◆安芸郡田野町土生岡
◆土佐くろしお鉄道田野駅下車、徒歩30分

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二十三士殉節之地よりさらに500メートルほど北に行けば道は三差路となる。その右手に「清岡道之助旧邸、車で5分」の表示板がある。そこからすぐ山手に登ればよい。ここから旧邸までは800メートルほどの道のりだ。旧邸は土生岡の字の示すとおり、海抜55メートルほどの土生台地上だ。道はすべて登り坂と思えばよい。台地の上、開けた所に邸に向かって真っ直ぐな道があり、その奥に門構えが見える。
旧邸は道よりやや高く、広い4段ほどの石段を上がり、冠木門をくぐって入る。道よりは1メートルほど築き上げられた石垣と、その上に青竹の垣があり、庭には木々が茂る。門脇には「二十三士首領清岡道之助邸」の説明板がある。
邸の周囲数町歩の耕地は、もと郷士清岡家の領地で、道之助と弟半四郎はここが生家だ。邸は南に面し、一間半の玄関には、3枚の障子とその前に板縁がある。左手には瓦葺きの板塀があり、塀門をくぐると坪庭が広がる。邸は古色をおび、木目のうき出たぬれ縁と、白い障子に太陽が照りつけてまぶしい。邸の西北部奥まって白壁の土蔵もある。簡素な建物だが、郷士の邸らしく重々しい。

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冠木門ごしに南を見ると、はるか台地の下に太平洋がまぶしく波を反射して見える。門の両脇にある大木は、その葉も濃緑のままで歴史の年輪を伝えている。
邸は昭和48年4月1日、清岡暎一氏により田野町へ寄贈され、現在町の文化財として保存されている。

◆安芸郡田野町
◆土佐くろしお鉄道田野駅下車、徒歩10分

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奈半利川西詰の国道脇に、清岡道之助旧邸、浜口雄幸旧邸、二十三士殉節の地の大きく目立つ案内板がある。ここを北へ左折し、奈半利川堤防上を400メートルほど行けば、堤防下に大きな記念碑がある。この川原が殉節の地だ。
元治元(1864)年9月5日、阿波に逃れた道之助らは、郷里田野に送還され、安芸奉行所岡地の獄舎(現在の中芸高校)に入った。藩の方針は、その罪については吟味するまでもない、現地において速やかに処刑せよだった。麻田楠馬、森権次、乾退助、後藤象二郎らの署名入りの命令書によるものだ。
藩権力と直接向かい合い、己の信念を披露し、死はその後と信じていた彼等を迎えたのはすでに準備されていた刑場だった。
刑場は1メートル四方で、20センチほどの土盛がつくられ、その上に莚を前半分かかるように敷いた。23人は1人ずつ処刑され、終ると首切り役人が足で莚をはねて死体に着せて終ったという。真っ先は16歳の木下慎之助で、全員処刑が終ったのは午前9時だった。
記念碑は昭和5年、昭和天皇大典を記念して、町の青年団が建立したもので「二十三士殉節之地」の碑文は、この地出身の浜口雄幸の揮毫だ。昭和43年3月には町指定の史跡となり、幾度か整備されて現状となった。
処刑の日は9月5日、奈半利川原は秋風むせぶ秋の風景だったであろう。人々はその秋風に言葉に尽せぬ怨みを残して若き命を閉じた二十三士の無念の死を偲び、奈半利川原刑場跡を二十三士公園とした。

◆安芸郡田野町福田寺
◆土佐くろしお鉄道田野駅下車、徒歩3分

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高知市より国道55号線を東へ55キロほどで田野町だ。奈半利川橋の右手前に楠の大木が茂る福田寺じがある。道ばたには大きな田野町観光案内図もある。ここからだと福田寺の裏口より入ることになるが参詣には便利だ。
寺域に入るとすぐ「二十三士と武市瑞山」の大きな説明板があり、その右手に二十三士の墓が鉄柵に囲まれて建っている。
元治元(1864)年7月、田野の郷士清岡道之助を首領として、安芸郡下の尊王攘夷派23人が北川村野根山に集結し、藩に対し「藩政改革、攘夷、瑞山の釈放」の嘆願書を提出した。「私たちは軽輩ながら、殿様の御恩は何よりも有難く、ひとえに土佐守様の馬前で討死にすることだけを願うものである。国事につき思いが激しく、やむを得ず紙面にしたためて差上る次第、どうか出すぎた点をお許し頂きたい、ここに屯集していることが罪にあたるならば、後日どのような罰にでも処していただきたい。(原漢文)」との嘆願書だ。これに対し藩は、嘆願の内容は全く問題にせず、直ちに徒党強訴とみなして召し捕えを命じ、手向かいする者あればその場で殺してさしつかえないとの方針を示した。当時藩の大監察だった後藤象二郎は吉田東洋派であり、乾退助(のち板垣退助)もまた武断派だった。ともに容堂の側近にいて勤王運動弾圧の先頭に立っていた。藩は討伐の軍を送り、道之助ら一行は一時阿波までは逃れたが、蜂須賀氏の兵に補えられ送還されて刑場の露と消えた。

