◆高知市柴巻381
◆県交通バス円行寺行、終点より徒歩50分

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電車通り、坂本龍馬誕生地のすぐ西の上町二丁目の交差点を右折して、北山を目指して8キロほど走れば柴巻だ。県交通バスなら円行寺行終点で下車。そこから歩けば50分はかかる。
上町2丁目交差点から北山への道は県道弘瀬高知線だ。この道を6キロほど行くと山の中腹で道は二つに分れる。標識に従い左に入れば2キロほどで邸入口に到着する。そこから邸へは歩いて1分もかからない。舗装された畠中の小道を登ると、高い石積みの塀越しに屋根だけが見える。南はひらけ眼下に高知の市街地を見おろす土地だから、邸を護る風防の石塀も必要だろう。石積みの間のあちこちに植え付けられたサボテンの大きな房が歴史の古さを伝えている。2メートルほど022-3.jpgあいた石塀の切れ目が入口で門構えなどはない。2メートルほどの高さに6~7段積まれた大きな石塀の高さに圧倒されながら門を通ると、塀の内には細長い坪庭があり邸がある。石塀は90年ほど前の作という。邸は6.5間×4間ほどの平屋で、左の部分は一部手が加えられたが、部屋は田の字型の間取りで、玄関のぬれ縁の上には田中家の家紋をあしらった欄間も残して維新の頃のままという。
坂本家はこの周辺に坂本山と呼ばれるほどの持ち山があり、田中家はその管理を引き受けていた家だ。このため龍馬もよく柴巻を訪ね、良助と兎狩りや碁や将棋を楽しみ、邸横にあった池では、子どもたちとよく水遊びをしたとも伝えられる。

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龍馬は文久元(1861)年10月、讃岐丸亀方面に剣術詮議に出かけるにあたって、良助から二両借金をした。その借用証が現存するのは有名だ(高知県立歴史民俗資料館に寄託)。
黒ずんだ柱、しとみ板やぬれ縁の浮き出た木目は風雨にうたれて歴史を語る。縁先に据えられた1基のふみ石には龍馬のぬいだ履物があるかのようだ。田中家は、良助が領知の管理に用いた地図や書類、小銃操法の教典、その他碁盤・将棋盤も所有している(高知県立坂本龍馬記念館に寄託)。これらは数少ない龍馬ゆかりの品々だ。この邸は老朽がひどく雨漏りもはじまっていたが、平成14(2002)年高知市が「史跡」として認定し修理修復を行った。石積みの塀の前の小道を100メートルほど西方に行くと田中家の墓地がある。整然と刈りそろえられた芝生の岸の向こうに掃除のゆきとどいた墓地がある。

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ここからも高知市街地は一望できる。墓は12基あり、良助の墓は自然石の上に1個の角石が置かれ、その上に田中良助墓の墓標がある。側面に明治十年七月二十五日の没年が刻まれる。隣には田中良助妻の墓が添っている。
邸の裏山に八畳岩がある。車なら邸の入口から200メートルほど登れば道の左手に標柱や坂本龍馬と田中良助の柴巻などの案内板があるからすぐ分かる。この案内板の正面辺りの山が「坂本山」で坂本家が所有の山だった。「坂本山のかがり石」といわれる垂直に立つ大きな岩もある。
022-8.jpg案内板に向かって右手の小さな山道を100メートルほど登ると八畳岩だ。案内板は、「田中家へ遊びに来た龍馬は、この岩の上にのぼり、良助さんと一緒になって酒などを飲み、よく遠くを見ていたそうである。ここは遠望のきく場所で、ここからは高知城を中心とした市街地、それに浦戸湾、五台山、そのむこうの海まで見通すことができる。龍馬は八畳岩から小さく見える高知城と自然の雄大さを比較しながら『高知城は小さい。そのむこうにある大きな世界を見てみたい』と大声で叫んだかも知れない。」とここちよく説明する。

◆高知市南はりまや町2丁目1-34
◆JR高知駅下車・電車桟橋行・はりやま橋下車、徒歩3分

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はりまや橋バスターミナル西端あたりが小龍生家跡だ。近年小龍のレリーフと説明板が設置されている。
坂本龍馬は安政元(1854)年の秋頃、絵師河田小龍と出会い、世界情勢などを聞き大いに啓発されたという。
「貧乏な下級武士で、志ある秀才を用いるならば、人なきを嘆くことはない」と言う小龍の言葉に、「きみは内に居て人を造り,僕は外にあって船を得べし」と将来を約して別れた話は有名だ。
小龍は単なる画人ではなく、その知識は広く、多くの門人が集まった。龍馬もその1人だったが、龍馬に航海通商の必要性を説き、門人をこの方向に送り込むことを約し、これを実行した。近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助らがそれだ。

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中浜万次郎の漂流記とされる『漂巽紀略』は小龍の記録だが、龍馬が小龍に出会った時は、すでにこの書は藩庁提出後であり、龍馬はこの書物を目にすることはなかったという。

