野根山二十三士の墓

◆安芸郡田野町福田寺
◆土佐くろしお鉄道田野駅下車、徒歩3分

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高知市より国道55号線を東へ55キロほどで田野町だ。奈半利川橋の右手前に楠の大木が茂る福田寺じがある。道ばたには大きな田野町観光案内図もある。ここからだと福田寺の裏口より入ることになるが参詣には便利だ。
寺域に入るとすぐ「二十三士と武市瑞山」の大きな説明板があり、その右手に二十三士の墓が鉄柵に囲まれて建っている。
元治元(1864)年7月、田野の郷士清岡道之助を首領として、安芸郡下の尊王攘夷派23人が北川村野根山に集結し、藩に対し「藩政改革、攘夷、瑞山の釈放」の嘆願書を提出した。「私たちは軽輩ながら、殿様の御恩は何よりも有難く、ひとえに土佐守様の馬前で討死にすることだけを願うものである。国事につき思いが激しく、やむを得ず紙面にしたためて差上る次第、どうか出すぎた点をお許し頂きたい、ここに屯集していることが罪にあたるならば、後日どのような罰にでも処していただきたい。(原漢文)」との嘆願書だ。これに対し藩は、嘆願の内容は全く問題にせず、直ちに徒党強訴とみなして召し捕えを命じ、手向かいする者あればその場で殺してさしつかえないとの方針を示した。当時藩の大監察だった後藤象二郎は吉田東洋派であり、乾退助(のち板垣退助)もまた武断派だった。ともに容堂の側近にいて勤王運動弾圧の先頭に立っていた。藩は討伐の軍を送り、道之助ら一行は一時阿波までは逃れたが、蜂須賀氏の兵に補えられ送還されて刑場の露と消えた。

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二十三人の遺骸は道之助の遺言によって福田寺に葬られた。ただ道之助と治之助の首は鏡川の雁切河原で3日間晒されての帰郷であった。道之助の妻静子は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、作法に従い柄杓の柄で首と胴をつないだという。
「よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん」 
夫の霊を慰めて夫人は詠んだ。それは今墓前の自然石に刻まれて建っている。
本堂の正面には武市瑞山の小さな銅像と石田英吉の「二十三士記念碑」もある。