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二十三人の遺骸は道之助の遺言によって福田寺に葬られた。ただ道之助と治之助の首は鏡川の雁切河原で3日間晒されての帰郷であった。道之助の妻静子は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、作法に従い柄杓の柄で首と胴をつないだという。
「よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん」 
夫の霊を慰めて夫人は詠んだ。それは今墓前の自然石に刻まれて建っている。
本堂の正面には武市瑞山の小さな銅像と石田英吉の「二十三士記念碑」もある。

◆安芸郡安田町
◆土佐くろしお鉄道安田駅下車、徒歩10分

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高知市より国道55号線を東へ52キロほどのところに安田町役場への標識がある。標識に従い左折すると、左手に安田八幡宮の鳥居と、右手に安田町役場の庁舎がある。道は狭いが国道よりは100メートルほどの距離だ。
左側安田八幡宮鳥居に接して高松医院がある。鳥居前を左折し医院前の小さな路地を西進すると、道は民家に突き当たって曲がる。この付近の右手一帯が高松順蔵の邸跡という。邸は道より一段高い所にあったというが、いまは民家が密集し邸跡を語るものは何もない。前方には酒造会社の煙突が高くそびえる。
高松家はかつては安芸郡では安田、東島、香我美郡は西川、東川、そして長岡郡の入野、土佐郡の梶谷など15石6斗9升の領知をもった郷士邸の面影を残している。
龍馬の長姉千鶴は、この家の12代目順蔵のもとに嫁ぎ、2男1女をもうけた。明治となって龍馬のあと目を継ぎ、坂本直と改名した高松太郎、そして兄権平の養子となった坂本直寛の母だ。
龍馬も時々この邸を訪れたようだ。のんびりと縁側から見える太平洋を眺めたこともあっただろう。「丁度私がお国にて安田順蔵さんの家に居るような心持にており候事に候」と寺田屋での生活を姉乙女やおやべに知らせた手紙もある。安政の頃千鶴から龍馬にお守りを送った手紙もあり、姉思いの、また弟思いの姉弟の間が知れてほほえましい。
順蔵は高松小埜とも号し、居合術の達人で、歌や絵もたしなみ、多くの文人、学者との交わりもあったようだ。天誅組の安岡斧太郎や、海援隊の石田英吉、そして中岡慎太郎らもこの門を叩いた。たびたびこの邸を訪れた龍馬もまた順蔵からの感化が大きかったではなかろうか。
長男高松太郎は叔父龍馬と共に海援隊士として活躍し、龍馬の死後は坂本家の養子となり、龍馬の遺志を継ぎ、弟直寛と共に北海道の開拓に尽力した。

◆安芸市上江ノ川公園
◆土佐くろしお鉄道安芸駅下車、徒歩2分

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国道55号線、安芸市役所より100メートルほど手前、江ノ川橋より北方(左手)に安芸郵便局がある。その前が江の川公園だ。
昭和59年は岩崎弥太郎生誕百五十年の年だった。この年を記念し、安芸市が立案し、安芸商工会議所などが中心となって全国に募金活動を展開した。目標の3千万円を1年で達成する活動だった。
像の高さは3.3メートル、台座の高さ1.1メートル、その周囲に16メートル四方の別の囲みを作り、そこに弥太郎の活躍を象徴する版画風の絵が飾ってある。像の制作者は浜田浩造氏だ。芸西村の「お龍・君枝像」や、梼原の「維新の門」も彼の作だ。「故郷に帰り、和服姿で海に向かって立っている弥太郎をイメージし、時代の風を受けとめる大きさ、偉人のもつ独特の雰囲気を出したかった。かっぷくのよい高校時代の同級生に和服を着せ、大型扇風機で風を送って着物の裾の動きをみたり、手のひらの表情、右手の角度など幾度か作り直した」と作者はいう。撰文は日本芸術院院長有光次郎で、揮毫は安芸市出身の手島右卿だ。
右手を力強くあげ、時代の激風に向かって立つ威風堂々とした弥太郎の銅像が除幕されたのは、昭和61年7月12日だった。

