◆高知市神田1540の南
◆電車上町五丁目下車、タクシー10分

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土佐道路鴨部分岐の土佐道路側に能茶山地下道入口がある。そこを南へ左折してやや狭い道を入り、鴨田小学校を左に神田川に架かる舞高橋を渡り南行すると、高知銀行神田支店前の交差点へ出る。その少し手前で道が大きくカーブする。その右手奥に岩崎弥太郎流罪地とされる所がある。父の事件の不当性を藩に申し出て罪となり、神田村の甲藤楠作の一室に閑居したといわれる所だ。この時、開いた塾には池内蔵太や近藤長次郎らも通ったという。今は民家がたて込み往時を伝えるものは何もない。
高知銀行前の信号を直進し200メートル足らず行くと、三差路の右角に「和霊神社850メートル」の標識がある。そこを南へ右折し神田小学校横を通ると道は水田に突き当たる。右折し、すぐに南へ折れ200メートルほど行くと右手に和霊神社への標識があるので、それに従い進めば坂の上にある。電車を利用ならば上町五丁目電停で下車し、あとはタクシーが便利だ。徒歩なら30分以上は必要だろう。三差路を左折すると前方山裾に木製の鳥居が見える。鳥居から200メートルほどの急な石段を登った所が和霊神社だ。石段の間土は雨水に流され、あるものは木の根が遠慮なく石の間にめり込み、浮いて動くものさえもある。石段を登りつめると右手に簡素な鳥居と瓦葺きの社殿がある。鳥居前の坂本龍馬先生脱藩祭記念の碑文字が目に入る。社殿中央部には和霊大明神の扁額がかかり、格子の中の石製祠に鏡とお札が供されている。格子には10枚足らずの小さな板絵馬と、紅白のカネの緒が吹く風に揺れてかすかな音をたてている。

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この水谷山は才谷屋の所有の山で才谷山ともいったという。神社は宝暦12(1762)年、坂本直益が伊予宇和島から勧請して、才谷屋の守護神としたのにはじまると祠の側面に刻記されているようだ。
文久2(1862)年3月23日、脱藩の決意を固めた龍馬は、酒をもって吉野の花見にとこの和霊神社に詣で、武運長久を祈願したと伝承される。
昭和60年3月24日龍馬生誕150年記念行事としてここで脱藩祭が行なわれて以来、毎年3月24日、恒例の行事として脱藩祭が行なわれている。
周囲には桧の大木がそびえ、その梢をかすめて通る風の音が聞こえる。近くで誰かが畑を耕しているだろうか鍬が土にささる音も聞こえる静けさだ。拝殿前の崩れこわれた石籠炉の、嘉永5(1852)年壬子奉納の文字だけが江戸の歴史を今に語っている。

◆高知市仁井田3021
◆土電バス前浜方面行、瑞山神社前下車、徒歩5分

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半船楼跡の前の道を、下田川に沿って東に2キロほど行くと、左手から流れ込む介良川に沿う道と交差する。そのやや上流に架かる橋が瑞山橋だ。右折してこの橋を渡ると県道仁井田竹中線が南にのびる。左山手に武市瑞山旧宅が見え標識がある。少し手前に数台駐車可能な広場もある。バスなら土電バス前浜行き「瑞山神社前」で下車すればすぐそこだ。
旧邸は県道より100メートル東の山手だ。道が三差路となった門前に武市半平太旧宅及び墓の標柱や案内板がある。左手が旧宅で、右手は瑞山神社から墓地への道だ。
旧宅は現在個人の居宅であり、一般開放はされていない。門をくぐると前方に屋根を白く覆った平屋建がある。それが旧邸だ。坪庭の前の築地塀に沿って進み邸への中門をくぐると、小さくまとまった池や築山があり、それを築地塀が囲んでいる。旧宅はぬれ縁のある簡素な建物だ。間数は6室。客室は8畳で柱に瑞山が刻記した痕もあるという。領知50石の郷士で半農半武の生活。典型的な郷士住宅で質素だがゆとりのある生活が偲ばれる旧邸だ。
坂本龍馬とは遠縁にあたり、お互いあだ名で呼びあう仲だった。土佐藩の現状に見切りをつけていち早く脱藩した龍馬を「土佐にはあだたぬ(おさまりきらぬ)男」と評した瑞山だ。
瑞山は土佐藩あげて尊王攘夷の道を進むことを考え土佐勤王党を結成し、多くの若き志士の共感をよんだ。勤王党は公武合体派の実力者で藩の仕置役吉田東洋を暗殺し、一時は藩論も尊王に導いたが、山内容堂は公武合体の立場から勤王党勢力の弾圧に着手した。瑞山も投獄され、2年後の慶応元(1865)年藩の南会所で自刃し36歳で果てた。

