◆高知市追手筋2丁目1
◆電車堀詰下車、徒歩5分

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高知追手前高校芸術ホール前の信号を南へ渡ると、追手前小学校の東側塀沿いに吉田東洋先生記念之地という違和感のある題名の碑がある。昭和33年2月高知市教育委員会の建立だ。繁華街帯屋町の近くであり碑の前は自転車やオートバイで隠され見落すことがあるから要注意だ。
吉田東洋は山内容堂に抜擢され藩の仕置役となる。江戸で山内家の親戚の者を接待中に相手の無礼に我慢できず、その頭を叩いたため一時免職となるが、復帰後はその手腕を振るった。常に公武合体路線を推進し土佐勤王党の主張を書生論として一蹴もした。このため文久2(1862)年4月8日、土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の3人によって斬られた。城中二の丸で藩主豊範に「日本外史」「信長記」本能寺の変を講義し、最終講義だったため酒肴にあずかり、亥の刻(午後10時頃)雨の中の帰り道だったという。

◆高知市北本町1丁目5-22
◆JR高知駅下車、徒歩7分

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JR高知駅前から南西方向に,高知警察署のビルが見える。駅前大通りの南側だ。北側は高知中央郵便局で、その前の信号を南に左折し警察署の横の信号を西へ2つの目の四差路の南西民家の前に間崎滄浪先生宅址の碑はある。警察横の信号からは西へ2分も歩けばよい。道路整備のたびにアスファルトが盛られ碑の下端「址」の刻字は半分埋まっている。昭和3年12月の建立だ。
文久元(1861)年土佐勤王党に加盟し、江戸に出てからは多くの志士との交流もあった。龍馬とは文久2(1862) 年8月26日江戸で逢い会飲しながら時局を論じたこともある。また12月5日には江戸の越前藩邸で近藤長次郎も交えて松平春嶽に謁見し、大坂近海の海防策も具申したともいう。後に平井収二郎、弘瀬健太らと共に、青蓮院宮の令旨を受けて山内豊資をたて藩政改革を目指すが、逆に容堂の怒りに触れて山田町の牢につながれ文久3(1863)年6月8日自刃して果てた。
少年時代から奇童と称されるほど学高く、16歳で江戸に出、帰国して19歳で江ノ口に私塾を開いた。門人には吉村虎太郎、中岡慎太郎、島本仲道らもいたようだ。吉田東洋にその才が認められ一時浦役人に登用されたこともあった。
昭和41年、高知市東久万の墓所から、先祖が住んだという中村市江ノ村(間崎村)長法寺内に分骨し、滄浪の絶命詞碑(墓)も建て翌年には顕彰館もできた。

◆高知市山手町98の東
◆電車旭町1丁目下車、徒歩10分

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坂本家墓地の案内板よりもと来た道を永福寺に通じる三差路まで引き返し、そこを北へ右折しJRの踏切まで行く。案内板より5分ほどの距離だ。この踏切のすぐ上の民家の庭に接して平井収二郎先生誕生地の碑がある。昭和10年1月の建碑だ。平井加尾は平井収二郎の妹で龍馬の初恋の人とされる人物だ。龍馬が文久3(1863)年8月14日乙女に宛てた、「江戸で見染めた千葉佐那に比べ加尾が少し劣る」という手紙はよく知られている。また龍馬から送った文久元(1861)年9月13日の「一、高マチ袴、一、ブッサキ羽織、一、宗十郎頭巾、外に細き大小一腰各々一ツ、用意あり度存上候」の手紙も、龍馬の目指すものが何であったか謎の手紙とされるものだ。また兄収二郎の切腹を龍馬は「平井の収二郎ハ誠にむごいむごい」と言い、「いもふとおかおがなげきいか斗か」と、龍馬にとって痛恨事であったとともに、妹加尾に抱いていた想いも伝わる手紙も残り、龍馬と平井兄妹との親密な関係を察することができる。
加尾はのちに警視総監となる西山志澄と結婚し生涯を終えるが、晩年の「涙痕録」に龍馬と再会できなかった若き日のことを「女子一生の痛恨」と記し、龍馬と加尾の関係が単なる幼なじみでなかったことも印象づけている。

◆高知市三の丸
◆電車上町5丁目下車、徒歩15分

上町5丁目電停北側のサンプラザ上町店横を北に入ると江ノ口川に出る。上流に向かってサンシャイン井口店を左手に見ながら進み、永福寺の手前の三差路を右折して500メートルほどで三の丸団地に行き着く。更に進むと左手に3棟の4階建てマンションがある。三の丸霊園はこれより右手へ5分ほど山道を登った所だ。
才谷屋の墓地は、もとは三の丸の2か所に分かれていたが、この地域の開発に伴って、新しく造成されたこの霊園に移されたもので、霊園の最前列の西寄りの地にある。
才谷屋の初代・大濱八兵衛守之と妻佐耶、2代・大濱八郎兵衛正禎、3代・坂本八郎兵衛直益の各夫婦など、16基の墓石が納骨堂の後ろに2列に整然と並んでいる。城下屈指の豪商にふさわしく、いずれも笠石をおいた立派なつくりだが、初代・八兵衛守之の墓石は風化による傷みがすすんでいる。
系図は、龍馬の父・長兵衛が天保9(1838)年に土佐藩庁の命により先祖書きをしたためて差出したものといわれている。