◆安芸市一ノ宮
◆土佐くろしお鉄道球場前駅下車、タクシー10分

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国道55号線、安芸市街地西入口に安芸市営球場への道がある。その次の交差点に岩崎弥太郎邸入口の標識がある。それに従って左折し3キロほど直進すると左手に一宮神社がある。鳥居前を過ぎると弥太郎邸を教える標識があり邸はすぐそこだ。
周囲は竹垣がめぐり、茅葺きの屋敷を中央にして、左には三菱傘下諸会社の有志によって建立された自然石の記念碑があり、奥には土蔵群が並んでいる。天保5(1834)年に生まれた弥太郎はここで青年期を過ごした。
生家は4室平屋建であり、藩政期の中農クラスの代表的屋敷とされるものだ。表座敷の南にある小庭には、弥太郎が夢を託して自ら置いた大八洲(おおやしま)という日本列島を形どった石組がある。日本を手中に収めようとする弥太郎の大志がうかがえる庭だ。
後年建てられた土蔵には三菱の家紋も見える。この家紋は三階菱に土佐藩の三葉柏を重
ねて考案されたもので,明治6(1873)年からだという。
邸から西方にそびえる山が妙見山だ。標高448メートルの山頂には、この地の産土神星神社がある。弥太郎はよくこの山に登ったという。彼が江戸遊学の際ここに参詣し、「男子志ならずんば再びこの山に登らじ」と社殿の壁に大書して祈願したという話は有名だ。

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弥太郎は地下浪人という低い身分ではあったが、吉田東洋の門下となり、後藤象二郎らと交流し、慶応2(1866)年には土佐藩開成館の長崎の出先である土佐商会の責任者となった。亀山社中が海援隊に改編されると、藩からの融資の窓口となり、海援隊士の給料の支払いをはじめ、龍馬の要求した50両の用立てにも応じている。世界の海援隊を夢みつつ果たさずに散った龍馬の遺志はこの弥太郎によって受け継がれたものとみてもよかろう。
「坂本龍馬と同年の弥太郎は五十歳で没したが、明治維新よりわづか十八年、彼の行った事業は壮大でその後の日本の経済、政治にも大きく影響した。生誕百五十年(1984)を記念して三粁西南 江の川上公園(国道55号線沿い)に銅像を建立した」と銅像紹介の案内板も立っている。

◆安芸郡芸西村琴ヶ浜
◆土佐くろしお鉄道和食駅下車、徒歩10分

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高知市より国道55号線を26キロほど東に行けば芸西村だが、その和食川に架かる堀切橋の所に大きく「琴ヶ浜 松原野外劇場入口」の看板がある。そこを右折し太平洋の方に出ると東方に像は見える。ここから300メートルほどの距離だ。
芸西村和食は海援隊士菅野覚兵衛の出身地だ。菅野覚兵衛は、龍馬やお龍のすすめで、お龍の妹君枝と結婚し、君枝もしばらくこの地に住んだ。龍馬を失ったお龍は、明治元(1868)年3月、高知城下の坂本家に身を寄せるが、後、芸西村の覚兵衛の兄富之助の所に滞在したことがある。富之助の娘仲子と同室で暮し、龍馬遺品の短銃で雀を撃って戯れたり、ここを去る時、今まで保存していた龍馬からの手紙も、焼き捨てるよう依頼して京都に出たというエピソードなどを残している。
姉妹像は、「姉妹愛と共に 龍馬 覚兵衛を記念しよう」と芸西村が建立したもので、平成5年5月12日の除幕だ。高さ1.7メートルのブロンズ製で、作者は安芸市の岩崎弥太郎や、梼原町の維新の門など制作した浜田浩造氏(故人)だ。お龍や君枝の写真をもとに、桂浜の龍馬に向かって手を振る姿の姉妹像だ。
碑の横には山田一郎氏の「お龍・君枝の銅像の言葉」と『ある海援隊士の生涯』(佐藤寿良著)より抜粋された龍馬・お龍・君枝・覚兵衛に関る系図の記された陶板も自然石の中に埋め込まれている。
像の前は黒潮の太平洋、背後には緑濃い松並木が続く名勝琴ヶ浜、まさに白砂青松の中、はるか桂浜龍頭岬に立つ龍馬に向かってやさしく手を振る像、その指先からは龍馬への愛ほとばしる思いがする。お龍27歳、君枝16歳の頃を想定しての作という。