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旧邸の前山には瑞山神社があり、その上が墓地だ。神社には瑞山関係のパネルなどがあり、境内には「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」という彼の遺詠記念碑もある。
墓所へは神社脇の階段を登ればよい。一番手前が夫人武市冨の墓で、それと並んで「武市半平太小楯」の墓石が目に入る。背後の長方形の墓標には、明治四十年五月建立の文字がある。墓域は夫婦別々に割石で囲み、冨の方はやや狭いが、墓石は双方とも二個の切石の基台の上だ。十余基の墓の中、半平太夫妻の墓だけには赤い菊花と、緑濃いシキミの葉が木の間からもれ入る陽に光って見えた。
獄中の夫と同じ生活をと、就寝するにも畳の上に寝ず、蚊帳もつらず、厳寒にも布団を重ねることなく我が身を虐し続けて夫の身を案じた妻冨、墓前に供えられた花一輪が、小楯の方にやさしく傾いているようでもあった。
「時しあれば 吹かでも花はちるものを 心みじかき 春の山風」
冨の遺詠だ。

◆高知市種崎17
◆土電バス種崎方面行、種崎一区下車、徒歩2分

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桂浜、高知県立坂本龍馬記念館から種崎方向へ浦戸大橋を渡ると信号がある。その信号を左に折れ100メートルほど行けば四差路だ。
そこを右折すれば間もなく左手に白く重厚な築地の塀がある。庭木も塀からのり出すような邸だ。現在は個人の居宅で、一般開放はされていない。
慶応3(1867)年9月23日(『随聞随録』)、震天丸はライフル銃千挺を積み、浦戸に入った。種崎に上陸した龍馬が一時密かに潜伏したのがこの中城家だという。
中城家は山内家の御船手方を務め、当時の当主直楯も大廻船御船頭だった。龍馬がここに潜伏したのは、中城家が龍馬の継母伊与の里である川島家のすぐ隣であり歌会などでも親しい交際があったため、龍馬も少年時代から中城家の人々とは面識もあったからだろう。
初代県立図書館長だった中城直正氏が、母からの聞き書きとして『随聞随録』を残している。それには龍馬来宅の様子がくわしく書かれている。
やや黒ずんだ白壁の築地塀、瓦の目地には苔も見える。庭石の一つ、庭木の一本々々にも藩の船手方の生活やその雰囲気がうかがえ、そこに貴重な歴史のページがあるようだ。

◆高知市浦戸
◆県交通バス桂浜行、終点桂浜下車、徒歩4分

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昭和3年5月27日は、桂浜龍頭岬上にたつ坂本龍馬銅像の完成除幕の式典日だった。海上には海軍省派遣の駆逐艦「はまかぜ」の姿があり、銅像足下には、地元44連隊中島中尉指揮下の兵士たちもいた。参列者500名の眼差しは紅白の幕落ちる瞬間に集中した。
当時早稲田大学学生だった入交好保氏が発起し、「坂本先生銅像建設会」を組織し浄財募金の運動を全国に展開した。総工費2万5千円、銅像の高さは17尺5寸(約5.3メートル)、総高は44尺5寸というからほぼ13.4メートルだ。台座裏の銘板には「時 昭和参年五月、建設者 高知県青年、原型 本山白雲、助手 島村治文、鋳造 角川健治、台座工事 宮本金太郎」とある。
昭和63年5月28日、桂浜で行った龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会にあたって司馬遼太郎氏は還暦を迎えた銅像龍馬にメッセージを寄せている。

