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大政奉還へ

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慶応2(1866)年7月には、第二次長州征伐が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。

また、龍馬は蝦夷(えぞ・北海道)の開拓や、島根県沖の竹島の開拓を考えたり、11月には薩摩藩と長州藩の合弁(ごうべん)の商社設立を画策したり、経済人としての本領も発揮していた。
この龍馬に目を付けたのが土佐藩だった。薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3(1867)年1月、当時土佐藩政の実権を握っていた参政(さんせい)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が長崎で龍馬と会談を行う。倒幕(とうばく)を目論(もくろ)む龍馬も、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤と手を結び土佐藩に復帰した。これにより、亀山社中は海援隊(かいえんたい)と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊隊長に就任した。

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同年6月頃からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還(たいせいほうかん)を盛り込んだ8つの策を提案した。船中八策である。後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。

龍馬はその1ヶ月後の11月15日※、33歳の誕生日に京都の近江屋(おうみや)で暗殺された。暗殺の実行犯は見廻組(みまわりぐみ)説が有力であるが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎である。

※ 太陽暦では12月10日

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