◆南国市才谷大浜屋敷
◆県交通バス領石・田井方面行・土電バス新改行領石下車、徒歩30分

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高知自動車道南国インターチェンジ入口を左に見て、更に国道32号線を1キロほど走り信号を右折すると領石橋だ。橋を渡って左に300メートルほど行くと右手道ばたに「坂本龍馬先生先塋の地」の碑があって、その脇では「才谷龍馬公園こっから入りや。あと2.4キロぜよ」と龍馬の肖像看板が案内してくれている。「先塋」は祖先の墓地、「塋」はハカ・墓地のことだ。
指示に従って右に道をとって進むと鳥居があって、この辺り一帯が「ほたるの里」になっていることや、公園まで1.5キロであることが案内板に示されている。
龍馬公園の冠木門をくぐると自然堂と名付けられた建物と桜の木に囲まれた広場がある。平成6年、美しい町づくり推進事業によって整備されたもので毎年11月に催される才谷龍馬祭などのイベントに使用されて賑わうが、いつもは静かな山あいの地である。
自然堂のなかに「坂本氏家系図」が掲示されて、龍馬と大浜屋敷という地名のつながりを意味づけている。「大浜濤次郎」の名を龍馬が使ったのも、この地にちなんだものであることがわかる。
坂本神社は公園の広場の奥の樫の古木の繁みの中にある。「坂本神社」の扁額のかかっている小さな鳥居でそれと知れる。

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鳥居の右後方に、坂本家二代彦三郎、三代太郎左衛門の墓石がいくつかの石盛墓と並んでひっそりと建っている。墓石には苔が生え墓誌などは判読しかねるほどに風化している。
坂本家は四代八兵衛守之が寛文6(1666年)年に高知城下に出て、本丁三丁目で質屋業「才谷屋」を創業し、更に酒造業、諸品売買業へと家業を拡げて城下屈指の豪商となって苗字帯刀御免となるなど、才谷屋の基礎を築いた。
当時、城下の分限者として中央では仁尾久太夫と櫃屋道清がおり、下町では酒屋の根来屋又三郎、上町では才谷屋八兵衛、といわれたという。五代八郎兵衛正禎は本丁の年寄役となって藩主のお目見え御免となり、六代八郎兵衛直益は窮乏する土佐藩の財政に貢献すると同時に、豊かな経済力をもとに学問にも志した教養人でもあった。
墓石の側面に「坂本八郎兵衛直益建之」の文字が見える。もちろん、初代太郎五郎の墓も建立している。
直益には2人の男子があり、兄の兼助(八郎兵衛直海)は郷士の株を買って分家し、弟の八次(八郎右衛門直清)は才谷屋の家業を継いだ。
龍馬は兼助の曾孫である。

 
◆長岡郡大豊町立川
◆JR大杉駅から町営バス立川行・立川番所前下車、徒歩2分

◆長岡郡大豊町荷宿
◆JR大杉駅から町営バス立川行・立川番所前下車、徒歩5分

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国道32号線、高知市から大豊町役場までほぼ40キロの道のりだ。そこから国道439号線を本山方面ヘトンネルを抜けると立川番所への案内標識がある。それに従って右折し、あとは立川川に沿って行けばよい。要所要所に案内板が立っているので迷うことはない。立川番所までは国道439号線の分岐からは13キロほどだ。高知自動車道なら大豊ICで降りればよい。
立川番所(関所)は、江戸時代参勤交代における土佐最後の宿所であると同時に、国境警備の要衝の一つだった。六代藩主豊隆の頃(享保3年・1718)より、海路を陸路に改め、陸路の布師田~領石~穴内~本山~川口を経て立川から笹ヶ峰を越え馬立~川之江への道をとるようになった。立川番所は、安芸の野根山越えの岩佐や吾川の名野川と並ぶ重要な番所で、特に警戒も厳重だった。登り口には、旧立川番所書院まで150メートルと教える大きな案内板が立っている。
大きな茅葺き屋根の番所屋敷は御殿と呼ばれ、今も昔のままに保存され、国の重要文化財に指定されている。寛政年間(1800頃)の建築で茅葺き寄棟造りだ。間口8間半(1間は約180センチ)、奥行き6間半、藩主宿泊の上段の間も入れると9室ある。もとはその2倍もあったというから随分大きかったことがわかる。