◆高知市長浜544の西
◆県交通バス長浜桂浜方面行、長浜出張所下車、徒歩2分

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雪蹊寺の前から県道桂浜はりまや線を東に350メートルほど行けば左にスーパーの広い駐車場がある。その東端に道を隔てて鶴田塾跡の標柱と説明板がある。バスなら県交通バス長浜桂浜方面行、長浜出張所で下車すればよい。
鶴田塾は土佐藩の参政吉田東洋の開いた塾で、後藤象二郎や福岡孝弟、岩崎弥太郎らも育った塾だ。
東洋は安政元年江戸出府中に、山内家の親戚で旗本の松下嘉兵衛に無礼をし蟄居を命ぜられた。この塾はこの蟄居中に開いた塾だ。東洋はのち安政5(1858)年には藩政に復帰し、容堂と共に公武合体路線を展開する。

 
◆須崎市
◆JR須崎駅下車、徒歩5分

◆須崎市
◆JR土佐新荘駅下車、徒歩10分

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JR土佐新荘駅から、線路に沿って10分ほど須崎駅方向に引き返すと土佐藩砲台跡(国史跡)がある。
異国船の来航にそなえ沿岸防備のため文久3(1863)年7月から8月にかけて、東・中・西の三砲台が整えられた。現在、広さ51アール、長さ120メートルの西の台場が西浜公園として保存されている。
慶応3(1867)年7月6日、長崎星祭りの夜、英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊にかかった。その夜海援隊の幹部菅野覚兵衛と佐々木栄は丸山で豪遊していた。同夜土佐藩船横笛が、続いて若紫も長崎を出港したから嫌疑は一層深まった。
英国公使パークスは犯人を土佐人と決めつけ、英国と土佐の談判という国際事件の舞台となったのが須崎港だ。
決着をつけるべくパークスを乗せた英艦バジリスク号は慶応3(1867)年8月6日午前9時に須崎港にあらわれた。すでに土佐軍艦夕顔と空蝉は須崎に碇泊し、幕艦回天丸も外国奉行平山図書頭を乗せ、薩艦三邦丸も土佐藩重役を乗せて待っていた。艦船5隻「舳艫相銜(じくろあいふくむ)で港の内外に投錨し、煤煙天に冲し今にも手切となれば、砲声一発血の海を湧かそうと人心競々として安き心もなく」、また陸では、「眼のあたり外艦の来航を見て、外国との開戦を危ぶみ、荷物を片付け避難し、警戒のため毎夜市中に松明を焚き、須崎浜白々昼の如く、雨中開戦のため蓑の用意、英人の首級を包む油紙大小数枚」(『真覚寺日記』より)も用意する騒動となった。

