。道義が廃れ、理想が失われつつある現代、龍馬の意志と情熱を受け継ぎ、私たちの時代と社会を見つめ直していきたい』。
 『  』は2日間を終えた現代龍馬学会の宣言文(部分)である。学会とともに記念館の方向性が端的に表されている。いよいよ龍馬の風が吹く。

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札幌・坂本家に伝わる葛篭(つづら)を「坂本家の居間」に展示している。
蓋つき、木製、クロス張り。
「坂本」の金文字が印象的だ。
明治末期から大正時代の初めに郷士坂本家7代当主・坂本弥太郎が作り、活用したもので、かつては20個以上あったのだろう。
龍馬の資料もこの葛篭に入って北海道内を移動していたのかと思うと胸に迫るものがある。
葛篭には無造作に「坂本 桂 山内容堂 武市半平太 中岡 勝海舟 吉村虎太郎」というシールが貼られているが、この中には弥太郎が集めた画家・公文菊僊(きくせん)の描いた肖像画が入れられていた。
坂本直寛(龍馬の甥)に認められただけあって、婿養子の弥太郎は熱心なクリスチャンで、実業家としても大成した。坂本家への執着も強く、彼によって坂本家や龍馬資料は守られてきた。

直寛の長女・直意との間に10人の子どもがおり、その時々、正装した家族写真には弥太郎の意気込みが撮られている。
ここ数年、弥太郎さんをはじめ古今の坂本家の人々とおつき合いさせていただいた。
写真を見れば、誰がどんな様子だったのか、だいたい分かるようになった。
坂本家に対してどこか懐かしい親戚のような気持ちも生まれている。
龍馬精神を受け継いできた坂本家の人々や、海援隊約規についての半年に及ぶ企画展示はまもなく“千秋楽”。
土佐に旅した葛篭とともに、龍馬の資料や高松太郎らの遺品が北海道へ帰っていく。別れと出会いの春である。
さて、次の企画展は「近世土佐の焼物」展(4月1日~7月17日)。
名品、逸品が並びます。乞うご期待!ぜひご覧ください。

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春めいてきた。
張り詰めたような弧が緩み、水平線がかすむ日がある。
三寒四温を繰り返しながら、確実に春は来ている。 
入館者の服装もずいぶん軽くなってきた。
3月3日ひなまつり。2階の一角に、短歌愛好家たちの「乙女姉やんのひなまつり」という小さな展示が行われた。
70代から80代(もしや90代も)の方たちが張り切って色紙に書いた短歌を持ち寄ったもの。
失礼ながらお世辞にも"上手"とは言えないが、館長同様、龍馬も乙女姉やんも苦笑していそうなくらい元気がある。
龍馬ファンの方たちらしく、昨年の龍馬像建立80年の時も、記念の5月27日に賑々しくお祝いの会を自主的に開催された。とにかく元気。記念館でやるのが一番ふさわしいという意気込みがメンバーにあふれている。
中には最近まで九州で学ぶ高校生の孫を毎週末ごとに高知から送り迎えしたという70代の方もいる。
おばあちゃんパワーはすごい。
介護だ、デイケアだと、福祉施策がかまびすしく言われた時期が去り、今は派遣切りにニュースは集中している。ニュースが騒いだ後にいったい何が残るのか。
生きるということはブームではなく生きるという現実である。
語呂合わせのような短歌に苦笑しながら夜間に色紙を貼ったが、若者に負けない元気なお年寄りたちの姿はうれしい。老いていく両親を見ている身にはうらやましくもある。
「館長さ~ん」とやってくるおばあちゃんに、「もう来んでもえい」と館長。言われても屈せず、かくいう館長も追い返すではない。おばあちゃんのめげない精神に笑いがあふれる。
春の光が明るい。

隣の熱気

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 今アメリカが熱い!
 世界中がオバマ大統領を注目しているからだ。
 それは私のようなアジアの一市民を含めた多くの人が疲弊し行き詰まった世界への「change変化」を求め、「Yes,we can!そう、できるんだ!」と、熱い思いを奮起していることに他ならない。
 ホワイトハウスに黒人の大統領が入ることの凄さ。アメリカは今、独立宣言当時の原点に返ろうとしているかに見える。久々の感動である。
 有名なリンカーンのゲティスバーグ演説にある「人民の人民による人民のための政治」。明治時代、自由と平等を掲げ土佐から起こった自由民権運動家たちの思いであり、昭和には日本国憲法に引き継がれた民主的な言葉である。その言葉を胸に、オバマ大統領は進む。
 私が子どもの頃、アメリカは輝いて見えた。アトムとともに育った私たちはアポロの活躍に心躍らせ、アメリカに自由と平等、明るい未来を感じることができた。アメリカ留学をする友が眩しかった。
 アトランタオリンピック(1996年)では、キング牧師の“夢”を思い出したが、それもつかの間、私たちはアメリカへの失望を大きくするしかなかった。日本の政治が彷徨し始めてからも長い。
 今、忍耐と理想主義を掲げながら新しいアメリカを再建しようとするオバマ大統領や米国民の熱気が海から伝わってくる。その波動は大きいようだ。
 西部劇を観、フォスターを奏で、古き良きアメリカを愛する父は、子どもの私によく言った。高知の隣はアメリカ…だと。ジョン万次郎に教えられたのかもしれない。事実、この海の向こうにはアメリカがあるのだ。
 大統領就任式を前に、私はそのことを強く感じている。

 正月恒例の箱根駅伝を見た。
 といってもテレビ観戦なので、CMが入ったり、途中コーヒーを淹れたり、別のことをしたりで、始終見ていたわけではない。寒風の中の観戦と違って、箱根の山や大手町など盛り上がった場面だけの応援は安気なものである。
 それにしても今年はいつもに増して、全ての走者の健闘を讃えたいという思いが強かった。
 ダークホースだった勝者・東洋大。早稲田アンカーは2位にもかかわらず仲間に申し訳ないという仕草でゴール。選抜チームの踏ん張り。棄権となり記録に残ることがなくても走り通した城西大。選手に選ばれた者、選ばれなかった者。大学生が一本のたすきをつなぐために200キロ余りの道をひたすら走る感動に理屈はいらない。
 勝敗へのこだわりと走ることへのこだわりは同じものなのだろう。順位によらず、たすきを渡し、受け取る選手の顔には走ることへの誇りがにじんでいる。
 一本のたすきに託す夢と誇り。
 時代も同じだ。一人の力で歴史はつくれない。あまたの人生を集約して時代はつくられ、道なき道に歴史が刻まれていく。人々が、時代が、一本のたすきを次につないでいくのである。
 今、時代が龍馬を希求している。龍馬のたすきは重い。しかし、後部集団で走っていた龍馬が、ごぼう抜きで先頭集団に躍り出て、一年後には大河ドラマで日本を駆けてゆく。私たち応援団にも力が入ってきた。
 ゴールを切った選手たちがそのまま練習へと駆け出すように、毎日の積み重ねが勝負の強さにつながる。走るのみ。牛歩のごとく、うまずたゆまず前進するのみ。
 駅伝を見ながら、私は自分自身にそう言い聞かせていた。

謹賀新年2008

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 あけましておめでとうございます。

 寒波が入り込んだ海は深い藍色に染まっている。海と空を分ける水平線は真一文字に伸び、まるで新年を言祝(ことほ)ぐ水引のようだ。例え今日という日が昨日の続きであってとしても、正月を迎えるということはなんと新鮮なことだろう。大気さえ違って感じられる。気持ち新たにこの風を深呼吸しよう。
 昨年度は坂本直行展による特別開館だった年末年始の開館が、今年度から本格的に無休となり、いつもと同じように年末年始も開館してお客様をお迎えしている。
 カルチャーサポーターの皆さんがつくった大きな門松が入館する人たちを新年に誘い、2日には同好会の皆さんによる土佐一絃琴の演奏がお正月らしさを演出した。
 高知では3月から「花・人・土佐であい博」が始まる。龍馬は“出会いの達人”と評されるし、その精神を掘り下げていくことも課題。であい博とのコラボレーションも楽しみだ。今年もまた多くの方たちのご協力や関わりの中で、記念館は成長していくことだろう。
 指定管理者続投が決まった記念館にとって、今年も新しい挑戦が始まる。どんな出会いが待っているのか。いや、どんな出会いをつくっていけるのか。正念場が待っている。

 よい年でありますように。本年もよろしくお願いいたします。

 樋口真吉は幕末、自らの使命を全うすべく地道にひたすらに生き、病に倒れた。龍馬との接点もいくつかあるが、これはほかの誰にも代わりようがない巡り合わせのようにも思える。真吉もまた幕末という激しい時代を生き抜いた男の一人だ。そして、当館でまもなく終わろうとしている「樋口真吉」展の開催以前にはほとんど知られることのない人だった。
 樋口真吉のことを樋口一葉の関係者だと思っている人がいたり、「ひぐちまきち」と呼ばれたり。(まあ、これはあながち違うとも言えないが、ご子孫がしんきちと言っているのでやっぱり違うのでしょうね)。出身の四万十市庁舎でも「それは誰?」という声が聞かれるような人物だった。そんな真吉のことを今回の企画展を通じて、少しは知っていただけたのではないかと思っている。
 維新から140年。龍馬がいなくなってからもまた…。140年前というのはずいぶん昔のような気もするが、その上に積もる時間はまだ薄いベールのようなものじゃないかな。真吉の残した記録を見ているとそんな気持ちが強くなる。龍馬も万次郎も慎太郎も半平太も藩主も門弟も、真吉の記録から見ればそれぞれが幕末ドラマの配役だったようにも思う。もちろん真吉自身も。さしずめドラマ全般にかかわるナレーターのような役だろう。
 真吉の文武両道は長刀と勤王日記『遣倦録』に象徴的だが、もうひとつ忘れてならないのは彼の人と情報のネットワーク。信頼のおける真吉の人柄と多くのメモが、時空を超えて人をつないでいく。真吉の資料を通じて、今回の企画展は新しい動きを生み出した。
 静岡県下田市。勝海舟が山内容堂に龍馬脱藩赦免を請うた場所・宝福寺を中心に市民の方たちが下田にいた龍馬を探し始めた。真吉や海舟、寺村左膳らの記録を手がかりにして。太平の眠りを覚ましたペリーやハリスゆかりの場所で龍馬が動き始めている。
 黒潮でつながる伊豆下田と四万十市下田。潮流に乗って太平洋から四万十川を遡り真吉の眠る土生山に、龍馬の最新情報が運ばれてきている。そんな風のささやきが聞こえてくるようだ。

