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鉄砲と龍馬と薩長同盟

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は、鉄砲の社長だったらしいのですが、実際はどうですか?そこで、薩長の同盟をできたのは、龍馬が多数の鉄砲を西郷隆盛に受け渡り、
高杉晋作に受け、それで、同盟をできたそうです。それは、本当ですか?
龍馬が鉄砲の社長だったのかというお問い合せですが、龍馬は亀山社中(のちの海援隊)の隊長でした。この会社は貿易会社(武器も取り扱っていました)でもあり、海軍でもあり、様々なことが学べる研修機関でもあり、蝦夷(北海道)などを開拓も考え合わせる会社でもありました。このように、一言で言い表せる会社ではありません。
この亀山社中を使って、薩長同盟の一連として、薩摩藩名義で購入した武器や船を長州藩に売るということはしておりました。

龍馬の写真についての研究

カテゴリ:龍馬について

卒論で坂本龍馬の写真について研究しているんですが、資料だけではわからない事がたくさんでてきたので、以下の質問に回答下さい。
(1)坂本龍馬の写真を見て、なぜこの人が「坂本龍馬」だとわかったのか?いつ、どこで、誰が言ったのか?そういう手紙は残っているのか?
(2)龍馬の写真は全部で何枚あるのか?何歳から何歳までの写真が多いのか?どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由は?
(3)龍馬が何度も、何枚も撮る目的、きっかけ、なんのために撮ったのか?みんなに配っていたのか?なぜ長崎県まで行って撮影したのか?龍馬は写真の代金をどうしていたのか?
(4)龍馬の写真は元々どこにあったのか?誰が持っていたのか?いつ頃発見されたのか?

(1)
いつ、どこで、誰が言ったかという質問に答えるのは難しいと思います。この写真はかなり以前から確認されている写真で、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時もこの写真をモデルに製作されています。今、当館で簡単に見ることの出来る本を開いてみると、1912年に発行された『維新土佐勤王史』(瑞山会編)や、龍馬と慎太郎の没後50年祭(1917年)の冊子にも掲載されていますし、おそらくそれ以前の本にも掲載されていると思いますので、いつ、どこで、誰が、ということなく、龍馬の写真ということは自明のことだったのだと思います。当時は維新の志士で存命の人が何人もいました。特に、土佐藩出身の田中光顕は龍馬たちが暗殺された現場に真っ先に駆けつけた人でもあり、当然龍馬と交流のあった人ですが、大変長生きをしていまして、1939年(昭和14年)まで生きていました。銅像の製作時にも関わっていましたし、瑞山会の筆頭で『維新土佐勤王史』にも関わっていました。この瑞山会には明治4年に龍馬の家を継いだ坂本直(龍馬の甥・高松太郎)も参加していました。この人は海援隊士で、1898年まで生きていました。こういう人たちが龍馬の写真として色々なものに掲載していた写真ですので、疑う余地はないと思います。手紙は残っていません。

(2)
何枚かという問いに答えるのは難しいですが、何種類かということなら6種類と言えます。どういう違いがあるかと申しますと、例えば福井で撮られた説のある写真ですが、名刺代わりに人にあげてたものなので、現在は下関市立長府博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(しかし、この鶏卵紙の写真は現在行方不明です)。鶏卵紙の写真は名刺代わりに人に渡していたので、全国にはまだまだ龍馬の写真が存在しているかもしれません。おそらく、どこかに眠っているものがあると思います。
以下、便宜上6種類を次のように表記します。
写真A=立ち姿の写真、桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている)
写真B=イスに座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)
写真C=伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)
写真D=上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)
写真E=海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)
写真F=縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)
何歳から何歳までの写真かについては、確定はできませんが、おそらくすべて慶応元年から3年に撮られたものと推測されています。数え年で31歳~33歳。
どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由については、簡単に分かるのは、写真スタジオの特徴が出ている写真です。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴で、他の人が撮った写真にも登場します。それから、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、写真B、写真C、これら3種類の写真の手前にはすべて段差が確認できます。それから、写真Dは、服装や髷の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられていますので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオだと考えられています。このように写真の背景からどこのスタジオか推測できます。いつ撮られたかもある程度は推測できます。
写真Eはよく分かっていませんが、可能性からすると長崎で撮った可能性が一番高いので、上野彦馬スタジオではないかと考えています。
写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、撮った時期が秋頃と絞られます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されています。となると、慶応3年の秋である可能性が強く、福井に行った時に撮られたのかもしれないと想像されています。ようするに時期的なことから推測したのです。しかし、これは推測の域を出ないものですので、信用することはできません。旅館名などは特定されていません。現在これらの写真を本格的に研究している方がいらっしゃいます。その方は、福井説は完全否定されています。その理由は本として出版する予定ですので、今ここで明かすことはできません。ちなみに、福井で龍馬が利用していた旅館は莨屋(たばこや)旅館ですが、今は残っていません。越前龍馬会の方々が研究の末、所在地を突き止め、現在は碑が建てられています。「よしだ」という懐石料理・仕出しのお店がありますが、その隣です(隣ではなく吉田さんの敷地内かもしれません)。この吉田さんも越前龍馬会の会員です。越前龍馬会のHPでも何らかの情報は得られると思います。