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龍馬も松平春嶽から容堂への書状を佐々木三四郎に頼むべく兵庫出港間際の三邦丸を訪ねた。船上にて佐々木と善後策を講じているうち、船は出港し龍馬も三邦丸に乗船のまま須崎港に来てしまった。
談判は殺害についての確証はなくパークスも如何ともしがたく、もし下手人が土佐人と判明すれば相応の賠償金を支払わせるつもりであったが、談判は不調に終わったため、英艦は須崎を去った。
この談判にちなんで龍馬にもいくつかの話がある。龍馬は夕顔から陸の騒ぎを見て、服装様々の兵が右往左往、早くも開戦の気配が感ぜられたので大石弥太郎に「土佐人は何をしているのか怪しからん。英の艦長を見よ、まだ帆柱に平和の旗を掲げているではないか、戦争は早すぎる」と言うと大石も答に窮し、「いや戦争のつもりで来たのではないが、この機会に戦闘の練習をして士気を鼓舞するためだ」とその場をつくろうと、坂本も一応うなずいたという。(『須崎市史』)また談判の席上で龍馬が英国側の質問に声をたてて笑ったので、英国通訳官アーネスト・サトーに叱責されたという話も有名だ。
今にも砲門開かれようとした緊迫の空気はりつめた歴史の舞台須崎湾も、今は波静かにさざ波が浜に寄せるだけだ。小さい砂上に

浮いたような丸石が数個、石肌を波に洗われ陽光を反射し輝いていた。

◆須崎市横浪半島
◆県交通宇佐方面行、漁協前下車、タクシー20分

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国道56号線須崎市多の郷より県道須崎仁ノ線を7キロほど浦の内方面に行けば、横浪スカイラインの西入口だ。スカイラインを13キロほど走ると銅像前の駐車場に出る。反対側の土佐市宇佐側のスカイライン入口、宇佐大橋からもほぼ13キロ。国道56号線中島分岐からだと22キロの道のりだ。県交通バスなら宇佐行を利用し、スカイライン入口で下車し、あとはタクシーだ。
武市半平太の銅像は昭和54年12月、坂本龍馬も中岡慎太郎も銅像になっているのに、リーダー武市半平太の銅像がないのはと募金によってここに建立されたものだ。しかし完成した銅像は極端に張ったあご、いかり肩、薄い胸など、奇妙なスタイルで不似合いの批判が沸騰した。作者も「注文が多すぎ、不本意な作」といい、昭和60年再建活動に入った。場所は初代と同じ、高さは板垣退助と同程度の3メートルで、 初代の半分、制作は原寛山と定めてのスタートだった。完成した銅像については新聞の見出しも、「半平太今度は男前」と人々の支持を得ての除幕だった。幕が外された途端、雷の閃光がきらめくというアクシデントもある「風雲急を告げた除幕式」だったとは、今も語られている逸話のひとつだ。

◆土佐市荻岬
◆県交通宇佐行、荻岬下車、徒歩2分

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中島信行誕生地より猿喰橋へ引き返し南へ左折し、道なりに3.3キロほど進むと宇佐湾に出る。そこを西へ左折し1.3キロほど行くと左手に広場があり、一段高く改良土佐節の記念碑がある。その脇にハマユウの長い葉に囲まれて白い案内板がある。「筆の丞(改め伝蔵)ジョン・万次郎ら漂流出航の浦」の案内板だ。宇佐はその地形から天然の良港で、古くからカツオ漁業が盛んで、土佐カツオ節生産の中心地だ。藩政期には藩の保護も受け亀蔵節は有名だ。
案内板はいう。「宇佐の漁師で船頭の筆之丞、弟の重助と五右衛門、隣家の寅右衛門、幡多郡中ノ浜(土佐清水市)から働きに来ていた万次郎ら五人は、天保一二(一八四一)年一月五日、この浦の西浜から延縄漁(はえなわりょう)に出た。翌々日足摺沖で操業中突然強風が吹き出し嵐となり、帆は破れ櫓は折れて船は海上をさまよい、数日後無人島(鳥島)に漂着した。」以来12年間の異国の生活が記され、そして「伝蔵兄弟は漁や他国往来を禁じられ、藩から扶持を受けて神妙に暮らしたが、万次郎は一躍幕府の役人に取り立てられ、その新知識は日本の開国に向けて大きく貢献した。数奇な運命に翻弄された伝蔵たちであったが、この浦から船出した漂流者によって、近代日本の夜明けをもたらした。」と。
宇佐の港は土佐湾奥の代表的漁港の一つ、今も漁港は弓状に湾曲した海岸のほぼ中央部にある。今日もエンジンの音を残して大洋へ船出して行く数艘の漁船があった。

