岡田以蔵の墓

◆高知市薊野北町1丁目11
◆県交バス高知営業所方面行・西薊野下車、徒歩10分

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電車通りから北へ中ノ橋通りを3キロほど進むと愛宕山の北側で県道高知北環状線と交差する。右折して量販店イオン高知を見ながら更に進むと左手にヤマダ電機の建物と、その裏手に小高い真宗寺山が見えてくる。墓はこの山頂部にある。バスなら高知県交通バス高知営業所方面行で西薊野で下車すればよい。
勤労クリニック(旧四国勤労病院)入口、真宗寺山の東端から山手の道を40メートルほど進み、左手へ急な細道を5分も登れば市街地を眺める平坦な墓地に出る。右手は孟宗竹の林だ。
龍馬研究会による「岡田以蔵の墓」を示す横長の標識と竹に巻きつけた赤いビニールテープに案内されて竹林を20メートルも入ると岡田家の墓地だ。8基余り並ぶ一番奥の「岡田以蔵宜振墓」には季節の花が手向けられていた。
岡田以蔵、父義平、登稔、登稔妻などの墓が並び建っている。登稔は勤王党員だった弟である。以蔵の名は土佐勤王党血盟者192名の中にはないが「血盟者以外の勤王党同志人名録」112名の中に近藤長次郎や清岡道之助らと共に名を連ねている。
家は郷士で20石を領した。武市瑞山道場で一刀流剣術を修業し、安政3(1856)年9月、瑞山に随伴して江戸に出、桃井春蔵に入門して鏡新明智流を修め、帰国後、瑞山に従って九州諸藩をめぐって剣の腕を磨いた。
文久2(1862)年、藩主豊範に従って上京したが尊王攘夷論のうずまく中で、彼は同志と組んで天誅を加えた。スパイ的行動により前土佐藩監察井上佐一郎、幕府の間諜越後浪士本間精一郎、宇郷玄蕃や儒者池内大学、その他を暗殺した。
文久3(1863)年はじめには龍馬のすすめで勝海舟の塾へも一時入門したが、同年の勤王党の獄によって捕えられ、たび重なる拷問に耐えきれず自供し、同志の不利をまねいたとされる。
慶応元(1865)年閏5月11日、武市瑞山は切腹、同志3人は斬首、以蔵は斬首の上、雁切河原に晒された。28歳だった。
辞世の歌は「君が為め尽くす心は水の泡、消えにし後は澄みわたる空」と伝えられている。