 「樋口真吉」展は16日(日)まで。

竜馬がゆく

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 歌舞伎役者の市川染五郎さんが記念館に来てくださった。
 残暑厳しい、抜けるような青空が広がる土佐に、ダークスーツ姿の染五郎さんは涼やかに舞い降りた。舞い降りたなんていうとオーバーに聞こえるかもしれないが、そんな表現が陳腐に思えないくらい立ち姿の美しい役者さんだった。
 3年前の正月にテレビ放映された染五郎さん主役の長時間ドラマ『竜馬がゆく』を覚えていらっしゃる方も多いだろう。
 「土佐弁は難しいですね。もう、嫌いになりそうなくらい格闘しました」と言うが、当時の撮影所では「ほいたら」(そしたら)という土佐弁がそこかしこで飛び交っていたらしい。龍馬暗殺者説に出た「薩摩と新選組は嫌いですね」とも笑う。
 染五郎さんには龍馬が染み込んでいる。そんなふうに思った。TVドラマ収録当時、染五郎さんは「演じるというよりは龍馬になりたい。龍馬に降りてきてもらいたい」とおっしゃっているが、演じて演じて演じきって龍馬になるうち、染五郎さんが体得した龍馬が彼自身の中に生きているのだろう。
 「龍馬は今でいうオタクみたいなものですね。移動中なんかもいつも考えている。考え抜いたことが自信になって、信念をもって日本のために行動する。演じれば演じるほど新しい龍馬に出会えます。私自身のあこがれの人ですね」。
 龍馬のいた土佐に来て、海を見て、この地の空気を吸うことで龍馬に近づける。2度目の高知は前回と同じ暑い夏。だからこそ、龍馬とこの地のパワーを感じるらしい。高知は故郷のような所だと言う染五郎さんは、龍馬の真髄を心底知った役者だと実感した。
 9月2日から26日まで、東京銀座・歌舞伎座で市川染五郎演じる歌舞伎『竜馬がゆく~立志編』が上演される。龍馬が歌舞伎に登場する。その日が本当に待ち遠しい。

リョウマの夏休み

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 暑い夏だ。盆休みの記念館は、多くの人で賑わっている。
 みんな大汗をかきながら玄関から入ってくる。館内に入って「わぁ、涼しい」という声に「どうぞお使いください」と館オリジナルの龍馬うちわを渡すと、満面の笑顔で「ありがとう!」が返ってくる。夏休みの人たち、カップルもファミリーも一人旅もグループも、表情はとにかく明るい。南国高知の青空を呑み込みそうな楽しさだ。
 暑さの中、ベビーカーを含め小さな子ども3人を連れた両親がやってきた。派手な服装がけっこう目立つ両親と子ども達は、入口の外から写真をたくさん撮りながら、館内に入ってきた。一番年長の男の子はしんどくなったのか、ぐずりはじめている。
 私が大丈夫かなと思うまもなく、お母さんは第一声を上げた。
 「わぁ、やっとここに来たんや。あんたら見てみ。おじいちゃんが買うてきてくれたポスターがあるで。感激やなぁ。ホンマに龍馬記念館に来たんやで」。
 こちらまで感激するくらいお母さんは感激している。うれしかった。思わず声をかけた。
 「私ら、龍馬が大好きで、やっとここに来たんです。そして、この子はリョウマって言います」。
 私は思わずリョウマ君を見た。ぐずっていた男の子だ。目が合うとリョウマ君、思わず背筋を伸ばした。その顔は誇らしげに輝いている。
 私が「龍馬みたいな人になってね」というと、「うん!」と大きくうなずいた。ぐずついていた表情は微塵もない。園児だというリョウマ君が龍馬以上に大きく見えた。

 初めての3館合同特別企画展、―暗殺140年!時代が求めた“命”か―「坂本龍馬・中岡慎太郎展」の幕が上がった。
 今まで街角にあった赤いポスターから龍馬・慎太郎が抜け出して、坂本龍馬記念館、中岡慎太郎館、高知県立歴史民俗資料館のそれぞれで、140年前の事件を検証し始めた。各館ごとのテーマで謎に包まれた“暗殺”に迫る。
 当館のテーマは「海援隊・陸援隊」。二人が迎えた最後の年に改組、結成された両隊は、活動期間こそ短いが、二人の軌跡の上に鮮明に浮き上がる組織。展示資料から二人の考え方、活動、そして最期のときを読み取っていただきたいと思う。
 海援隊の規則を明文化した「海援隊約規」の内容は普遍的に新しい。
 また、長府藩の伊藤九三(助太夫)が仲間の三吉慎蔵と印藤聿に大あわてで報せた手紙。「龍馬先生が殺された!」。伊藤は同家にいたお龍になんと言えばいいのか困って二人に相談してきた。
 三吉は龍馬の妻・お龍に事件のことを告げなくてはいけない。三吉自身も動揺している。140年前のその場面にあった手紙を、当時のままの状態で展示している。三吉家からお借りした手紙は軸装などをせず、送り主がたたんだ状態のままで保管されているからだ。龍馬から三吉に送られた手紙も同様に当時のまま。龍馬の筆づかいがリアリティーをもって伝わってくる。
 それぞれの資料に物語がある。じっくりご覧いただきたい。
 3館をめぐるバスツアーはおかげさまで好評である。8月11日には、幕末史研究の第一人者・青山忠正氏(佛教大学教授)の講演会も楽しみだ。
 いつも以上に熱い夏が始まった。

龍馬の海

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 『竜馬がゆく』に代表されるように、龍馬は作家たちによって生き生きと描かれ、読者は目の前に龍馬がいるかのごとくに感じることができる。実際、記念館に来る人たちの大半は、そういった龍馬にあこがれてやってきた人が多い。
 名随筆『奥の細道』にしても、フィクションがちりばめられていることによって芭蕉の世界や人生観が後世の人々に語りかけてきている。虚像が真実をより真実として伝えることができるということを芭蕉は計算していたのだろう。私はフィクションの力を信じる一人であるが、歴史学の観点から見るとちょっとずれていることもある。
 今、この秋に開催する「樋口真吉」展に向けて、少しずつ調査を始めている。樋口真吉研究者・南寿吉さんとともに進める作業の中で、虚であった龍馬の土佐での時間が少しずつ見えてきたように思う。事実はフィクションよりも面白い謎解きかもしれない。
 若い龍馬は、幡多・中村に住む樋口真吉や、義兄・高松順蔵らに“日本”を視点に入れた理論を学び、身につけていた。そういった確信が生まれてきた。土佐の国の西と東に若い龍馬に大きな影響力を持った人物がいたことに、私は今ちょっと興奮気味である。
 龍馬の足跡をたどると、龍馬のジャンプ台としてこの土佐という地が不可欠であったことに気づく。龍馬を育てた土佐という土地が誇らしくなる。
 近頃私が出かけた龍馬、真吉、順蔵らゆかりの風景の中には、必ず海があった。龍馬と真吉を結ぶ中村・四万十川河口の下田と、伊豆・下田の海。順蔵さんの家からはかつて眼下に安田の海が広がっていたのだろう。
 記念館から見る風景にも、夏色の海が広がってきた。海の向こうに龍馬が見える。

龍馬とショウブ

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 龍馬についていろいろな質問を受ける。歴史的なことだけではない。
 「龍馬の好きな食べ物は?」「龍馬は水虫だったそうですが・・・?」「龍馬の好きな○○は・・・?」エトセトラ。
 近頃「龍馬と結びつく花って何ですか?」という質問を続けて受けた。
 「才谷梅太郎というくらいだから梅でしょうか。命がけでいろは丸事件に臨むとき、三吉真蔵に宛てた遺言状にも梅の朱印があるし・・・」「菊というのも歌に出てきますね」くらいで答えを濁していた。
 宮地佐一郎先生の「龍馬の手紙」(講談社学術文庫)をめくっているとき「先便差出し申候しよふ婦(菖蒲)は皆々あり付申候よし、夫々に物も付申候よし」という文に再会した。24歳、2度目の江戸剣術修行中に書いた手紙。坂本家ゆかりの北海道樺戸郡浦臼町の郷土資料館が所蔵しているものだ。
 若い龍馬は、有名な江戸の堀切の菖蒲を土佐の乙女に送ったらしい。それが実家で根付いたかどうか聞いている。
 先日、宮地先生の奥様真喜子さんが来館されて、たまたまその菖蒲の話になった。当初、宮地先生は「しよふ婦」を「娼婦」と訳されたらしい。色っぽい話だが、少々つじつまが合わない。そこで真喜子さん「それは菖蒲のことじゃないですか」。土佐に根付いた江戸の菖蒲。龍馬の粋。真喜子さんを囲んで楽しい花談義だった。
 今、梅雨空の下で菖蒲の色が美しい。

 明治31年(1898)家族とともに北海道に渡った直寛は、北見に行かず道央の浦臼町に入植し、キリスト教布教活動に専心した。代わりに、高知出身の前田駒次が北光社の経営や稲作普及に努め、今、駒次の顕彰碑がある場所は「こうち広場」と呼ばれている。
 高知からは最果てほど離れた土地でこうして高知が生きている。そのことに、私は奇妙な感動を覚えた。
 ところで、浦臼(うらうす)と聞いてもピンとこない方がいるかもしれない。札幌と旭川(旭山動物園が人気)の中間ほどにある町だ。ここには坂本家の資料館もあって、直寛らの顕彰をしているようだ。私はまだ行ったことはないが、いつか行く機会もあるのではないかと思っている。
 私はこの1年半、坂本直行という人を道標にして広大な北海道を点でつないできた。いつの間にか、小さな点だったものが、くっきりとした線につながってきたように思う。直行展は終わったが、直行さんを通じた出会いはこれからも広がっていくのではないか。そう信じる。

 閑話休題。
 先日、縁者の方に一枚の写真をいただいた。本などでも紹介されている明治31年に直寛らが渡道する前に高知で撮った坂本家の集合写真。
 印画紙に焼き付けられたものを見ると、当時が鮮やかに見えてくる。龍馬もそうだが、坂本家の人々は写真好きであるようだ。龍馬がよくからかっていた姪の春猪もいるし、直寛の姉や兄家族も写っている。直行さんの母・直意はキリッとした少女だ。小さな子どもたちもいて、その子らが成長し当時を語ったことは今も親族に伝わっているのだから、明治はこの間のことのように思えたりする。もしや年老いた龍馬がこの写真の片隅にいてもおかしくはないと思えるほどだ。
 この鮮明な画像を皆様にご覧いただく日も遠くないと思う。
 現在開催中の「来館200万人記念・所蔵品展」。夏に開催する「暗殺140年 坂本龍馬・中岡慎太郎展」。秋からの「樋口真吉展」。年末から始まる「幕末写真館」。
 史実に沿いながら、人間のドラマが見えてくる。かつて生きた人々が、今を生きる私たちへ贈るメッセージが伝わってくる。そんな企画展をこれからも展開して行きたいと思っている。

