岩崎弥太郎旧邸・妙見山

◆安芸市一ノ宮
◆土佐くろしお鉄道球場前駅下車、タクシー10分

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国道55号線、安芸市街地西入口に安芸市営球場への道がある。その次の交差点に岩崎弥太郎邸入口の標識がある。それに従って左折し3キロほど直進すると左手に一宮神社がある。鳥居前を過ぎると弥太郎邸を教える標識があり邸はすぐそこだ。
周囲は竹垣がめぐり、茅葺きの屋敷を中央にして、左には三菱傘下諸会社の有志によって建立された自然石の記念碑があり、奥には土蔵群が並んでいる。天保5(1834)年に生まれた弥太郎はここで青年期を過ごした。
生家は4室平屋建であり、藩政期の中農クラスの代表的屋敷とされるものだ。表座敷の南にある小庭には、弥太郎が夢を託して自ら置いた大八洲(おおやしま)という日本列島を形どった石組がある。日本を手中に収めようとする弥太郎の大志がうかがえる庭だ。
後年建てられた土蔵には三菱の家紋も見える。この家紋は三階菱に土佐藩の三葉柏を重
ねて考案されたもので,明治6(1873)年からだという。
邸から西方にそびえる山が妙見山だ。標高448メートルの山頂には、この地の産土神星神社がある。弥太郎はよくこの山に登ったという。彼が江戸遊学の際ここに参詣し、「男子志ならずんば再びこの山に登らじ」と社殿の壁に大書して祈願したという話は有名だ。

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弥太郎は地下浪人という低い身分ではあったが、吉田東洋の門下となり、後藤象二郎らと交流し、慶応2(1866)年には土佐藩開成館の長崎の出先である土佐商会の責任者となった。亀山社中が海援隊に改編されると、藩からの融資の窓口となり、海援隊士の給料の支払いをはじめ、龍馬の要求した50両の用立てにも応じている。世界の海援隊を夢みつつ果たさずに散った龍馬の遺志はこの弥太郎によって受け継がれたものとみてもよかろう。
「坂本龍馬と同年の弥太郎は五十歳で没したが、明治維新よりわづか十八年、彼の行った事業は壮大でその後の日本の経済、政治にも大きく影響した。生誕百五十年(1984)を記念して三粁西南 江の川上公園(国道55号線沿い)に銅像を建立した」と銅像紹介の案内板も立っている。