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<万次郎中浜出奔の逸話>
「ふと臼の中に砂礫を混ぜて搗くと早く仕上がることを考えつき、家人に黙って悦に言って台柄を踏んでいた。ところが、折悪く見回りに来た主人に見つかり、"粉末ができて品が下がる"と大目玉を食らってしまった。仕事にかけては利発で、素直な少年であるが、腕白盛りのことで"わしが考えてやりよるがやに"と咄嗟に台柄の上で反撥してしまった。"主人に向かってその様はなんだ"とかんかんになって怒って、追いかけてくる主人を尻目にすぐ近くの真浜まで走り、そのまま冬の海へ飛び込んで逃げてしまった。小鼻の碆を越えて大浜まで逃げ、折よく大浜の港で魚揚げをしていた高岡郡宇佐浦西浜の徳右衛門さんの持ち船(長さ8メートル余、2丁櫓のカツオ船)に今までの事情を詳しく話し、彼を捜して大浜まで来ていた親戚の人を通じて、母の許しももらって、この船のかしぎとして乗り組むことになった」

◆室戸市室戸岬町
◆土佐くろしお鉄道奈半利駅下車、県交通・土電バス室戸岬・甲浦方面行、室戸岬下車、徒歩1分

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高知市より国道55号線でほぼ85キロ、黒潮うねる室戸岬の最先端に銅像はある。そのまなざしは、はるか海の彼方に向けられている。
この像の建立運動は、坂本龍馬の銅像完成と時を同じくして、安芸郡下の青年の手で、そして場所は龍馬の桂浜に対して室戸岬にと行動を開始したのにはじまる。しかし経済界の不況や、後免・安芸線の建設、更には室戸台風の被害なども重なって募金活動は決して順調ではなかったという。
銅像は昭和10年4月1日午後3時、地域の人々の歓迎の渦巻くなか室戸港に上陸し、4日には制作者本山白雲の指揮によって据えつけを終った。安芸郡下の青年達が活動をはじめて7年、龍馬像完成から7年ののちに彼等の熱意は実った。2万5千657円の募金だった。
台座の正面には「贈正四位 中岡慎太郎」とある。若き日、共に活動した田中光顕の書だ。高さ17尺5寸、総重量2、000貫、台座共に高さ44尺5寸、刀の重量20貫、地上高46尺余と当時の諸目が残されている。
「天保9年4月 安芸郡北川村に生る 幕末の頃天下の志士と交友し 陸援隊を組織し034-2.jpgその長となり 海援隊長坂本龍馬と共に薩長連合をはかり明治維新の大業に尽力したが 慶応3年11月15日(1867年)夜 京都において刺客のために斃れた 満30才、昭和10年安芸郡連合青年団・室戸岬町連合青年団建之」と像前の花崗岩に記されている。その文字には、陸援隊長中岡慎太郎の新しい日本建設への熱い情熱と、銅像建立に燃えた安芸郡下の青年達の心意気が重なって輝いている。

