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亀山社中時代

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勝の弟子となり順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であった龍馬だが、元治元(1864)年6月5日、京都で池田屋の変が起こり、状況が一変した。池田屋に集まる過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士たちが、新選組の近藤勇(いさみ)らによって一掃され、この中に海軍操練所(そうれんじょ)からも参加者がいた。さらに、7月に禁門の変が起こり、この時にも長州藩(ちょうしゅうはん)側として繰練所の生徒が参加していた。これらが幕府の怒りを買って、勝は江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となる。龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩(さつまはん)の庇護(ひご)の下、長崎で亀山社中(かめやましゃちゅう)という商社を作った。亀山社中は、海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であった。

慶応2(1866)年1月21日、龍馬はこの組織を使って、当時非life-kameyamasyatyujidai2.jpg常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させた。これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、それを画策(かくさく)した龍馬は幕府から危険人物としてマークされることになった。薩長同盟成立の2日後、伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)の役人に踏み込まれた。しかし、寺田屋で働いていたお龍(りょう)の機転と、ボディーガード役の長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。両手の親指などに深手を負った龍馬は、薩摩藩邸でお龍に看護(かんご)を受け、その後お龍と結婚し、西郷隆盛や小松帯刀(たてわき)の勧めもあって、薩摩の霧島山に傷の保養を兼ねた新婚旅行に出かけた。