◆高知市南はりまや町2丁目2-10
◆JR高知駅下車・電車桟橋行・はりまや橋下車、徒歩3分

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はりまや橋バスターミナル西端から南に進むと得月楼駐車場がある。ここが長岡謙吉の誕生地だ。標柱も何もないが、かつては2階建ての部屋や土塀もあり、前庭には松の古木もあったという。
坂本龍馬とは遠縁にもあたり、慶応2(1866)年頃に長崎で会い、翌年組織された海援隊に加入する。以来、龍馬と行動を共にし文書の作成などを積極的に手掛け、海援隊の文官的役割を果たした。慶応3(1867)年6月の「船中八策」も龍馬らの意向をうけて謙吉がまとめ、10月の大政奉還建白書の草案、作成にも参加した。海援隊刊行の『閑愁録』も彼の著書だ。

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河田小龍の家もすぐ隣であり、謙吉も幼い頃から出入りし、彼の知識は小龍の感化と影響を見逃せない。龍馬の死後も同志と共に塩飽諸島の鎮撫に努力し、開発と管理につとめ慶応4(1868)年4月には海援隊長にもなった。明治5(1872)年6月病死。39歳だった。

◆高知市九反田17(東九反田公園)
◆電車知寄町行・菜園場下車、徒歩10分

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ホテル日航高知旭ロイヤルの前の道を東へ進むと右手に公園があり、そこに「憲政之祖国」の大きな記念碑がある。この公園が「開成館跡」、「三傑会見の地」、「海南学校跡」、「憲政記念館」と呼ばれる所だ。公園の南西隅に「開成館址 西郷木戸板垣三傑会合之地」の碑も建っている。
開成館は慶応2(1866)年、藩が殖産興業、富国強兵を目指して建設したものだ。慶応3(1867)年8月、イカルス号水夫殺害事件は、夕顔艦上での交渉では片付かず、場所を長崎に移した。通訳のサトウは、後藤象二郎の招待で藩船空蝉で須崎を出発、8月11日浦戸に着いた。イギリス公使の通訳アーネスト・サトウと山内容堂の会見はここで行われた。この時の様子は、坂本精一訳『一外交官の見た明治維新』に詳しく載っている。
三傑会見には,明治4(1871)年1月19日、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、杉孫七郎と、板垣退助、福岡孝弟らが出席し、三藩協力して政府を強化し、維新の大業完成を目指す親兵献上の案を決定した会談だ。これは廃藩置県にもつながる。この地こそ維新前後の歴史の大きな舞台であった。

◆高知市桜井町1丁目2-32
◆電車知寄町行・菜園場下車、徒歩3分

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新堀小学校の東側堀沿いを南へ進み、その東に架かる新堀橋を渡ると右手が横堀公園だ。周りに木々が茂り子どもたちの遊具もある。この公園の北東隅に、下段に青石、上段に赤石を配した武市半平太邸跡の碑と説明板がある。
瑞山は嘉永2(1849)年、吹井村から妻冨子や祖母と共にここに転居した。道場は安政2(1855)年の春、門口6間、奥行4間(11×7.3m)のものを建てた。碑は現在ここにあるが、もとはこの道路の北側に設置されていた。実際に邸と道場のあった場所はここから約30メートル東の道路北側付近と推定される。道場跡も邸跡も伝えるものは何もない。瑞山の門人には中岡慎太郎、岡田以蔵、五十嵐文吉、久松喜代馬ら勤王運動家など120名にのぼり、龍馬もここによく出入りした。龍馬は角張ったアゴに特徴のある瑞山を「武市のアギ」とか「武市の窮屈」とか呼び、瑞山もまた龍馬を「龍馬のアザ」「坂本の法螺」などと呼び合った仲だった。
また門柱のそばでよく放尿する龍馬にたまりかねた瑞山の妻冨が、それを瑞山に訴えると「龍馬ほどの人物だ、小便ぐらいおおめにみてやれ」といった話や、剣術の練習後、新堀で体をよく洗ったという話など有名だが、これもこの邸や道場での出来事だろう。

◆高知市はりまや町3丁目17-21
◆JR高知駅下車、徒歩10分

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JR高知駅から電車軌道に沿って南に歩くと江ノ口川に架かる高知橋がある。それを渡らず東へ左折すると右手前方に山田橋が見える。車道は狭く風変わりなセメント製の欄干だ。歩行者の橋もすぐ上流に沿ってある。この橋の南詰東側が藩の獄舎跡地で、西側が番所跡だ。当時、橋の南詰は広小路となっており山田町升形ともいわれた。廓中の升形にちなんだものだろう。この橋は北街道、東街道からの城下への入り口であり番所と高札場があった。
この獄舎は、文久2年には青蓮院宮の令旨を得て、隠居中の山内豊資のもとで藩政改革を行おうとし、山内容堂の怒りに触れた間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され切腹処刑された所であり、また慶応元(1865)年5月11日には、岡田以蔵、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎ら勤王党の獄で捕えられた志士たちもここで斬首された。多くの勤王の人々の血をみた獄舎の跡だ。