 札幌からようやく花便りが聞こえてきた。高知とは2ヶ月近く気候が違うことになる。ということは道東オホーツク沿岸にある北見市では、まだ桜のつぼみは固いのかもしれない。現在の最高気温はまだ10度前後だという。
 私が北見を訪れた4月半ば、北見では雪が舞っていた。残雪は路面のあちこちにあるし、私はその寒さに思わずコートの襟を合わせていた。
 約束の時間に遅れて北見市教育委員会を訪ねると、社会教育部長の山崎さんはじめ北網圏北見文化センターの方たちが満面の笑みで出迎えてくれた。遅くなったことや初対面の緊張を味わう時間もないほど、心待ちしてくれていたことが伝わってくる笑顔。人の温かさが北の寒さを溶かしてくれた。
 さて、北見市は直行の祖父、坂本直寛らが開拓会社「北光社」をつくり、高知の先人たちが開拓した土地。大雪山系を源流にする常呂(ところ)川が流れる野付牛(のつけうし)村に、高知からの移民団は入植した。
 小雪の舞う常呂川河畔、小さな公園ほどに整備された場所に直寛や北光社の顕彰碑が建っていた。遥かな北の大地。明治から見ると、1年前の町村合併で北海道一の面積になった北見市の発展は信じられないことだと思う。
 春先の寒さでさえ、南から来た私には厳しい北の風土を十分感じさせた。かつて男も女子どももどんな思いでここに来て、どんな毎日を過ごしていたのだろう。安穏とした今の私たちの想像を絶するものであったことは確かだ。
 わずかな滞在中に、「土佐の人たちが北見をつくってくれた」という言葉をそこかしこで聞いた。私への歓迎の言葉だけではなさそうだ。
 囚人たちにさえ過酷以上の土地であったオホーツク海近くの土地で、土佐の人たちは開拓をし続けた。その辛苦、重労働、失望、絶望、そして一筋の希望の上に人々は生き続け、信念を貫いていったのだろう。先人への感謝と畏敬の念が、私の中に沸々と湧き上がるのを感じていた。

 話は1ヶ月近く遡る。
 4月初旬、直行さんの作品群は北海道に帰っていった。4ヵ月半に及ぶ、反骨の農民画家「坂本直行」展が終わったからで、私も直行さんの絵や資料とともに北海道に出かけた。
 私の立会うもとで梱包が取り除かれ、坂本家の直行さんのアトリエには絵画が元通りに納まった。「あぁ、これでやっと元の我が家に返ったわ。」と夫人のツルさんは目頭に涙を溜めていた。「淋しかったでしょう。申し訳なかったですね。」という私に、泣き笑いしながら「淋しかったですよ。」と言っておられた。
 毎朝、直行さんの写真の前にお茶を置き、花を飾る部屋に、大好きな日高の風景がない5ヶ月。本当に淋しかったと思う。しかし、夫の絵が祖先の地に里帰りしたことにはいささかの感慨を持っていただいたとも思う。
 そんなこともあって、今回の返却作業の合間を縫って、私は札幌市円山にある坂本家の墓地を訪ねた。直行さんにもひと言お礼を言いたいと思って・・・。
 冬場に墓参りなんてしない。墓は雪の中にあって分からないからという北海道の人の言葉にびっくりしていたが、実際に4月初旬でも、墓地は融けかかった積雪の中にあった。はっきりした場所も知らないまま出かけていたので、雪の中に足を滑らせながらしばらく探し回り、ようやく見つけた坂本家は、直寛の大きな墓石を先頭に静かに佇んでいた。そして私は、『坂本家の人々ここに眠る』という直行さんの墓碑の前で、今回の直行展の報告をすることができた。
 札幌、帯広、広尾と回り、直行さんは北海道に帰って行った。私は返却作業を終えた後、オホーツク海近くの北見市まで足を伸ばしてみた。直行展開催2日目に館に来てくださった北見市の方の熱心な誘いがあったからだ。
 北見は、龍馬の甥で直行の祖父・坂本直寛が開拓会社「北光社」を作り、坂本家をあげて土佐から移住して行った土地。その話は次回にしよう。

 反骨の農民画家「坂本直行」展が終わった。感無量である。
 正直、4ヶ月半(141日)という会期は長かった。調査・準備期間を入れると優に1年半になる。旅行会社のチラシで飛び込んだ「韓国直行便」という文字に、「あれっ、直行さんは韓国に行ったことがあるのだろうか?」と思ってしまうほど、気持ちはいつもチョッコウさんに向いていた。いや、いつもと言うと語弊があるかもしれない。行き詰って、直行さんから逃げたい時もあったから…。
 と言っても、絵画や資料をお借りするために北海道入りした昨年10月末。最初の坂本家で直行さんの絵が運び出された時の感慨は忘れがたい。いよいよ直行さんが海を越えて里帰りをする。初めて高知に行く直行さんをツル夫人はどんな思いで見ているのだろう。ここに来るまでの道のりは長かった。そんなことを考えていると、ガランとしたアトリエから直行さんの声が聞こえた気もした。様々な思いが交錯し、高揚する気持ちで絵画を送り出した日のことをはっきり覚えている。
 札幌から帯広を巡った美専車が、北海道での最後の場所、広尾町の海洋博物館を出発した時も同じだった。太平洋を背にした車は一路高知を目指す。いよいよ海峡を渡って直行さんが高知に里帰りする。感無量であった。

 会期中ご来館くださった多くの顔が浮かんでくる。会場にあふれた直行さんや直行一家の顔。直行さんの何人かの息子さん方も来てくださった。家族も知らない直行さんの顔もあったようだ。
 北大関係者、六花亭、秀岳荘、直行さんの後輩達。“歩歩(ぽっぽ)の会”のメンバー。直行さんのファン、企画展を機にファンになった方達。多くの高知の人たち。会場で説明・解説しながら、教えられることも多かった。

 週1,2度、入口に花を飾ってくださった郷田さんの最終作品のテーマは「三相」(=過去・現在・未来)。中心になる苔むした梅の木は“龍馬”(=才谷梅太郎)。古木に寄り添う野草、吾妻鐙(アズマアブミ=東国武士の馬具)は直行さん。「日本百名山」の深田久弥をして「古武士のような」と表された直行さんのイメージに合う。二人は過去から私たちを呼び止める。つぼみから咲いていったサクラの一枝は現在。古木の下方にはこれから白い花を咲かすだろうユキノシタが未来を指している。
 今は未来であり、過去となる。記念館での直行展は終了したが、別の物語として未来に続いて行くだろう。訪れた4万7千人余りの方たち、訪れることはなくても直行さんを知った方たちが、これからも直行さんを語り続けてくれることを信じている。龍馬と同じように。
 多くの皆様に言葉にならないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 先日私は、いの町の歴史愛好家たちがつくる「いの史談会」に呼ばれて直行さんの話をしてきた。30名近くの参加者の中には、会員ではないが直行さんに興味があって参加したという人もいて、2時間があっという間に過ぎた。熱心な質問も多かった。
 会のメンバーは歴史を通じて自分を高めようという人ばかりである。そして、人生の先輩方である。私自身も皆さんに質問を投げかけてみた。
 直行に「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」(坂本家所蔵)という絵がある。ツルさんが一番古いという、板に描かれた4号の小さな油彩だ。遠くの雪山や原野を包む大気が赤らんでいる。
 私はこの絵の名前に興味を引かれていた。カムイ~はアイヌ語で神様のいる何とかという山の名前だろう。モルゲンロートは山を知っている人なら分かるのだろうが、手許の広辞苑とカタカナ語辞典にはないなぁ。と、曖昧なまま放っておいた疑問を問うてみたのだ。
 小気味よいくらいの即答が返ってきた。
 カムイエクウチカウシ山はアイヌ語で「ヒグマが転げ落ちるほど急な山」、モルゲンロートはドイツ語で「朝やけ」のことだという。いの町立図書館に勤める森沢さんに教えていただいた。森沢さんは十数回も北海道の山に登っているらしく、本のコピーも送ってくださった。私も斜め読みしていた「北海道の百名山」(道新スポーツ刊)を読み返してみた。
 カムイエクウチカウシ、通称カムエクは日高第二の高峰。昭和初期から北大山岳部が登頂している。昭和7年には直行も冬季初登を果たしている。ツルさんが開拓時代の一番古い絵だといい、野崎さん(野崎牧場)の所にいた頃のものだというのも頷けた。
 森沢さんをはじめご自身の登山や旅行、趣味、人生の体験を直行さんに重ね合わせている方は、まなざしや思いが深い。直行さんを通じて多くの対話が生まれていることだろう。
 直行展の会期は残り10日。「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」は梱包され、札幌に帰る準備に入った。菜の花畑が広がる春爛漫の高知から、朝やけに染まる白い大地に直行さんが帰っていく日も近い。

 直行展が始まって3ヶ月余り。すでに32,000人以上の方が直行さんに会いに来てくださった。そして、館内は今までにないほど土佐弁がこだましている。「チョッコウさんが・・・」「チョッコウさんは・・・」という来館者の声に、遠い北国で開拓農民や絵描きとして過ごした一人の男が、高知の人々にしっかりと受け入れられていることを実感している。
 思えば1年前には、直行さんは関係者だけが知っているような人だった。私が直行展を開催したいと強く思った3年近く前には、本当に限られた人しか知らなかったし、直行さんのみならず龍馬に子孫がいるということすら余り話題に上らなかった。
 龍馬のDNAを継承する人はたくさんいらっしゃる。また、親戚縁者も多い。龍馬を語る人、語らない人。それも様々。
 直行さんは郷士坂本家の跡取り八代目。坂本家という看板や、祖父の叔父に維新の英雄・龍馬がいたことは大きな重荷だったのだろう。実業家として厳格だった父への反発や山への強烈なあこがれが直行さんの半生を支えている。自分自身の生き方を貫いた姿勢は龍馬に負けない。

 直行展は佳境に入った。今月半ばに最後の入れ替えを終え、返却作業の段取りが頭に浮かぶ頃となった。これまでは開催や作品展示、来館者の受け入れ、各種の催しや販売のことetc。慣れない作業に慌しく毎日が流れていった。
 今ようやく、ひととき直行さんに向き合う余裕が出来た。直行さんの著書も再度読み返している。直行さんの言葉、風景、気持ちが風のように心に入ってくる。展示している絵画や写真、お宿帳(原野と市街地での30年間に約600人が直行宅を訪れ、泊まり、交誼を重ねている。その記録)、等々。それぞれの光景が生き生きと迫ってくる。分からなかったこともパズルのようにカチッとはまってきた。
 秋の農作業、冬支度に追われて、我が家の薪すら用意できずに、北風にさらされながら薪割をする直行さん。私もそんなふうに直行展の千秋楽を迎えるのかもしれない。それでも季節は巡る。
 春到来。春はいつも直行さんに新鮮な感動をもたらした。記念館はまもなく、直行さんとともに開館以来200万人目のお客様を迎えることになる。感動とともに春が広がる。

 見られないと思っていた初日の出を、記念館の屋上から見た。毎朝繰り返されている地球の儀式は、ただただ美しい。
 記念館は開館16年目で初めて、元日にオープンした。7時半のオープンに合わせて、職員は早朝3時から三々五々出勤してきた。記念館のある桂浜周辺は初日の出の名所で、元日の朝は車が動かないと聞いていたからだ。渋滞はさほどではなかったが、朝早くから館の駐車場はいっぱいで、「曇」の天気予報は見事にはずれた。
 茜色に染まり始めた大空の下方。水平線の上にある雲間から太陽は出てきた。海からのご来光が桂浜に突き出た館を染めていく。職員の顔も染まっていく。
 来館された方には、六花亭のチョコレートがお年玉。200名様限定チョコは、数時間でなくなった。
 玄関には直行の「羊蹄山」が凛と在る。千客万来。
 新しい一年が始まった。あけましておめでとうございます。