◆高知市山手町70の東
◆電車上町5丁目下車、徒歩10分

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永福寺門前からすぐ上流に、ややはすかいに架かる福井橋がある。この橋を渡って100メートル余り進むと三差路がある。「坂本(龍馬)家一族の墓これより上方約100メートル」と記した案内板にしたがって坂道を登りつめて少し下がると、再び坂本家墓地案内図がある。
左折して墓石の間の細い道を登ると真新しい墓地公園の説明板が見える。
平成20(2008)年3月、高知市教育委員会によって立てられたものだ。
坂本家墓地は、以前は2か所に分かれていた。
旧第一墓地はここから更に50メートル余り上方にあったが、平成14(2002)年8月、現在地(旧第二墓地)に移転・改葬された。丹中山の墓地周辺を含む開発が民間業者の手ですすめられたからだ。
墓石は、手前右から、父坂本八平直足、直足妻、兄坂本権平直方、坂本権平の妻、2列目右から、八平直足の後妻、龍馬の養子坂本直(高松太郎)、坂本直寛の妻坂本鶴井・鶴井妹兎美、権平直方の妻、3列目右から、坂本権平後妻、姉坂本栄、姉坂本乙女、祖父坂本直澄妻、兄坂本権平直方の長男坂本富太郎、4列目、曾祖父坂本八平直海、坂本八平直海妻、坂本八平直海の女(むすめ)、祖父坂本八蔵直澄、坂本直寛後妻翠、兄権平直方の曾孫土居清一、土居昭夫の21人の霊が眠っている。そして、後方の墓域外の一角に「坂本栄密葬の跡」の小さい碑が建っている。
旧第一墓地から移転改葬されたのは、4列目の7人だ。コンクリートを敷いた墓地のこの部分だけが新しいので、それとわかる。
母幸は、弘化2(1846)年龍馬12歳の時、父八平直足は安政2(1855)年龍馬21歳の時に亡くなっているから、彼も一族とともに棺に添ってこの墓地への坂道を上って来たと思われるし、春秋の先祖の墓参りも欠かさなかったことであろう。しかし、今は墓地周辺の開発がすすみ、往年のおもかげはない。

◆高知市西町30
◆電車上町4丁目下車、徒歩5分

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池内蔵太邸跡より西方すぐの左手に広い駐車場がある。その駐車場付近が望月亀弥太邸跡とされている。
ちょうど水路を隔てて車瀬公園の北側辺りになる。
龍馬とは早くから知己の仲で、土佐勤王党にも兄清平と共に加盟している。文久3(1863)年1月には龍馬の紹介で勝海舟のもと、神戸海軍塾で航海術を修得した。坂本直や千屋寅之助らも一緒だった。
この頃より武力倒幕による王政復古の実現を目指す運動に加わり、長州藩士らとの交流も繁くなった。元治元(1864)年6月5日、勝塾を脱して京都池田屋に集結中、新撰組の襲撃を受け重傷を負い、いったんは逃れたが二条角倉邸で力尽き自刃した。石川潤二郎、北添佶磨、野老山五吉郎、藤崎八郎ら土佐藩士らと運命を共にした。27歳の若さであった。
「行く秋によしおくるとも 紅のちりてぞ匂へ木々の紅葉」
高知市旭水源町西の墓石に刻まれた辞世の歌だ。

◆高知市西町21-1
◆電車上町4丁目下車、徒歩5分

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細木病院の敷地に沿って西へ廻れば、西町の通りに出る。右折するとすぐ三差路になるが、池内蔵太邸跡へは、この三差路の道を西に100メートルほど歩くとよい。道は狭く細木病院方向からの一方通行の道だ。この西町の通りは江戸期には下級武士の住む屋敷町であった。今でも築地塀や土用竹の生垣などもあり、古風な住宅地の面影を多く残す通りだ。
池内蔵太は龍馬とは早くからの友であり、文久3(1863)年5月に脱藩し、長州の外国船襲撃の際には遊撃隊参謀として参戦している。天誅組の挙兵には洋銃隊長として、また禁門の変では忠勇隊に属して戦い、長州藩の内戦にも正義党に属して戦った歴戦の勇士だ。