◆安芸郡北川村柏木
◆土佐くろしお鉄道奈半利下車、奈半利から村営バス・長山橋西詰下車、徒歩10分

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高知市より国道55号線をほぼ60キロ東に行けば奈半利川だ。川を渡るとすぐ、北川村役場へ3キロ、中岡慎太郎館へ7キロの案内板がある。慎太郎館方面へは、ここからタクシーか村営バスを利用するかだ。
国道を左折し3キロほどで北川村役場前を通過する。あとは案内板に従い奈半利川に沿って行けば長山発電所がある。発電所前から右手前方にある橋の向こうに慎太郎館や生家のある柏木の集落が見える。あとはそこを目指せばよい。国道からは案内板通り7キロの道のりだ。
中岡慎太郎館前の駐車場の横には「中岡慎太郎と史跡案内」板があり便利だ。ここには中岡慎太郎の復元生家や、慎太郎の遺徳を偲ぶ中岡慎太郎館、そして慎太郎遺髪埋葬地、慎太郎記念碑、慎太郎の生涯を記した大型モニュメント、そして慎太郎少年が勉学のために朝夕越え、そしてまた脱藩の時も越したという向学の道、更には慎太郎が飛び込み水泳したという岩と渕など慎太郎に関る多くのものが点在し、長時間慎太郎に思いを寄せることのできる場所だ。
慎太郎館は94年4月、慎太郎の生きざまを史実に基づいて鮮烈に再現することを目指して完成させた資料館だ。ここに入館し慎太郎に関する概要を把握して周辺をめぐれば慎太郎への接近が容易だ。

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慎太郎は坂本龍馬と並ぶ幕末の志士だ。北川村の庄屋の家に生まれ、間崎滄浪の塾で尊王論を体得し、土佐勤王党にも加盟する。文久3(1863)年8月の政変後に脱藩し長州に身をよせた。禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件などでも活躍した。その著『時勢論』では、幕府を武力打倒するより外に維新はないと、維新への道を説いている。
幕府の第2次長州征伐をひかえ窮地にたつ長州と薩摩との連合を推進し、 特に京都を追われた五卿など尊攘派公卿に接近し、慶応2(1866)年には薩長同盟成立に尽力しこれを実現させた。龍馬の海援隊に対し、陸援隊を組織し、板垣退助らに働きかけ、 薩土密約により土佐藩論を討幕に一転しようともした。しかし慶応3(1867)年、京都河原町近江屋で坂本龍馬と共に暗殺された。その生家は慎太郎館から、芝生やカラー舗装で整備公園化された中を下ればすぐそこだ。昭和42年に、発見された中岡家の見取図をもとに、当時の庄屋の家によく見られた格式の高い鉤形の肘屋建築様式に復元された。屋根は藁葺きで、軒には瓦が葺かれている。室内は8室に仕切られ、表庭は築地と青竹の塀で囲まれている。裏には少年時代よく登ったと伝えられるナツメの木も最近まであった。
慎太郎館の前方にある烏ヶ森越登口の碑の横の石段を登ると、そこに記念碑と中岡慎太郎の生涯を記した大型モニュメントがある。
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碑は立派な基台にたつ自然石で、その背後のモニュメントは20メートルにもおよぶ長いものだ。慎太郎の生涯が詳細に刻記されている。昭和63年4月、中岡慎太郎を表舞台に出す会、中岡慎太郎先生生誕百五十周年記念行事実行委員会によって建立されたモニュメントだ。
慎太郎館後方150メートルほどのやや上方にある松林寺には中岡慎太郎遺髪埋葬地もある。慎太郎館からは案内板もあり近いので参詣すればよい。山門をくぐると境内の左手奥に大木を傘に墓標が見える。大きな中岡慎太郎先生遺髪埋葬之地とする墓石と、その横に妻兼、そして父小伝次、母うし、姉京のものも並んで建っている。昭和59年11月、中岡慎太郎先生顕彰会によって建てられたものだ。中岡家の墓地は高知市潮江山にあったが、集中豪雨によって崩れ、薊野に改葬されるが、そのうち旧墓石5基をこの地に移したものという。
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「秀才と呼ばれた慎太郎、農民の心の痛みのわかった慎太郎、天下の志士と渡り合った慎太郎、故郷を捨て、死を賭してまで維新回天に命を燃やした慎太郎、文武をきわめ、激動の時代を己の信念通りに生き抜いた彼の気骨が、夢が、喜怒哀楽が、今ここに奇跡のごとく蘇る」と、北川村の慎太郎によせる想いは大きい、慎太郎に関る村主催のイベントも盛んだ。

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