 直行展が始まりました。
 オープニングの15日には、地元浦戸小学校の児童をはじめ浦戸地区住民の皆様、待ちかねたようにお越しいただいた方たちで終日賑わいました。「すばらしい」「素直な絵ですね」「迫力がある」「見に来てよかった」等々の声をいただいたことで、開催の実感と喜びがわいてきました。
 今回、遠く北海道各地から直行の絵をお借りしました。あれほど高知に来ることを拒み、龍馬を語らなかったという直行さん。そんな人の残した絵や身近なものたちが海を渡ってやってくる。搬出時には、感無量、万感の思いが込み上げてきました。
 龍馬生誕の日の15日には、直行さんのご長男登さん、従弟の土居晴夫さんもお越しくださり、熱心にご覧いただきました。
 「土佐和紙に大きく引き伸ばした写真の数々も大好評です。ハンサムな直行さんは開拓農民時代の貧しさの中にいるときが一番カッコいい。それは内面の充実が表れている時代だからでしょう。友人知人の撮った写真が多く残っていて、そこに開拓一家の様子が生き生きと映されています。
 「農耕馬(ドサンコ)を囲んで集っている一家の底抜けに明るい表情を見ていると、私も50年前の我が家のことが思い出され、懐かしさで胸が一杯になり、集合時間が迫っても立ち去り難い思いでした」(横浜市・男性)。こんな手紙を寄せてくださった方もいます。
 「坂本直行展」は始まったばかりですが、直行さんは当館にすっかり馴染んでいます。お借りした絵画や資料は12月、2月には入れ替えの予定です。販売している六花亭のお菓子やグッズも大好評。
 一度だけでなく、何度でも直行さんに会いにお越しください。

 北海道から直行さんの資料が届き始めた。協力者の皆様からの善意の数々である。
 第一便で届いたのは、直行さんの絵葉書の額など30点余り。多くは花々や山岳の絵葉書で、美しくレイアウトされている。児童詩誌『サイロ』創刊号から100号までもある。初期の頃の『サイロ』は今や発行者の六花亭でも貴重なものになっているらしい。送り主の上田良吉さんはカルチャー教室で植物画を教えながら、直行さんの資料収集や展示をしている帯広在住の直行研究家。
 第二便も楽しい。北大山岳部、秀岳荘、高澤光雄さんらから合同で届いた山の便り。荷物にはアイゼン、ピッケル、ザック、スキー板はじめ登山グッズの数々が入っている。『開墾の記』『ヌタック』(札幌第二中山の会)などの初版本や、「手にとってさ、みんなに見て読んでもらわないとさぁ」と高澤さん言うところの“閲覧用”直行さん書籍。今年、北海道大学総合博物館で同大山岳部OBらによる『北大の山小屋』展で展示されたパネルもある。
 昭和30年(1955)『金井テント』創業者の金井五郎さんは、トラックのシートや日よけシートなどの製造販売を始めた。翌年、北大山岳部が日高山脈全山縦走を行った際に装備を担当し、昭和32年には直行さんによって『秀岳荘』と名づけられた。秀岳荘は北大山岳部とともにあり、今や北海道では有数の登山用具専門店である。昨年、創業50周年記念に出版された『山の仲間と50年』は北海道、いや日本の登山史の1ページになっているといってもいいだろう。
 高澤さんは直行さんとも親しく、今は秀岳荘に本部を置く日本山岳会北海道支部・副支部長などしている。荷物の向こうに多くの笑顔が見える。山男たちのエールは力強い。
 月末、いよいよ直行さんの絵画や資料を借り受けに北海道に出かける。初めて海を渡って直行さんが帰って来る。
 北の大地が今とても熱い。

秀岳荘のホームページ  http://www.shugakuso.co.jp/

 このホームページでも直行展のコーナーができた。
 コーナーのトップにある「新緑の原野と日高山脈」が何ともさわやかに広がる。春先からのポスターやチラシに使っている絵だ。
 初夏の原野は緑に包まれ、直行の愛した日高山脈の楽古岳が、真ん中でとんがり帽子のようにツンと突き立っている。
 秋のポスター「初冬の日高山脈」もご覧いただきたいと思う。
 雪を抱いた日高の山波(直行は“山並”とは書かず、“山波”と書いた)、どこまでも深いインディゴブルーの空、手前の柏林は見事なインディアンレッドに紅葉している。きっぱりと塗りこめられた白と群青色と赤褐色。見ている私は絵の中に引きずり込まれそうになる。

 さて、太平洋を望む2階にある直行の小さなギャラリーも9月から秋の絵に変わっている。
 初夏の絵と合わせ、この絵の持ち主は直行の甥にあたる弘松潔さんのもの。昨年の秋、私は弘松さんを訪ねた。初めて札幌の坂本家に行く前にこれらの絵を見せていただきたかったからだ。
 弘松さんは伯父・直行のことを熱く語ってくれた。「これは私の座右の書です」と見せてくださった『原野から見た山』(坂本直行著、朋文堂、昭和32年刊)はボロボロになるくらい繰り返し読まれていた。弘松さんは直行のことを心底敬愛していた。そして、直行展開催のことを本当によろこんでくださっていた。
 弘松さんは今年2月、あっという間に亡くなられた。「春になったら札幌に行くつもりです」とおっしゃっていたにもかかわらず。北海道からやって来る直行の絵を真っ先に見てもらいたい人だった。

 9月になった。
 開館までにはずいぶん早い時間だが、入り口に貼ったばかりの秋バージョンの直行展ポスターを熱心に見ている人がいた。その後ろ姿に思わず「おはようございます」と声がけしたことから、会話が弾んだ。
 その方は私に熱く語ってくれた。
 「私は昭和2年生まれで、17歳で兵隊として鹿児島に行ったがよね。そこには北海道から来た人もおった。鹿児島には珍しく雪の降った日、震えている自分を見て北海道の人は『こんなのは寒さじゃない』と言うて笑いよった。私は前線に出ちゃあせんけんど、戦争はつくづく嫌やと思う。福島に行った時には、『土佐から来たのか。帰れ。土佐人は嫌いだ』と言われた。何であんなに言われないかんか分からん。龍馬が生きちょったら、そんなことを言われんでもよかったと思う。龍馬が生きちょったら戦争なんか起こらんかったかもしれんと思う」。
 「龍馬の子孫が北海道におったがかね。知らんかった。帯広から太平洋に向かったところにある広尾町かね。だいたいの場所は分かるよ。そこにこの直行という人はおったがかね。いい絵やねぇ」。いかにもいごっそう然とした風格で口調は強いが、澄んだ目をした人だった。
 こんな言葉を思い出した。「直行さんは古武士のようで、眼光が鋭かった」。6月の取材中、豊似の市街地で隣家にいた後藤隆さんが語ってくれた。後藤さんは直行の長男・登さんの同級生で、隣家の坂本家によく遊びに行っていたらしい。昭和30年代半ばには珍しい洋式トイレのあるモダンな家だったという。豊似は、直行が原野を出て移住した所。
 直行は農民運動、自然保護運動にも没頭した。戦時中には戦争を憎んだ。直行に龍馬のまなざしを感じる。
 もうすぐ龍馬の子孫、直行が帰ってくる。そんなことを実感する朝だった。

 21日から高知新聞で、『北の大地に生きて 農民画家・坂元直行』という連載が始まった。田村文記者による8回シリーズ。楽しみである。6月の取材では私も一緒だったが、私たちの原野取材の様子は北海道新聞でも紹介された。
 7月には、十勝毎日新聞でもゆかりの人たちが語る直行さんが5回シリーズで連載された。『あの日のチョッコウさん 山岳画家坂本直行生誕100年』。「関係者も高齢になってきているので、今聞いておくことが大切だと思った」という安田義教記者の言葉に私も頷く。

 直行は15,6歳の少年時代から絵を描いている。それは自分の登った山を描いたペン画で、荒削りな線が年代とともに細やかで表情豊かになってきている。草花のスケッチもしている。サクラ草をテーマに研究した卒論は、やたら花のスケッチが多いものだったともいう。
 学生の延長で原野に飛び込み、農民となった直行はスケッチブックを離さなかった。馬車で牛乳を運搬している時など、道は馬に任せて絵を描いている。きつい農作業を終えて帰る途中には花を手折り、夕食までのひと時、窓辺で花をスケッチする姿を子どもたちはなつかしく語る。
 農民時代には食べるものも着るものもなく、子どもたちは栄養失調特有の細い手足をしている。北大の仲間に鳥肉を送った時、包み紙は直行が描いた絵のあるキャンバス布だった。直行の絵よりも新聞紙が貴重な時代があった。
 直行は貧乏のどん底であっても、絵を忘れなかった。少年時代からスケッチや写真を通して風景や草花を観察してきた。それが画家としての素質と目を養ってきたことは間違いない。

高知新聞     http://www.kochinews.co.jp/
十勝毎日新聞   http://www.tokachi.co.jp/

 JR札幌駅近くに北海道大学がある。北国の透明な空をバックにした構内は広々として、実に気持がよい。正門を入ってまっすぐ西に向かうと、有名なクラーク博士の胸像が構内を見渡している。北大の前身は札幌農学校であったことを思い出させる。その向こうには、農学部の校舎が広がっている。直行はこの農学部で学んだ。
 札幌駅をはさんで南には札幌時計台や、少し行くと知事公館がある。広い敷地と建物である。当時の直行はこの公館に隣接する屋敷から北大に通った。裕福な資産家の息子である直行は、昭和2年(1927)に大学を卒業し、十勝の原野で開拓農民となった。

 大学構内には、重要文化財北大農学部第2農場(モデルバーン)が保存されている。中札内美術村にある坂本直行記念館(通常・北の大地美術館)の手本になった建物だ。
 モデルバーンへ続く道にはエルム(にれ)の並木がまっすぐに伸びている。その途中に北大総合博物館がある。
 今この3階展示室で『北大の山小屋』展が開催されている。北大山岳部OBや学生たち手作りだという企画展からは北大山岳部の歴史が見えてくる。「山は厳父 小屋は慈母」というキャッチフレーズに、北大・山男たちの熱い思いが伝わってくる。
 北大スキー部から分かれて山岳部が創設される時期に、直行は真っ先に参加した。中でも初期の「ヘルヴェチア・ヒュッテ」建設には直行も尽力した。小学校時代の手稲山登山以来、山に魅せられていた直行は、北大山岳部で本格的な岳人となっていく。
 北大山岳部の先輩後輩たちが、原野の直行を訪ね、直行は貧しさの中でも彼らを最大限にもてなした。画家になった直行の個展を支えたのは、こうした先輩後輩たちだった。
 「チョッコウさんのためなら…」と、坂本直行展への北大山岳部出身者のエールは大きい。直行はいまだ伝説の岳人として、北大に生き続けている。

