鉄砲と龍馬と薩長同盟 |
カテゴリ:龍馬について |
坂本龍馬は、鉄砲の社長だったらしいのですが、実際はどうですか?そこで、薩長の同盟をできたのは、龍馬が多数の鉄砲を西郷隆盛に受け渡り、 高杉晋作に受け、それで、同盟をできたそうです。それは、本当ですか? |
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龍馬が鉄砲の社長だったのかというお問い合せですが、龍馬は亀山社中(のちの海援隊)の隊長でした。この会社は貿易会社(武器も取り扱っていました)でもあり、海軍でもあり、様々なことが学べる研修機関でもあり、蝦夷(北海道)などを開拓も考え合わせる会社でもありました。このように、一言で言い表せる会社ではありません。 この亀山社中を使って、薩長同盟の一連として、薩摩藩名義で購入した武器や船を長州藩に売るということはしておりました。 |
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龍馬の写真についての研究 |
カテゴリ:龍馬について |
卒論で坂本龍馬の写真について研究しているんですが、資料だけではわからない事がたくさんでてきたので、以下の質問に回答下さい。 |
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龍馬のエピソードとミニ情報 |
カテゴリ:龍馬について |
(1)学校でもらった資料集に、大政奉還後、竜馬は新政府の案を西郷に見せたが、龍馬自身の名前はなかった。西郷がなぜかと聞くと、龍馬は「役人は好まないし、自分以外にも向いている人が多くいる。それよりも世界の海援隊でもやろうかな」と答えた。とかいてありますが、それはどういう意味ですか?詳しく教えて下さい。 (2)坂本龍馬の知られざるエピソードやミニ情報を教えて下さい。 |
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龍馬の年表について |
カテゴリ:龍馬について |
龍馬の年表のほとんどが1858~1861の間が書いていないんですが、具体的にどんなことをしていたんですか? |
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龍馬の年表(1858年~1861年)、この間は、全国的な活動をしていませんので、あまり載せることがないのです。 それでも、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭をゆく、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)のところへ行き、そこで各藩がつぶれても、国がだめになったら何にもならない。そのために志をもつものが、早く行動を起こさないと間に合わないと言って、次の年(1862年)3月24日、江戸へ旅立つのです。 |
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江戸での御前試合の龍馬優勝について |
カテゴリ:龍馬について |
江戸で開かれた御前試合で龍馬が優勝したと言うのは有名ですが、実際は行われていなかった、というはなしをきいたことがあります。本当のところはどうなんでしょうか? |
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平尾道雄著 新版「龍馬のすべて」(昭和60年発行、高知新聞社)P.71によれば、山内容堂は剣客を集めて剣道大会(御前試合)を行ったとあります。平尾さんの書いた試合一覧表は、1857(安政4年)の鍛治橋の土佐藩邸で行われたもので、審判員は神道無念流の斉藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人が出ている)、北辰一刀流の千葉栄次郎ら五人で、出場した剣士は、坂本龍馬、桂小五郎など、有名な剣の使い手がずらりと並んでいます。(52試合の組み合わせがのっており、龍馬も桂も勝った事になっている。)この試合表は、平尾さんが土佐藩剣道指南役・石山孫六の養子から提供され、興味をひかれて「海援隊始末記」にはのせたものの、「山内家日記」には、この試合が載っていないこと、その他の剣士の中でその時江戸にいない人も居て、結局これは作りものであるらしいという判断に至りました。 ちなみに龍馬が高知へ帰ったのは、安政5年9月3日です。つまり試合はいろいろあったが、海援隊始末記に載っている御前試合の組み合わせはニセモノということです。 |
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土佐海援隊発行の「和英通韻伊呂波便覧」 |
カテゴリ:龍馬について |
以前、坂本竜馬が書き残した物の中に英語の発音について書かれたものがあるとテレビで見ました。例えば、竜馬はWATERをワラと読んだなどと紹介されていました。そのことが書かれている書物について教えてください。また、それについて書かれている本などがありましたら、ご紹介よろしくお願いいたします。 |
