山内容堂公邸跡

◆高知市鷹匠町2丁目4
◆電車県庁前下車、徒歩3分 

014-2.jpg 武市瑞山殉節の地より西へ再び県庁前堀ばたに出る。高知県庁の正門前の大通りを電車通りに抜け、信号を渡って南に進めば、県民文化ホールがある。その前方が鷹匠公園だ。この公園側道ばたの大木のもとに山内容堂公邸跡の碑がやや傾きかけて建っている。説明板もなく1本の標柱だけだ。山内容堂の実父山内豊著はこの公園付近に住み、この辺りは南屋敷ともよばれた。

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容堂は土佐藩15代藩主だ。嘉永の黒船来航頃まではその才幹を発揮できなかったが、以後雄藩の大名とし、幕末には四賢公の一人と称せられる代表的藩主にまでなった。吉田東洋を起用して海防充実、藩権力強化に成功し、将軍継嗣では一橋慶喜を推して朝廷に働きかけもした。時局の変転の中では公武合体を強力にすすめ、土佐勤王党を弾圧し流動する事態に対処もした。
将軍慶喜への大政奉還の進言は有名で、その実現の原動力ともなった。酒と美女を好み、書も愛し多くの詩文も残している大名だ。

山内容堂の誕生地は追手筋だ。もと来た道を県庁の方に引き返し、県庁前の堀に沿って東へ歩道を歩くと高知城追手門前に出る。追手門の中には板垣退助の銅像もある。その脇の高知県立図書館前には、土佐藩初代藩主山内一豊の銅像もある。014-4.jpgその前を東進し信号を渡ると、すぐに天理教高知大教会の白い築地塀を背に山内容堂公誕生之地の碑がある。
文政10(1827)年10月9日、父は山内豊著、母は扶持大工平石氏の娘だという。碑だけでほかに当時を語るものは何もない。
明治5(1872)年6月21日46歳で没するが、墓所は歴代藩主の眠る筆山ではなく、東京都品川区東大井の立会小学校と大井公園に隣接した所にある。