北海道大学総合博物館
http://www.museum.hokudai.ac.jp/

 北の大地にスズランの花が香る6月中旬。私は“原野”に立った。直行が開拓農民として過ごした土地、北海道広尾郡広尾町下野塚。
 広大な大地に横たわる荒涼とした土地。そんなイメージは新緑に呑み込まれた。
 そこかしこからコロボックルが現れそうな大きな秋田ブキや巨大ゼンマイとも思える北海道ならではの植物群。さながら高山植物を思わせる野の花々。かつて子どもたちの声が響き、開墾の鍬の音がこだましただろう原野は、今はさ緑の植物群に覆われて「夢のあと」の静けさの中にあった。
 坂本一家が暮らした原野は、意外に海(太平洋)に近かった。ここから車で40分も行けば襟裳岬。私は、ずっと前、森進一が歌っていた「襟裳岬」でしか知らない場所だが、歌謡曲からでも最果てを思わせる場所だ。
 「一週間ぶりの太陽を見ましたよ」と言うのは、広尾町教育委員会の杉本課長と辻田係長。一緒に参加してくださった直行研究家の上田さんの表情も明るい。
 さわやかな大地に太陽は眩しかったが、周辺にあるだろう日高の山々はガス(霧)に覆われていた。大きく周辺をガスで覆われて、目の前の新緑は反ってくっきりとして見える。20代半ばの直行が、北大山岳部先輩の野崎さんに誘われて入植した野崎牧場(現・今井牧場)も、遠くの風景をガスで隠していた。
 原野の風景を撮ることが目的であっただけに残念な天候だったが、海から押し寄せるガスが、この痩せた大地に植えられた農作物を容赦なく襲った状況を私に教えた。坂本家の喜びが悲嘆に変わる自然を思った。
 辻田さんの案内で行った、直行の愛した楽古岳も私たちに容易に姿を見せようとはしなかった。
 そんな原野での坂本家を昭和34(1959)年の暮れに訪ねた一人の人がいた。帯広千秋庵、現・六花亭製菓(株)創業者で名誉会長の小田豊四郎さん。豊似駅から5キロの雪道を歩いて訪ねた小田さんを直行は温かく迎えた。昭和35年1月から始まった十勝管内の子どもたちにおくる児童詩誌「サイロ」誕生の時である。
 小田さんと直行の出会いは、多くの子どもたちの未来につながった。つい先日、小田さんは直行と同じ所に逝った。一人の歴史が、大きな歴史の中に入っていった感慨がある。心よりご冥福をお祈りいたします。

北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060807&j=0028&k=200608071340

 「反骨の農民画家 坂本直行展」のポスター、チラシ、チケットができた。ポスター、チラシの上半分には直行さんの描いた日高の山並み大きく刷り込まれている。今はさわやかな初夏の日高山脈だが、しばらくすると晩秋の紅葉した柏林の向こうにある日高山脈になる。これらのポスター、チラシは直行さんという人のことを、県下をはじめ日本各地に広めていくだろう。いろいろな街角で直行さんの絵が語り始める。

 先日、高知県教育長の大崎博澄さんを訪ねた。私が敬愛する人生の先輩である。山畑を耕し、自然を愛するナチュラリストだ。そんな大崎さんを慕う人たちが素朴な草木を持ち込み、教育長室はさながらジャングルの趣になっている。
 直行の話をしていたら、大崎さんは瞬間沈黙した。
 「今の話を聞いて思い出したことがあります。昭和40年代に児童詩を集めた『サイロ』という詩誌があって、ボクはそれを北海道から送ってもらっていました。それに挿絵を描いていたのが確か坂本さんという人だったと思います」
 「『サイロ』は六花亭が昭和35年から毎月出しているもので、その坂本さんが坂本直行なんです」
 「六花亭?いやそんな名前じゃなかったですよ。私はそこの小田豊四郎社長に手紙を書いて、丁寧な手紙ももらいました」
 「六花亭はその当時、帯広千秋庵といっていました。小田社長は会長になり、今は息子の豊さんが社長になっています」
 「そうですか。それはなつかしい。秋が楽しみですね。きっと見に行きます」
 生前の直行さんとつながっている人がこんな身近にいた。
 大崎さん自身、児童詩誌「めだま」を長くガリ版出版していた詩人である。静かではあるが、この人もまた筋金入りの反骨だ。教育長室には今、直行のポスターが貼られている。

 5日の北海道新聞では、当館の「坂本直行展」が紹介された。龍馬と直行によって、高知と北海道が身近になってきた。http://www.hokkaido-np.co.jp/

 先日、札幌にいる坂本ツルさんと電話で話をした。「今、庭のカタクリがとってもきれいなんですよ。サクラも終わりました」と言う声が明るい。今年89歳とは思えない実に涼やかな声だ。電話であってもこの声に出会うとその日一日の力が沸く。
 カタクリは春を告げる可憐な花。高山や北国に良く似合う。直行もよく描いた花だ。

 「忙しくて2週間程行って見なかったら、樹林地にはもう一面に若草が萌えて、明るい緑に蔽われていた。カタクリのピンクの花が一面に散らばって居たし、その間にエンレイ草やフクベラ(二輪草)の花が美しくちりばめられて居た。北斜面にはオオサクラ草の目を射るような濃いピンクの花の群れが有った。オオサクラ草の葉は、甘たるい良い香りがする。」(「開墾の記」)
 「山の姿を描き終つた僕は、安心感と満足感で、今度はおちついて丘の上の若草に腰をおろして、煙草を吸いながら美しい山波と牧場をながめた。・・・・・場長宅の縁側からアポイが見える。これもなつかしい山だ。少し残雪があるのは、何か拾いものをしたような気持だった。僕は若草の露を踏んで牧場の道を歩いた。そして樹林の下に、なつかしいオオサクラ草とオオバナノエンレイ草を見た。そのほか、ニリン草、カタクリ、エゾリュウキンカもあった。なつかしいというのは、僕はこんな美しい野の花と、35年間もいっしょに暮らしたからである。」(「山の仲間と五十年」秀岳荘記念誌)

 旅行者にとって美しくロマンティックな白樺林や柏林。しかしそこは、開墾者に痩せた土地と過酷な労働を強いる場所だった。冬は一層厳しいものだ。それだけに春は開墾者に喜びをもたらす。直行は春の喜びを隠さない。
 「くる春もくる春も、いつも同じような環境の変化を伴ってくるのではあるが、私達は毎春新しい喜びを感じた。初めて眺める春のように思われた。」(「開墾の記」)

 カタクリの花を喜ぶツルさんの声は、今も昔も同じように北の大地に響いていたに違いない。                                                      

 「今年の連休は長いな」というのが、カレンダーを見た感想だった。後半の人出を予想していたが、予想以上に多くの来館者で館は賑わっている。館内外いたる所に人がいて、龍馬と出会っている感じである。実に楽しい。
 この季節の人たちは軽装になって、身も心も軽やかに見える。入館して来るのは、カップル、家族連れ、友達同士、一人など様ざま。二人連れはほとんどが手をつないでいるし、子どもたちもおとなの間を走っていたり、「おーい!竜馬」の上映に夢中だったりする。「ここはお菓子を食べちゃいけない場所なのよ」と静かに注意する若いお母さんにも出会う。ここは博物館であるけれども、龍馬に出会う自由な場所なのだ。ひとつひとつが、龍馬も微笑むような光景である。
 今開催中の「龍馬こども検定」は○×式の100問テストで、難しい規定はない。館内は自由に見ていいし、親子で考えたっていいのだ。これが実にいい親子のコミュニケーションになっているように思う。日ごろ仕事に熱中しているお父さんが威信を取り戻すかのように、わが子に龍馬や歴史のことを語っている。分かったような分からないような顔の子ども達に、お父さんは大きく映っているようだ。答案用紙は子どもの名前なのに、おとなの文字だったりする。それでも、親子一緒に龍馬のことを考えた時間があるだけでいい。こどもの日の小さな思い出のひとコマに、龍馬が貢献できたのだ。
 たくさんの方が開館を待ってくださるので、できるだけ早く館を開けている。閉館はふだんより1時間長い。駐車場整理する男性職員は真っ黒に日焼けした。日本各地のカーナンバーが並び、桂浜へ向かう車の列は止まらない。
 緑が濃くなり始めた山々。青い海は弓状に大きく広がっている。土佐の中央、海に面したこの小さな半島に日本中からたくさんの人々がやって来てくれた。夏に向かうさわやかな5月の連休である。

 坂本直行は岳人である。
 小学校時代に釧路から札幌に引っ越して来て登ったのは手稲山。中学校時代に登った蝦夷富士で山に魅了される。山に魅せられた少年は、北海道大学山岳部創設期からの部員として、ますます山に親しんでいく。
 卒業後も山岳部先輩後輩たちとの交流は日高の原野に続き、開拓農民として生きる人生を支える。そして、山の仲間たちが岳人直行を伝説の人にまで広げていく。
 直行は入植した十勝の原野と、日高の山々を愛し続けた。登山時には山の風景に圧倒されて立ち尽くすこともあったらしい。農民運動、自然保護運動に没頭した時期も長い。いつも山や自然とともに生きた直行。そして、彼のかたわらにはいつもスケッチブックがあった。

  直行の肩書きは様々だ。開拓農民、農民画家、山岳画家、画伯、随筆家、等々。そして、坂本龍馬の子孫。いずれも直行であり、いずれもそうでないのかもしれない。
 直行の絵を見ていると、そこにある人間のまなざしが迫ってくる。まさしく人間である。人間に肩書きがいるのだろうか。
 坂本直行は、まさに清冽に生きた一人の人間である。私はそう思う。

 4月25日、北海道・中札内美術村「坂本直行記念館」がオープンした。北の大地美術館が、直行生誕100年の今年だけ直行記念館にリバイバルしたのだ。11月5日まで。
 わが坂本龍馬記念館にも、直行さんのコーナーが出来た。いよいよ龍馬と直行さんが出会う。
 やわらかな何層もの新緑が広がり、椎の木が匂っている。土佐の初夏が始まった。

 中札内美術村
 http://www.rokkatei.co.jp/facilities/index2.html

 閑話休題。北の大地から、南国にかえった話題をひとつ。
 ミカン、ポンカンなどは、お正月頃から国道沿いの良心市(無人の小さな直販所で高知名物。料金箱に入れられた金額は、たいてい売価と勘定は違わない。売り手と買い手の良心による運営)の彩りになっている。
 そして春先。いわゆるミカン(温州)が消えた頃辺りから、高知では続々と新たな柑橘類があふれ出す。南国・フルーツ王国の名にふさわしい。
 今、土佐特産のブンタン(文旦)が美味しい。少し苦味のあるさっぱりした味は、皮をむく面倒さえなければ、いつまでもほおばりたい。大ぶりで厳選されたブンタンなら1個数百円してもおかしくないが、形は悪くても味のいいものは、安く手に入る。高級な水晶ブンタンだって、庶民の口に入らないはずはない。
 さて先日、朝の通勤途中のラジオで、このブンタンの話題が出た。東京のFM局からの全国放送らしい。
 女性アナが得々と語る。「今度、○○ホテルでは、スゥイーツにブンタンシュークリームを限定で出すんですね~。ブンタンって苦味があってグレープフルーツみたいで、さっぱりした味なんです(まあね!)。果肉の皮がちょっと緑色がかってて(ン~ッ?)、別名ボンタンとも言われます(エッ?!ち、違うよ!)」。とうとうと、ブンタン講義は続く。で、かなりずれている。「皆さん、ぜひ召し上がってくださいね~」。私は思わず叫びそうになった。「何の紹介をしているの?!」
 しかし、冷静になれば、これは歴史やその他のことにもいえる。後世の人が得々と語る史実(?)が本当であるのかどうか。地面の下で面映い思いをしている御仁、脚色された出来事もさぞや多いことだろう。歴史研究は科学と同じで、100%の真実に近づく作業だといわれる。私自身、東京の土佐ブンタンを語っていることもあるだろう。ラジオのブンタン紹介は、他山の石。教訓である。
 さて、高知ではこれからもフルーツの季節は続く。柑橘系の小夏、八朔、エトセトラ。野菜のトマトだって、高知ではフルーツトマトなのだ。
 田に水が張られ、水面が光る。蛙も鳴いている。新緑が広がり始めた。気の早い鯉のぼりも泳ぐ今日この頃である。

