武市瑞山(半平太)旧邸 武市瑞山(半平太)の墓

◆高知市仁井田3021
◆土電バス前浜方面行、瑞山神社前下車、徒歩5分

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半船楼跡の前の道を、下田川に沿って東に2キロほど行くと、左手から流れ込む介良川に沿う道と交差する。そのやや上流に架かる橋が瑞山橋だ。右折してこの橋を渡ると県道仁井田竹中線が南にのびる。左山手に武市瑞山旧宅が見え標識がある。少し手前に数台駐車可能な広場もある。バスなら土電バス前浜行き「瑞山神社前」で下車すればすぐそこだ。
旧邸は県道より100メートル東の山手だ。道が三差路となった門前に武市半平太旧宅及び墓の標柱や案内板がある。左手が旧宅で、右手は瑞山神社から墓地への道だ。
旧宅は現在個人の居宅であり、一般開放はされていない。門をくぐると前方に屋根を白く覆った平屋建がある。それが旧邸だ。坪庭の前の築地塀に沿って進み邸への中門をくぐると、小さくまとまった池や築山があり、それを築地塀が囲んでいる。旧宅はぬれ縁のある簡素な建物だ。間数は6室。客室は8畳で柱に瑞山が刻記した痕もあるという。領知50石の郷士で半農半武の生活。典型的な郷士住宅で質素だがゆとりのある生活が偲ばれる旧邸だ。
坂本龍馬とは遠縁にあたり、お互いあだ名で呼びあう仲だった。土佐藩の現状に見切りをつけていち早く脱藩した龍馬を「土佐にはあだたぬ(おさまりきらぬ)男」と評した瑞山だ。
瑞山は土佐藩あげて尊王攘夷の道を進むことを考え土佐勤王党を結成し、多くの若き志士の共感をよんだ。勤王党は公武合体派の実力者で藩の仕置役吉田東洋を暗殺し、一時は藩論も尊王に導いたが、山内容堂は公武合体の立場から勤王党勢力の弾圧に着手した。瑞山も投獄され、2年後の慶応元(1865)年藩の南会所で自刃し36歳で果てた。

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旧邸の前山には瑞山神社があり、その上が墓地だ。神社には瑞山関係のパネルなどがあり、境内には「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」という彼の遺詠記念碑もある。
墓所へは神社脇の階段を登ればよい。一番手前が夫人武市冨の墓で、それと並んで「武市半平太小楯」の墓石が目に入る。背後の長方形の墓標には、明治四十年五月建立の文字がある。墓域は夫婦別々に割石で囲み、冨の方はやや狭いが、墓石は双方とも二個の切石の基台の上だ。十余基の墓の中、半平太夫妻の墓だけには赤い菊花と、緑濃いシキミの葉が木の間からもれ入る陽に光って見えた。
獄中の夫と同じ生活をと、就寝するにも畳の上に寝ず、蚊帳もつらず、厳寒にも布団を重ねることなく我が身を虐し続けて夫の身を案じた妻冨、墓前に供えられた花一輪が、小楯の方にやさしく傾いているようでもあった。
「時しあれば 吹かでも花はちるものを 心みじかき 春の山風」
冨の遺詠だ。