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慶応元(1865)年5月、下関で龍馬と面会して以来、亀山社中にも加入し行動を共にするが、翌年の閏5月、薩摩の後援で入手したワイルウェフ号の乗組士官として乗船し、長崎から鹿児島に向かう途中、嵐に遇い長崎県五島列島塩屋崎で遭難し船と運命を共にした。26歳。郷里西町のこの地に、若き妻を残しての死であった。龍馬が内蔵太の死を痛んだことは、乙女や内蔵太の家族に宛てた手紙から察することができる。若妻や母への痛ましい心のうちが・・・。
池内蔵大の邸跡を知らせるものは何もない。
西町だけを訪れるなら、上町2丁目より西へ1つ目の信号のある交差点を北に直進すると江ノ口川に架かる車瀬橋がある。これを渡るとすぐに西町の通りに突き当たる。池内蔵太邸跡は、この三差路の東角付近だといわれ、少し西に歩くと望月亀弥太邸跡もすぐそこだ。

◆高知市上町3丁目6-1
◆電車上町2丁目下車、徒歩1分

005-1.jpg近藤長次郎邸跡の碑前のすぐ北の通りが水通町だ。現在も東西に走る道に水路がある。慶応2(1866)年、城下の本格的な町づくりによって、町の中央に幅5間、長さ500間の水路を開き、金子橋から堀に落すようにした。この用水路に樋をかけて廓中の人々が利用する水でもあった。水通町の信号を西へ左折し、1つ目の四差路を北へ右折すれば左手に喫茶「さいたにや」が見える。この周辺が才谷屋跡だ。
才谷屋は坂本家の本家で、寛文6(1666)年に長岡郡才谷村からこの地に出て質屋を始め、後に酒屋や諸品売買業へと商いを拡大していった。八兵衛守之が最初だ。文禄から享保にかけて驚異的に発展し、播磨屋や櫃屋とならび称され、城下屈指の豪商にまで成長する。
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才谷屋はもともと大浜姓を名のっていたが、明和4(1767)年、初代の太郎五郎の墓を建てた時には坂本姓を刻んでいる。この墓は直益が建てたとされるもので、坂本姓は直益の頃と思われるが、改姓の理由や時期を確証するものはない。三代目直益の長男八平直海が、本丁筋一丁目南側に分家したのが明和7(1770)年3月で、その翌年5月新規郷士となり坂本家が始まる。龍馬は直海の曾孫だ。
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現在、才谷屋の跡を明確にすることはできないが寛政4(1792)年頃の「上町分町家名附牒」によれば、現在の喫茶「さいたにや」の手前から南にかけて広く、南の水路も隔て更に南側までもあったのではと推定されている。当時の 才谷屋の看板とされるものは、高知市民図書館に所蔵されている。

◆高知市上町2丁目8-20
◆電車上町2丁目下車、徒歩2分

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河田小龍塾跡の月の瀬橋北詰めから、そのまま北に2~3分歩けば道の東側の電柱のもとに近藤長次郎邸跡の碑がある。
近藤長次郎は天保9(1838)年3月、水道町3丁目の餅菓子・饅頭屋に生まれた。このため饅頭屋長次郎の名もある。龍馬とは生家も近く少年時代から親交があったろう。17歳で河田小龍の門下となり、文久2(1862)年には、勝海舟のもとに入門した。文久3(1863)年に結婚するが、新婚生活の借家も龍馬の世話であったという。長州藩の外国船砲撃事件の調停など常に龍馬や勝と行動を共にし、勝が失脚して後も亀山社中周旋役として、長州のために英商人グラバーから小銃を買い付け、ユニオン号購入にも尽力し成功する。

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しかしその際、長州より得た報賞金で、独断でイギリス留学を秘密裡に計画したことが露見した。その行為は亀山社中の社規に反するものであったため、慶応2(1866)年1月14日切腹する。29歳だった。その時、京都にいた龍馬は「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」と『手帳摘要』に残し、「おれが居ったら殺しはせぬのじゃった」とお龍には語り、死を惜しんだという。
碑は道ばたに車道を背にし歩道から碑文字が見える建て方だ。邸跡を語るものは何もないが、邸は碑より東側にあり、碑は邸跡を眺めて建つ格好だ。

◆高知市上町3丁目15-4
◆電車上町2丁目下車、徒歩5分

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築屋敷の石垣前の道の鏡川側は、芝生や樹木が植えられた土手である。土手から見る上流には、鏡川に架かる月の瀬橋がある。その橋の北詰め西側辺りが小龍の塾跡とされているところだ。水天宮の社があるが、その西辺りだったともいう。周辺に塾跡を伝えるものは何もない。
小龍は安政の大地震で住んでいた家を失い一時は城北に移ったが、紺屋町の門田兼五郎の好意で築屋敷に住むようになったらしい。龍馬が小龍を訪ねたのもこの家だろう。
安政元(1854)年の秋の頃という。龍馬誕生の地からは5分ほどの距離だ。江戸で黒船襲来を経験して帰国後のことでもあり、小龍から聞く世界情勢や大艦のことなど大いに啓発されたことだろう。近藤長次郎や長岡謙吉、新宮馬之助ら小龍の門下生との交遊もこれ以後のことだ。
『藤陰略話』では、龍馬が「あなたは人をつくりなさい。私は船を作りましょう。」と言って小龍と別れた、と記している。小龍と龍馬との交流、そして龍馬の決意がうかがえる有名な話だ。

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