 坂本家の居間に、赤いベレー帽をかぶった直行(チョッコウ)さんがいる。長男・登氏が描いた小さなデッサン画である。その白髪交じりのヒゲを生やした晩年の直行は、欧米の人を思わせるほりの深い風貌をしている。それは芸術家の顔であり、刻まれたしわは長い開拓農民時代を物語っている。
 同じ居間には、小品だが力強い冬の日高の油彩画がかけられている。奥さんのツルさんは「これはサインが入っていないので、まだ仕上がっていないのでしょうね」と言う。直行の絵を原野から発掘し、世に出した彫刻家・峰孝氏の小さな直行ブロンズ像(頭部)も、本棚の上から居間を眺めている。
 アトリエの直行の写真の前には、いつも花とお茶がある。「私たちは宗教を持たないので、どうやって亡くなった人を祀ればいいのか分からないけれど、こうやってお花やお茶だけは欠かさないようにしています」「坂本家は熱心なクリスチャンで、直行も若い頃には教会に通っていました。でも、やることがたくさんあって、教会に行く時間がもったいなくなったようです」「開拓時代、生活に追われてお墓参りどころではなかったんですよ」「直行は新聞記者たちに龍馬のことを聞かれたら、この部屋に逃げ込んでいましたね」。澄んだツルさんの声が響く。
 アトリエには、ツルさんが「この絵が私は好きなんですよ」という冬木立や、新緑の日高山脈の油彩画がかかっている。大作の秋の日高山脈もある。そして、若い日の直行が微笑むパネル写真と共に、龍馬や祖父・直寛、父・弥太郎らの写真が並ぶ。
 ツルさんは、かつては六人の子どもたちや夫と共に過ごした大きな三角屋根の家で、89歳になろうとする今も一人暮らしをしている。一人暮らしを続けながらも、この家には子どもや孫、ひ孫たち家族の賑わいが、どこかしこに感じられる。
 原野での厳しい開拓生活をした直行の傍らには、いつもこのツルさんがいた。協働者として、子どもたちを腕に抱く母として、妻として。厳しい労働を強いられる毎日の中で、ツルさんに授けられた天性の利発な精神とひるまない生命力が、直行を支えてきたことは容易に分かる。今なお、ツルさんからは生命の健康さが伝わってくるからだ。
 ツルさんと共に、今も直行はこの家に生きている。

 急な出張だった。1泊2日。正味1日の札幌行き。短い時間で、大切な資料を的確にお借りするという目的が無事に果たせるのか。館長との打ち合わせにも、厳しさを感じていた。今の北海道は、サクラの開花宣言があった高知とは気候も違う。雨だろうか。雪だろうか。いつもよりも気持ちが引き締まっていた。
 当日。雲の合間から覗く東北地方の雪景色を越えたら、海峡が見えた。早朝出発のふやけた感覚からいっぺんに目が覚めた。久しぶりの千歳周辺。機体が降下し始めると、目に入る白樺の木肌が温かく感じられた。北の大地にも、春が近づいている。
 ここは、海から降りるといきなり山に突き当たりそうになる高知龍馬空港とは違う。北海道はどこに降りても、大地に帰ったという感覚がはっきりとある。アメリカやヨーロッパの空港に降り立つような、広々とした豊かさを感じる。機体が着陸するまでのときめきは旅人に近いものがある。
 しかし、この大地を開拓し開発して行ったのは、旅人ではない。旅人のロマンなど一蹴する厳しい大地と向き合ったのは、文明の利器など持たない先住民や移民たちだったのだ。
 龍馬はこの大地にどれだけあこがれていたことだろう。直寛は何を思い、女こどもの不安と期待はどんなだっただろう。熊本から来た弥太郎。信仰を持った人々と、信仰すら捨てて大地に立ち向かった直行。その家族。時代を遡る感慨が押し寄せてくる。
 かつて見たニューヨーク・エリス島のイミグレーション記念館。説明もない日本人のポートレートとパスポートが語ることの多さ。カナダ最東端、プリンスエドワード島は赤毛のアンの島であり、カナダで最初の州であった。先住民と侵略者の闘いと融合。トロントで見た日系5世展。大陸内奥部ウィニペグまで進んだ日本人たちの思い。かつて旅先で見た、未知の土地での過去の人々を思う。
 目の前に広がる北の大地。こもごもの思いに再会しながら、これは直行さんや龍馬に出会う旅だと感じていた。

春到来・千客万来

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 日脚が伸び、大気は明るくなった。プロ野球キャンプ入り、観光開き、皿鉢(さわち)祭り、お城祭り、二十四万石博。高知の城下に春を告げる中国大陸からの黄砂が、幾日も街や空や海を白く霞ませた。
 ウメ、モモ、レンギョウ、コデマリ、ユキヤナギ。春の花が広がっている。サクラは赤かった樹皮の色がつぼみに移り、その突先ははちきれんばかりだ。いずれ大気は桜色に染まるだろう。春到来である。
 そんな春の賑わいは館にも広がっている。若い学生たちの笑顔、団体の華やぎ、家族連れの和やかさ、一人の充足。所用で来られた方が「えっ?!こんなに人が来てるんですか」と驚かれることもある。
 先日も大学生のグループが、閉館間際まで写真を撮ったり、展示会場を何往復もしていた。彼らが立ち止まった資料について少し説明すると、かなり突っ込んだ質問をしてくる。その意外さに驚いたし、とても楽しかった。若い彼らは、本当に龍馬を知ろうとここを訪ねていたのだ。
 ある年配の方は資料の説明を聞いて「今回の旅で一番の収穫は、今のお話でした」と、何度もお辞儀をしながら、名残惜しそうにバスの集合に向かっていかれた。
 学生たちも年配の方も、私がたまたま通りがかりに出会った人たちである。こういった“他生の縁”らしき方たちをはじめ、各国大使から小さな子どもたちまで、いろいろな方をご案内している。
 「ギャラリートーク」などという気取った言い方はしない。私たちは「解説」という形で、ご予約いただいた方たちに館内の説明をしている。また、予約などなくても、熱心にご覧いただいている方には思わず「ご説明でも…」と声がけをしてしまう。そして、その中で自分自身が一番学んでいることを感じているのだ。
 千客万来。多士済々。日々是愉快。そんな気持ちの春である。

酢屋十代目

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 慶応3(1867)年、龍馬は忙しかった。
 1月、長崎・清風亭での後藤象二郎と胸襟を開いた話し合いから始まり、2度目の脱藩罪赦免、「海援隊」改組、いろは丸事件と交渉、「船中八策」、薩土盟約、イカロス号事件、大政奉還、「新政府綱領八策」、そして、暗殺…。
 そんな6月24日、龍馬は3通の手紙を書いている。権平、乙女・おやべ、望月清平宛の。この日、「船中八策」の提案も終わりホッとしているのか、龍馬は早朝6時から手紙を書き始めた。中でも乙女・おやべに宛てたものは5メートルに及んでいる。(当館で現在、全面展示中)。
 書き出しには「今日も忙しき故薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみしたヽめました。当時私は京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋(すや)に宿申候」とある。
 小さな文字で綴られた三行にある龍馬の状況。この三行に込められた時代と人々、その思いを、人生を賭けて大切に守り続けているのが、龍馬没後140年の今なお「京都三条通河原町一丁下ル」に住まいし、創業以来280年材木商を営み続ける「酢屋」である。
 酢屋十代目当主、中川敦子氏の講演会が、高知市のホテルで行われた。和服姿の中川さんが出て来られた瞬間、ため息のような拍手が起こった。裾さばきに京女の気概があった。
 龍馬ら海援隊の面倒を見た六代目酢屋嘉兵衛以来、「才谷さん」のことは誰にも言ってはいけないという言づけを守り、今や若者の町として、夜の繁華街として賑わう町で、当時と同じたたずまいで暮らす酢屋さんの生き様に、聴衆の拍手は大きかった。
 小柄な中川さんだが、先祖から受け継ぐ誇りと気概は大きい。筋を通しながら、相手を見るまなざしは優しい。学ぶことの多い方である。
 歴史は名を残さぬ人々の気概によって、連綿と続いていく。

 ※酢屋は「ギャラリー龍馬」も主宰。京都にお出かけの時、是非立ち寄ってみられては…。
 http://kyoto-suya.co.jp/

おわりのはじまり

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 企画展「亀山社中と海援隊」も無事終了。「あぁ、間に合った!」と終了間際にまで、近隣遠路の方がお越しくださった。関係各位、ご来館の皆様に心より御礼申しあげます。
 時間が経つのは本当に早い。見慣れた企画展の様子は、新しい風景に変わった。
 立ち止まって見渡すと、この数ヶ月で記念館自体の風景もずいぶん変わった。出入口の変更から始まった館の模様替えもさることながら、随所に新しい萌芽が生まれている。このコラムもそのひとつだろう。職員の関わりや主体性の変化が館外の方にも伝わっているようだ。
 あるHPでは、「龍馬記念館の『海の見える窓』いつも楽しみにしています。みなさんも是非、読んでみてください。館全員の龍馬への愛を感じます。そして詩人が多い」と、この“海窓”を紹介してくれている。
 詩人、か。確かに近頃の職員らの気持ちには詩人に通じるものが表れている。「龍馬の見た海」という入口の案内板もそのひとつ。
 2月4日の案内板は「立春。天気快晴。眺望度100%。ウエディングドレスで駆けていきたいような水平線」。そう、この日は東京のカップル西川健さんと賀屋直子さんの結婚式。記念館2階・空白のステージで若い二人の挙式があった。
 舞台俳優である彼らが初めて館にやって来たのは昨秋のこと。「私たちは龍馬のことが好きで、この記念館で結婚式を挙げたいんです」。直子さんのキラキラ光る瞳が印象的だった。あの海をバックにしたら、彼女はもっと輝いて、彼はもっと大きく見えることだろう。やっていただきたいな、と思った。
 二人の熱意に打たれて開催できたのだと思う。特例である。俳優である彼らは、自分自身の人生を演出したのだ。当日の二人は、確かに水平線の彼方まで駆けていきそうな輝きだった。
 ひとつ終わる毎に、新しい何かが始まる。「おわりのはじまり」。詩人の言葉だったかもしれないが、私の中に沁み込んでいる呪文である。
 大気が明るくなってきた。春は近い。

勝負!