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当館の展示物の中に、和英通韻伊呂波便覧(わえいつういんいろはべんらん)という本があります。発行は、龍馬もいた土佐海援隊ですが、発行年が慶応4年(明治元年・1868年)ですので、実際に龍馬は出来上がったこの本を見ていないはずですが、作る段階では眼を通しているかも知れません。この本は和英辞典のようなもので、ABCからはじまって、時計の見方、英語のことばなどをいれていますが、morning(朝)を「モネン」、evening(夕)を「エブネン」など、発音記号やふりがなつきで、わかりやすく大きな字で書かれています。なおこの本には、waterを「ワラ」と読む例は出てきませんが、ジョン万次郎の取調べの話に出てきたように思います。 |
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「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」 |
カテゴリ:龍馬について |
「世の中の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」という龍馬が作った詩、本当の詩はどんなものなのでしょうか?漢字も含めて教えてください。 |
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「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」 なに=何 和歌を書いた龍馬の筆跡はこうなっています。龍馬記念館でも、複製を作っていますが、時折展示しています。原資料は、京都の国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財(平成11年4月16日答申「龍馬詠草二 和歌」)の一つになっています。その写真をもとに書きましたので、上の通りで間違いありません。 |
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龍馬と河田小龍 |
カテゴリ:ゆかりの人物について |
龍馬は、ペリーの黒船来航の後、河田小龍を訪ねていますが、それはこの時から日本を何かの形で変えようと思い始め、河田小龍を訪ねたのでしょうか。 |
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黒船が来た嘉永6(1853)年、龍馬は江戸の千葉定吉道場(北辰一刀流)で剣術の修行中でしたが、6月、土佐藩からの命令で品川に出て沿岸警備をしました。この時龍馬は、「黒船との戦いになったら、異人(外国人)の首を取っておみやげにする」という手紙を、父・八平(はちへい)に送っています。 1年の修行を終えて土佐に帰った龍馬は、黒船征伐の方法を聞くため、家が近くにあった河田小龍を訪ねます(1854年)。河田小龍は、漂流生活11年ののちアメリカから帰ったジョン万次郎の取り調べをしたので、外国の知識や蒸気船のこともよく知っていました。漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という取り調べ記録(現在市販されている)もまとめていましたので、河田小龍ならわかるだろうと思ったのです。しかし、答えは「それは無理だ。土佐藩の軍船(いくさふね)では太刀打ちできない。それより龍馬自身が蒸気船を持って、それを使って仕事をすることを考えなさい。乗る人は、私(河田)が町人のせがれを教育して、龍馬のところへ送ってあげる。」と約束しました。龍馬はその教えを実現させるため、8年後、江戸へ出て勝海舟の弟子になり、海軍を創設します。 また河田小龍は、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮(しんぐう)馬之助など、優秀なメンバーを神戸の海軍塾や、龍馬が隊長を務める亀山社中に送り、彼らも龍馬と共に明治維新を目指しました。 |
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薩長同盟・龍馬が日本に与えた影響・郷士の権利について |
カテゴリ:龍馬について |
坂本龍馬は何故当時無理だと思われていた、薩長同盟を結ぶことができたと思いますか。龍馬でなくてもできたと思いますか。また、龍馬が日本に最も与えた影響は何だったと思いますか。あと、郷士の権利についても教えて下さい。 |
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『薩長同盟について』 『日本に与えた影響について』 『郷士の権利について』 |
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龍馬の愛刀「吉行」 |
カテゴリ:龍馬について |
坂本龍馬の愛刀「吉行」について詳しく知りたいと考えています。 |
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「吉行」についてですが、刀剣の本などには載っていると思いますが、とりあえず高知県人名事典(高知新聞社 平成12年発行)に載っているものからご紹介します。 吉行(1650~1710)刀工、通称、森下平助。吉国の弟として慶応3年、摂津国住吉に生まれた。成人ののち大阪の刀工・初代大和守吉道の門人となる。 つねに持っていたこの刀は暗殺された時、床の間にあり龍馬はそれを取って応戦。さやをはらう間もなく相手の刀をうけたが、さやに食い込んだ。敵の刀の先が龍馬の額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えた。 |
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