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ここより500メートルほど上流に荷宿という所がある。藩政期、産物や商品の荷物の集散地であったことからきた地名だ。この付近が坂本龍馬らが水戸浪士と会見した地とされている所だ。幅100メートルほどの谷間であり中央に立川川が流れ、四方高い山に囲まれてはいるが二車線の道路がある。上方を走る高知自動車道建設のために開発された道だ。
安政5(1858)年水戸浪士住谷寅之助と大胡聿蔵は10月17日立川番所まで来た。だが入国手形を持たなかったため入国できず、立川荷宿の木屋や岩吉の家で坂本龍馬に入国の周旋を依頼した。坂本龍馬は、川久保為助、甲藤馬太郎らと共に23日夜、雨中を駆けて立川まで来て会談したものだ。この会談について住谷寅之助は『廻国日記』の中で「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家」と記してはいるが、政治情勢にはうとく、世間知らずと失望の色をみせている。この時龍馬は24歳、江戸から帰国したばかりで、まだ本格的に政治へ目覚めた時期でなかったせいだ。龍馬の本格的な政治への目覚めは、土佐勤王党に加盟以後27歳頃とみるべきだろう。
いま、会談の場所となったという木屋岩吉の家の所在地は判然とはしないが、高知自動車道高架下の立川川沿いの平場ともいう。ガードレール脇には立川御殿保存会による「荷宿跡 坂本龍馬 住谷寅之助会見の地」の小さな標識が立てられている。

◆高知市薊野北町1丁目11
◆県交バス高知営業所方面行・西薊野下車、徒歩10分

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電車通りから北へ中ノ橋通りを3キロほど進むと愛宕山の北側で県道高知北環状線と交差する。右折して量販店イオン高知を見ながら更に進むと左手にヤマダ電機の建物と、その裏手に小高い真宗寺山が見えてくる。墓はこの山頂部にある。バスなら高知県交通バス高知営業所方面行で西薊野で下車すればよい。
勤労クリニック(旧四国勤労病院)入口、真宗寺山の東端から山手の道を40メートルほど進み、左手へ急な細道を5分も登れば市街地を眺める平坦な墓地に出る。右手は孟宗竹の林だ。
龍馬研究会による「岡田以蔵の墓」を示す横長の標識と竹に巻きつけた赤いビニールテープに案内されて竹林を20メートルも入ると岡田家の墓地だ。8基余り並ぶ一番奥の「岡田以蔵宜振墓」には季節の花が手向けられていた。
岡田以蔵、父義平、登稔、登稔妻などの墓が並び建っている。登稔は勤王党員だった弟である。以蔵の名は土佐勤王党血盟者192名の中にはないが「血盟者以外の勤王党同志人名録」112名の中に近藤長次郎や清岡道之助らと共に名を連ねている。
家は郷士で20石を領した。武市瑞山道場で一刀流剣術を修業し、安政3(1856)年9月、瑞山に随伴して江戸に出、桃井春蔵に入門して鏡新明智流を修め、帰国後、瑞山に従って九州諸藩をめぐって剣の腕を磨いた。
文久2(1862)年、藩主豊範に従って上京したが尊王攘夷論のうずまく中で、彼は同志と組んで天誅を加えた。スパイ的行動により前土佐藩監察井上佐一郎、幕府の間諜越後浪士本間精一郎、宇郷玄蕃や儒者池内大学、その他を暗殺した。
文久3(1863)年はじめには龍馬のすすめで勝海舟の塾へも一時入門したが、同年の勤王党の獄によって捕えられ、たび重なる拷問に耐えきれず自供し、同志の不利をまねいたとされる。
慶応元(1865)年閏5月11日、武市瑞山は切腹、同志3人は斬首、以蔵は斬首の上、雁切河原に晒された。28歳だった。
辞世の歌は「君が為め尽くす心は水の泡、消えにし後は澄みわたる空」と伝えられている。

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