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 森館長から届いた年賀状には「今年は勝負の年。黙って、前進あるのみ」と書いてあった。意気込みを感じる文字だった。昨夏の就任以来、館長は“勝負”という言葉をよく口にしてきたが、最近ようやく私にもこの言葉の持つ明確な意味が理解できてきたように思う。
 4月から当館は、指定管理者として今までとは違う運営方針を持って事業を執り行っていくようになる。県民はじめもっと多くの方に当館を訪れていただくようにするために、館長の言葉を借りれば「命がけで取り組んでいかなければならない」のだ。
 NHKテレビで感動的な番組を見た。小児心臓外科医・佐野俊二さんを紹介したもの。
 1%の可能性に賭ける命の現場で、一人でも多くの命を助ける仕事をする佐野さんに、失敗は許されない。そして、プロとは「誇りと責任感を持って、努力を続けること」だと言う。佐野さんは、患者さんから絶対的な信頼を受けている。「僕はエリートではないんですよ」とほころぶやわらかな笑顔の向こうには、計り知れない努力が存在しているのだろう。
 来月にはイタリア・トリノで冬季オリンピックが開催される。華やかに見えるフィギュアスケートの世界でも、厳しい練習が繰り返されている。新しい採点法に変わり、今までのやり方が通用しなくなった選手たちは、ひたすら勝負の世界に賭けている。甘えは許されない。
 勝負。どんな世界にいても同じだろう。館長が言う言葉の意味が分かりかけた気もする。

 企画展「亀山社中と海援隊」もいよいよあと一週間。お見逃しなく!!

花二題

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 1か月余り前、北海道・とかち帯広空港に降り立つ私を迎えていたのは、眼下に広がる雪をいだいた日高山脈だった。大地には柏林や白樺林も点在する。私は、何度か旅をしたこの大地に、以前と違う思いを持ってやって来ていた。もちろん仕事として来たのだが、懐かしいときめきがあった。
 帯広に来る前に私は、抜けるような青空を背景にしたこの日高の風景を見ていた。小さな油彩画だったが、その迫力に心を打たれた。描いたのは、坂本直行。開拓農民として、山岳画家として生きた人だ。
 広大な山脈の裾野、足元に咲く小さな花々も描き続けた。直行さんの絵を通して、花々を愛する人も多い。直行さんと同郷の帯広出身のオカリナ奏者本谷美加子さんは、直行さんの描いた花に合わせた曲を作りたいと話していた。野に咲く花たちは本谷さんの曲に合わせて、どんな表情を見せるのだろう。
 世阿弥に「自力より出づる振舞あれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳と名附く」とある。芸道で厳しく花を求め続けた人の言葉である。有形無形に直行さんと通じる。
 当館の館だより「飛騰」の題字を揮毫してくださっている沢田明子さんの書展が、高新画廊で開かれた。沢田さん主宰の画廊「北山」開設10年記念でもあり、10年という節目の集大成にふさわしい、とりどりの作品で彩られていた。
 報道写真からインスピレーションを得て書き続ける「小(りっしんべん)」シリーズや自身の言葉で綴られた書の数々。文字は形として元素に帰り、形成された当時の形のままで画になっている。大家にふさわしい筆遣いでありながら、絵のように歌のように語りかける書の持つ風景の豊かさを感じる。
 84歳の沢田さんが会場を歩いている。粋でシックなドレス姿もさることながら、この方が動くと空気がつられて動き出す。沢田さんの動きは気配となって、会場を揺らす。「もう咲かないと思った花が咲いた。一番きれいな花だった」という言葉にも目が止まった。
 「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」。岡本かの子『老妓抄』にある歌が、これほど似合う人はいないと思った。

時節到来

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 降雪で迎えた昨年1月2日の開館と違って、穏やかな日和で始まった新春。年末にカルサポたちが飾った大きな門松も新しい年と皆様をお迎えするにふさわしく、入り口に華やぎを添えている。この正月も館は多くの人で賑わった。館の外では、冬の海が厳しくやさしく、大空と一緒に館を包む。館内の景色も変わった。
 気持ち新たに思う。本年もよい年で、今までより多くの方がここに来て、より深い感動を味わって帰ってくださるように…と。
 さて、昨年は龍馬生誕170年で沸いたが、今年は龍馬の甥の孫・坂本直行生誕100年。
 龍馬の甥・坂本直寛は、龍馬の夢のひとつであった蝦夷地に移住し、開拓や牧師の使命を果たすべくその地に根を下ろした。そして、その子孫は、北の大地に着実に根を張っていく。直寛の孫・直行もその一人。
 しかしながら、坂本直行と聞いて「あぁ、あの人ね!」と言えるのはかなりの方。それよりも「北海道帯広市の製菓会社“六花亭”。そう、チョコレートやマルセイバターサンドが有名よね。その包装紙の花の絵はご存知?」と聞いたほうが、話は早い。その花々を描いたのが、坂本直行その人である。(1906~1982)。
 直行は「なおゆき」と読むが、皆は親しみを込めてチョッコウさんと呼ぶ。(直寛も同じ。なおひろと読むが、チョッカンと言う人が多い)。直行さんは花の絵も多く描いたが、実は日高の山々を愛し、原野を愛した山岳画家である。だが、画壇にある画家ではない。山と絵を愛しながら、北海道大学農学部を卒業した後、十勝の原野に裸一貫で飛び込んだ開拓農民なのだ。何よりも、限りなく厳しく美しい自然と共に生きた一人の人間である。
 龍馬の子孫でありながら、龍馬を語ることなく過ぎた直行さんだが、今に生きる私たちは、直行さんの中に龍馬の生き様を見る。武骨で、一徹で、ユーモラスで、やさしくて、厳しい大地で信念に生きた一人の男。残された数多くの絵もまた、その人を語る。
 今年秋には、その直行さんの絵画を北の大地美術館(中札内美術村)やご遺族などからお借りして、初めての里帰り企画展を開催する。多くの方に感動をお届けしたい。

冬の海

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 四季を通じて水平線が最もくっきり見えるのは冬の海である。 寒気が入ると、海は群青色に光り、海と空がはっきりと区別できる。時おり白波が広がる。そんな日は、風のある寒さの強い一日が続く。海の色が薄くなって水平線がボワーッとにじんで見える日は、暖かく過ごしやすい。海は正直な生き物だ。
 毎日一度は屋上と2階にある望遠鏡で、水平線や海、パッチ網漁船を眺めて感動している人がいる。館長だ。クジラを探しているらしい。館長だけでなく、「海が見たい」とやってくる人もたくさんいる。
 以前、私は毎週のように大月町・柏島の海に通っていた。夏場は魚種も多く、サンゴの間を泳ぐ魚たちの姿を追うだけで楽しかった。しかし、夏の賑わいが去った冬の海は、水中に静けさが漂う。
外洋に臨むここでも、沿岸部にはサンゴも生息しているのだろう。高知の海では、サンゴや魚たちが豊かな世界をつくっている。
 群青色の海を眺めながら、眠っている魚たちを思う。そして、生き物たちを包み込みながら地球に広がる海を思う。海には、今だけでなく過去や未来とつながった時間が漂っている。
 夕暮れ時の帰り道、小高い丘から海側に下りてまっすぐ花海道を西に車を走らせる。海は黒く眠り始めているが、暗闇になる前の空のグラデーションは、心が吸いこまれるように美しい。きょう一日の時間が終わる。色合いを閉じようとする空のやさしさ。冴え冴えとした月と金星。忘れていた記憶が浮かび上がる瞬間だってある。
 1年を振り返った。いろんなことがあった。夕暮れを見ることのできない日が続いた。館でたくさんの人と出会った。龍馬とも近しくなった。
来年はもっとたくさんのことがあるだろう。よいお年を!

 11月19日(土)は館にとって記念すべき日だったと思う。閉館後の6時から1時間半、地下1階の空間が映画シアターとなった初めての日。内容は、「亀山社中と海援隊」関連企画第2弾としてアニメ映画「おーい竜馬」とお話の会である。大型スクリーンにアニメ映画が上映された。参加者約50名。
 近隣の小学生たちが、お父さんお母さんおばあちゃんと一緒にやってきた。隣りの国民宿舎『桂浜荘』に泊まっている熊本の家族連れも参加した。入口から地下1階に下りる階段は色とりどりの座布団が敷かれ、ふだん入館者が通行する雰囲気とは全く違う。この日、高知市内の小学校では音楽会や学習発表会があって、その後の行事である。この日1日を家族と一緒に有意義に過ごしているチビッ子たちはパワーに充ちている。
 海援隊研究第一人者である佐藤寿良さんは、低学年の子どもたちの多さにちょっと戸惑っていたようだが、スクリーンも使いながら、龍馬についてのお話をしてくださった。「30年以上歴史愛好家として龍馬や海援隊のことを調べているけれど、龍馬っていう人は普通の人なんですね。君たちの誰だって龍馬になることはできるんだよ」と語る口調は、子どもたちへの期待と人柄の温かさそのものであった。
 「おーい竜馬」は人気のあるアニメである。もちろん史実と違う場面もあるが、子どもたちと龍馬が出会うにはよい場所だ。ハラハラしたり、ワクワクしたり、子どもたちは龍馬を身近に感じながら夢を紡ぐことだろう。佐藤さんのお話もいつの日か心の底から浮き上がって、新たに語り始めるに違いない。初めて館がシアターになった日。私たち職員はそんな小さな夢が実現できることを確信した。
12月3日(土)には同じ時間、同じ場所がコンサートホールになる。シンセサイザー奏者として国内外で活躍する西村直記さんをお迎えして、新作CD『坂本龍馬FOREVER』を特集する。ミュージアムがコンサートホールになった、心地よい空間と音楽を楽しんでいただきたい。ぜひお越しください。

遠めがね

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 11月15日を記念して、このほど桂浜をはじめ生誕地周辺などで龍馬生誕170年のお祝いが行われた。170年経ってなおこれほど親しまれる龍馬とはいったいどんな人なのだろう。桂浜・龍馬像前の式典に参加しながら私は龍馬に問いかけていた。
 龍馬は新しもの好き、プレゼント好きである。姪の春猪をからかいながら“舶来のおしろい”を贈る約束をしたのは有名だが、家族にも何やかや贈っているし、自分もまた「おねだり上手」であるようだ。「人の付き合いはものをやり、やられから始まる」と言うが、お中元お歳暮などはいい例だ。日本人特有の習慣はさておき、龍馬は思いやりをプレゼントという形に変えて送り届けていたのだろう。
 慶応3(1867)年5月中旬、龍馬は世話になった寺田屋伊助に「遠眼鏡(とおめがね)一つ」と時計一面を贈っている。いろは丸事件の交渉に長崎へ向かう前のことで、少し前の7日には三吉慎蔵宛に自分が死んだ後のお龍のことなどを頼んでいる。添えられた手紙からは、これが最後かもしれない伊助へのプレゼントに託す龍馬の切々とした気持ちが伝わってくる。(現在展示中)
 この遠眼鏡。つまり当時の望遠鏡を、私は先ごろ長崎で初めて見た。朱塗りの瀟洒なものだった。龍馬が伊助に贈ったのもあんなものだったのだろうか。
 さて、当館にも遠めがね、つまり望遠鏡が2基設置された。屋上と、当館2階(以前は1階、11月より現状)南“空白のステージ”の2ヶ所。龍馬の見た大きな海を映している。中でも屋内のものは、「テレボー」という最新式のもので、四国では3番目の設置。もちろん太平洋を眺められるのはここだけだ。
この望遠鏡からは果てしなく広がる海だけでなく、龍馬の志だって眺められるかもしれない。