◆高知市与力町5-18
◆電車大橋通下車、徒歩5分

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板垣退助誕生地から南へ150メートルほど鏡川方向に歩くと日本キリスト教団土佐教会、聖泉幼稚園の門前に後藤象二郎先生誕生之地の碑がある。
後藤象二郎は1歳違いの板垣退助とは竹馬の友であり、叔父吉田東洋に抜擢され容堂の信任も厚かった。
慶応元(1865)年の土佐勤王党の獄での処断で、大監察の彼の厳酷な審理は周辺から怖れられもした。慶応2(1866)年には開成館仕法開業にこぎつけ、航海遠路の策をすすめ、長崎から上海にまで足をのばしその見識を変えた。

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坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになった。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功した。

◆高知市本町2丁目3-18
◆電車大橋通下車、徒歩2分

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県民文化ホール北の交差点を東に折れて10分ほど歩くと左手に高野寺がある。武市瑞山殉節之地からだと、南の電車通りに出、大橋通り信号を渡り南へ100メートルほどの所の信号を東に左折すれば高野寺だ。その門前に、大きく黒ずむ自然石の板垣退助先生誕生之地の碑と死生亦大矣の2つの碑があり見落すことはない。
龍馬と板垣との接触は晩年のことで、慶応3(1867)年9月24日、龍馬がライフル銃を積んで浦戸入港の時、渡辺弥久馬宛の龍馬の手紙の中に「蒸気船を以て本国に帰申候(略)後藤参政はいかがに候や、(略)乾(板垣)氏はいかがに候や。早々拝顔の上、万情申述度」と板垣の名も出ている。
板垣は慶応3(1867)年5月、中岡慎太郎の紹介で、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らと交流している。そして、坂本龍馬や後藤象二郎らが、大政奉還の平和路線をすすめている一方で、板垣は中岡慎太郎、西郷らとともに武力討幕の薩土密約を結んだことは有名だ。

◆高知市鷹匠町2丁目4
◆電車県庁前下車、徒歩3分 

014-2.jpg 武市瑞山殉節の地より西へ再び県庁前堀ばたに出る。高知県庁の正門前の大通りを電車通りに抜け、信号を渡って南に進めば、県民文化ホールがある。その前方が鷹匠公園だ。この公園側道ばたの大木のもとに山内容堂公邸跡の碑がやや傾きかけて建っている。説明板もなく1本の標柱だけだ。山内容堂の実父山内豊著はこの公園付近に住み、この辺りは南屋敷ともよばれた。

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容堂は土佐藩15代藩主だ。嘉永の黒船来航頃まではその才幹を発揮できなかったが、以後雄藩の大名とし、幕末には四賢公の一人と称せられる代表的藩主にまでなった。吉田東洋を起用して海防充実、藩権力強化に成功し、将軍継嗣では一橋慶喜を推して朝廷に働きかけもした。時局の変転の中では公武合体を強力にすすめ、土佐勤王党を弾圧し流動する事態に対処もした。
将軍慶喜への大政奉還の進言は有名で、その実現の原動力ともなった。酒と美女を好み、書も愛し多くの詩文も残している大名だ。

山内容堂の誕生地は追手筋だ。もと来た道を県庁の方に引き返し、県庁前の堀に沿って東へ歩道を歩くと高知城追手門前に出る。追手門の中には板垣退助の銅像もある。その脇の高知県立図書館前には、土佐藩初代藩主山内一豊の銅像もある。014-4.jpgその前を東進し信号を渡ると、すぐに天理教高知大教会の白い築地塀を背に山内容堂公誕生之地の碑がある。
文政10(1827)年10月9日、父は山内豊著、母は扶持大工平石氏の娘だという。碑だけでほかに当時を語るものは何もない。
明治5(1872)年6月21日46歳で没するが、墓所は歴代藩主の眠る筆山ではなく、東京都品川区東大井の立会小学校と大井公園に隣接した所にある。

◆高知市帯屋町2丁目5-18
◆電車大橋通下車、徒歩2分

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吉田東洋記念の碑から帯屋町筋に出、アーケード内を200メートルほど歩くと左手に四国銀行帯屋町支店がある。その角に、武市瑞山先生殉節之地の赤文字が人目をひく。繁華街でありこの碑の前はいつも自転車やオートバイの駐輪がひどく碑の隠れることが多い。碑の両脇にかけての説明には、「武市小楯 通称は半平太瑞山と号す 文政十二年九月長岡郡吹井村に生まれる 天資英偉明秀人格一世に高し幕末多難際に土佐勤王党を率い国事に奔走す後吉田東洋暗殺に連座し慶応元年閏五月十一日この地に割腹す時に年三十有七」と、高知市文化財保護協議会の撰文だ。

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東洋暗殺が勤王党の仕業とみなされ、文久3(1863)年9月瑞山らは捕えられた。南会所の獄舎につながれ、吉田東洋配下の後藤象二郎の厳しい追求を受けた。瑞山の弟田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死がその追求の厳しさを伝えるものだ。土佐勤王党の最終処分は瑞山の切腹をはじめ、獄死2名、斬首3名、禁固7名の処置だった。岡田以蔵の獄門の極刑もこの時だ。

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