 11月5日。企画展「亀山社中と海援隊」開催。
ここまで漕ぎ着けたのは、多くの方のおかげだとしか言いようがない。それにしては舌足らずの迫力不足だと嘆くのはご協力くださった皆様に対して失礼な発言かもしれないが、まあともかく開催した。
 実のところ、こんなことを言うと我ながら龍馬に近くなってきたのかと思わざるを得ないが、龍馬にも励まされた。開催数日前には「あきらめたらいかん!」という龍馬の声が体に響き渡った。
 そうだ。龍馬もあの時辛かったんだ。ワイルウェフ号、ユニオン号、大極丸、いろは丸。欲しかった船が次々と自分の手をすり抜けていく。昔馴染みの友が死んでいく。いったい自分は何のために動いているのか。逆境をチャンスに変えて、希望を求めた新天地に、次々と困難が待っている。大切な中間たちとも別れなくてはならないかもしれない。断腸の思い、孤独、選択。しかし、波は押し寄せるばかりではない。失望が退き、希望が近寄ってくることもある。日本の夜明けが近いという実感を、龍馬は確かに感じていたのだ。
 新しい国づくりをめざした龍馬に比べようはないが、新しい記念館づくりをめざそうという少しばかりの意気込みを持つ身には、構想ばかりふくらんで、ふくらんだ気持ちに押しつぶされてばかりだった。勉強不足、力不足の壁にとことん打ちのめされた。長次郎も惣之丞もつらかっただろうなと思うこともあった。
 それでも、テレビ・ラジオ・新聞等でご紹介いただき、こうして皆様をお迎えしている。今までとは違う、新しい夜明けが館にもやってきたことを信じよう。
 お世話になった方たちの中から、私の背中を大きく押してくださった濱島君江さんの姿が見えなくなったのは淋しい。ご冥福をお祈りいたします。

 当館にはカルチャーサポーター(略してカルサポ)というボランティアの人たちが活動している。今年10月現在15名。カルサポなんて和製英語も甚だしいが、なんとも力強い、文化施設つまり当館の“応援団”である。
 そもそもボランティア(volunteer)の語源というのは、英語の志願兵(voluntary=自発的な、自ら進んでする)が一般的だが、ラテン語のボランテール(自由意志)から来ているとも言われる。つまり、強制されるのではなく、自ら進んで参加する、自分の意志で行動するということ。つまり、ボランティアとは主体的に動くことによって自分を高めていくことなのかもしれない。
 今、カルサポたちはかなり自発的に活動していると思う。一昨年度までの活動はさほど多くはなかったが、昨年以来、各種自主企画行事をはじめ、館内業務のお手伝いなどを年間を通じて行っている。しばらく誰も来ない日が続くとちょっと淋しいくらいだ。
 自分のやりたいこと・できること・具体的に何をするのか、などをワークショップを重ねて確認し、実際の活動の手応えや反省の中で、この1年半にずいぶん皆が成長した。…なんていうと人生の先輩方もいる中おこがましいが、担当者としては親心みたいな気持ちで、そう思う。
 「解説なんて難しい」というカルサポの中には、国立大学で史学を専攻し卒論は『土佐の郷士』なんていうK君や、龍馬が好きで京都・霊山歴史館で学芸員実習した中学教師もいる。だから私が「爪を隠し過ぎると詐称罪だよ」(笑)とからかったりしてしまうのだ。高校生から大学生になったカルサポもいる。脇をがっちり固めるかのように、楽しそうに労を惜しまず裏方仕事をしてくれる人生のベテランたちには、私自身が励まされている。
 博物館だ文化施設だという前に、いろいろな人の関わりの中で変化し成長していく場でありたい。

 『お墓参りは楽しい』(新井満著・朝日新聞社刊)という本が最近出版された。龍馬も含め、世界各地のお墓を回る新井氏は『千の風になって』以来、死者との対話の中に“生きる”ということを問うているように思える。悲しい時、辛い時、嬉しい時、心の内に問いかける相手は過去の自分や、今はいない人たちかもしれない。
 さて、身近にも「お墓は本であり、教科書なんですよ」「お墓めぐりは楽しい」という人がいる。当館カルチャーサポーター(ボランティア)の今久保さん。数年前に還暦を過ぎたらしいが、20代の頃からお墓を見ることを趣味にしているので、これは趣味を超えてライフワークとも言えるだろう。実に楽しそうにお墓の話をされる。お墓でその形や年代を読んでいると、その時代の人たちのことが鮮明に見えてくるらしい。
 私も仕事上、お墓めぐりをする機会ができた。実のところ、自分の所の墓参りもまじめにしていないので、心の片隅でちょっとご先祖に申し訳ないなという気持ちも持ちながら…。そして、確かにいろいろな家を訪問するように、いろいろなお墓があるものだと思うようになった。
 歴史愛好家の方の多くは、お墓めぐりが楽しいらしい。「きょうは絶好のお墓参り日和で…」という史跡めぐりをする龍馬会関係者の言葉に驚いたのは、昨年館に来た当時だっただろうか。今でも私は楽しいという心境には遠いが、お墓をめぐっているうちに学ぶことは確かにあるなと思う。
 春以降、今久保さんがリーダーになって、何度かカルチャーサポーターによる小さな歴史探訪ツアーを実施した。そこで、「企画展『亀山社中と海援隊』に向けて、海援隊士ゆかりの地をめぐる歴史探訪ツアーを計画しましょう」と持ちかけたところ、熱心に取り組み始めた。そんな中、「今度、岡田以蔵のピストルを見に行くんです」という話が出た。別の日、私も一緒に岡田家にお邪魔した。この話は別の項に譲ろう。

DNAと出会い

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 「孫にDNAを感じる!」とは、館長の言葉。自分の血が未来につながっていくことを、わが子よりも強く感じるらしい。強気なガッツマンも3歳の孫にはメロメロなんだろうな。ステキなことだ。
 龍馬をはじめ、幕末に活躍した方たちのご子孫にお目にかかる機会がある。時に、写真で見る幕末期の人と同じ顔に出会ったりもする。不思議で、愉快なひとときである。
 中でも長州藩士・三吉慎蔵のご子孫は、DNAを強く引き継いでいらっしゃるように思う。
 この夏、京都国立博物館の一室で初めてお目にかかった時、ひとめで三吉さんだと分かった。それは単に風貌だけでなく、龍馬が心から信頼した三吉慎蔵の誠実と優しさが伝わってきたから。その場には、長州旧家・伊藤九三や京都近江屋・井口新助のご子孫もいらっしゃった。どの方も、ご先祖のDNAを感じさせる風格と気品に満ちていた。そして、ご子孫でしか知りえないだろう先祖から語り継がれた話などをお聞きできたことも、実に楽しかった。幕末はまだ生きている。
 三吉さんに戻ろう。下関取材に行く前、「これから長州に行きます」という電話をした。その時ご本人はお留守で、奥様とお話をさせていただいたが、「最近お墓参りに行っていないので、代わりにご先祖によろしく伝えてくださいね」とおっしゃる。年上の人に失礼ながら、かわいい方だなと思った。長府博物館裏手で『三吉慎蔵』という墓碑に出会ったとき、思わず「こんにちは」と言ってしまいそうになったくらいだ。
 10月15、16日に、高知市で『第17回全国龍馬ファンの集い』が開催される。龍馬生誕170年の今年、そこでどんな出会いが生まれるのか。龍馬ゆかりの人々のDNAを通じて、幕末を感じられるかもしれない。

長崎紀行

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 秋からの企画展「亀山社中と海援隊」に向けて、長崎、五島列島に行ってきた。
 春先から、丸亀・塩飽諸島を皮きりに、神戸、京都、下関、福山…と回った最終ラウンド。
 台風14号の影響で1週間延期した9月半ばの長崎出張は、夏に逆戻りしたような日差しと蒸し暑さの中をひたすら歩いた。(日焼けとシミがお土産に…?!)
 さすが長崎は歴史の街だと思った。何度か訪れたことのある街ではあるのだが、今回のような幕末を中心とした歴史探訪はもちろん初めて。実のところ、何度目かのグラバー邸ですら、龍馬との関わりなど知らなかった私には、角度を変えて見るとこんなにも街の表情が違うものかと驚かされた。
 丸山遊郭「引田屋」は現在、史跡料亭「花月」として363年の歴史そのままを来客に公開している。営業課・加藤さんの説明を聞きながら邸内を回っていると、その昔の男や女たちのさんざめきが、どこかしこから聞こえてくるようだった。女たちの笑いや悲しみが後ろから私を追いかけてくる。歴史は遠くにあるのではないなと思う。悲しみや喜びといった人の感情は、時代や価値観が変わってもそんなに変わらないのではないかと思うから。
 五島も強烈だった。ジェットコースターのような小型高速艇では、ワイルウェフ号乗組員気分でいたのだが、五島龍馬会の元漁労長・杉山さんは「あの時はそんなものじゃなかっただろう」と言う。池内蔵太たちの恐怖はどんなものだったのだろう。それにしても潮合崎を向こうに見る「龍馬ゆかりの地」を整備し顕彰する五島の人たちの思いは熱い。
 遠く時間を超えて異郷に息づく龍馬。何より、今を生きる人たちのまなざしの中にこそ、龍馬は生き続けている。現地の人たちとの出会いの中で、そのことを実感した。
 各地の龍馬会はじめ皆様のご協力がなければ、あれだけの史跡を巡ることは難しかったと思う。心より御礼、感謝申しあげます。

 大型台風14号通過。
 この館で、2度目の秋が来ようとしている。
 去年の夏は台風の襲来が多く、休館も相次いだ。
来館者が去って、残留組の職員だけになると、ここはただ台風と向き合うだけの場所になる。
 高知といえば海に面した県だと思っている人も多いのだろうが、実はここは森林率日本一の山の県。だから、市中に住む私にとって海は出かけて行く場所だったのだが、ここに来て海は近しい友人となった。朝夕の通勤時には海岸線の多いコースを通っているので、なおさら海の表情とは親しいつきあいだ。
 遠く東シナ海で生まれた波も次第にここにやって来る。穏やかな天候が続いているようでも、海は遠くの波涛を教えてくれる。海は地球上の水たまりなどではなく、鼓動し、動き、おしゃべりし、時に眠る、大きな生き物だと実感する。台風の時はなおさらだ。
 もともと土佐人の私としては、台風に対する畏敬とともにワクワクする気持ちがあるのも正直なところ。もちろん、台風が来て得も言えぬ昂奮を覚えるのは私だけではないはずだ。波を見に行こう!と思うし、波をかぶりながら突堤から海を眺める人々の背中はパワーを充電しているみたいにも見える。
 館から見る台風時の、海のうねり、風の力。大海に立ち向かう船のごとく、記念館は波と風に大きく揺れている。被災はともかく、台風には不思議な力がある。

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