(3)
なんの為に撮ったのか、これらを示す龍馬自身が書いたものは何も残ってないです。
写真は、いろんな人に配っていたようです。当時の人は写真を名刺代わりに渡していたと言われています。龍馬の写真もあちこちの人(龍馬と関係のあった人の子孫)が所有していることから考えて、いろんな人に配っていたと思われます。当時写真を撮る時には簡単に言えば2種類の頼み方があったようです。アンブロタイプか種板の2種類です。当時どういうふうに頼んでいたかは分かりませんが、どちらかを指定することになります。どちらを頼むかによって、用途が違うし、金額も変わります。2種類がどういう違いがあるかを調べれば目的は自ずから想像できると思います。龍馬自身が書いたものが無い以上、そういうことから想像するしかないと思います。
なぜ長崎県まで行って撮影したのかについては、龍馬は長崎の亀山という場所を拠点といていましたので、必然的に地元で撮影したものが多くなっただけだと思います。
龍馬は写真の代金をどうしていたのか?質問(4)と関連しますが、長崎で撮られた写真はおそらく井上俊三が練習で撮ったのではないかと考えられています。そのため、代金は正規の代金を払っていたか疑問を持たれています。

(4)
どこにあったかは写真によって違います。
写真Aは原板を井上俊三が所蔵していたようです。現在高知県立歴史民俗資料館にあるものは、井上家から高知県に寄贈されたもののようです。原板を井上俊三のご子孫が所蔵していたということは、上野彦馬が撮影したものではなく、井上が撮影したものだと考えられます。これもアンブロタイプと種板の性質の違いが関係してきますので、この二つの違いを把握しておいてください。Aの鶏卵紙については所蔵者が分かりません。『坂本龍馬全集』には伊藤盛吉氏所蔵の鶏卵紙が掲載されていますが、現在は不明です。もう一つ、雑誌『太陽』に掲載された別物の鶏卵紙も所蔵者不明です。この写真Aについては発見という言葉は適当でないと思います。以前からずっと確認されていた写真ですから。もともとの所蔵者は、湿板が撮影者の井上所蔵、鶏卵紙は不明。
写真Bは三吉慎蔵のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は三吉慎蔵。
写真Cは、伊藤助太夫のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は伊藤助太夫。
写真Dは、鶏卵紙については所蔵者不明です。しかし、複写されたものの一つは高知県の個人の方が所蔵しています。これは溝淵広之丞の従者の話が写真の縁に書き込まれています。溝淵の関係者が所蔵していたものかもしれませんが、明確には分かりません。他に、明治37年に昭憲皇太后に献上された写真も写真Dの複写だと言われますが、所蔵者を知りません。これはもしかすると宮内庁などに残っているのかもしれませんが、分かりません。
写真Eは所在不明です。複写されたものが現在も色々な雑誌などに掲載されています。もともとの所蔵者やいつ発見されたかは分かりません。
写真Fは、現在は東京龍馬会の個人の方と下関市立長府博物館が所蔵しています。もともとの所蔵者は分かりません。いつ発見されたのかは分かりません。

龍馬のエピソードとミニ情報

カテゴリ:龍馬について
(1)学校でもらった資料集に、大政奉還後、竜馬は新政府の案を西郷に見せたが、龍馬自身の名前はなかった。西郷がなぜかと聞くと、龍馬は「役人は好まないし、自分以外にも向いている人が多くいる。それよりも世界の海援隊でもやろうかな」と答えた。とかいてありますが、それはどういう意味ですか?詳しく教えて下さい。
(2)坂本龍馬の知られざるエピソードやミニ情報を教えて下さい。 

(1)
慶応3年3月6日の印藤聿(いんどうのぶる)宛の手紙には、蝦夷(えぞ、北海道)の開拓のことを書いており、「新しい国を拓く(ひらく)のは前々からやりたいと思っていた自分のライフワークで、1人になってもやりとげたい」と書いていて、この時もチャンスをつくろうとしていましたし、文久3年(1863)から、元治元年(1864)にかけ、その実行ができる準備をしていましたが、仲間を池田屋事件で殺され、計画はダメになってしまいました。このようなことから、政治の争いの中にいるよりも、もっとスケールをひろげ、世界との貿易も考えに入れていたでしょう。慶応3年(1867)11月7日、陸奥宗光(むつむねみつ、有名な外務大臣になる人)にあて、「そのうちに世界のはなしができるようになるよ」ということを、たった1行ですが書き込んでいます。

(2)
(1)龍馬が暗殺された時、鞘(さや)で敵の刀をうけた。その刀は前の年、兄権平(ごんぺい)に、死ぬ時は先祖のものを持って死にたいといって送ってもらった吉行(よしゆき)の刀でした。龍馬が思っていたように、その刀は龍馬の手に握られて、死んでいく龍馬を見守りました。
(2)龍馬は手紙の中の日付を間違えて、ひと月先を書くことがあります。これは太陽暦(たいようれき、今のこよみ)を使っていたせいではないかと思います。
(3)龍馬が勝海舟の弟子になった文久2年から死ぬまでの約5年間に、船で動いた距離は、なんと2万km。これは年表に出てくる移動の距離を足したものですが、地球を半周もしているから、驚きですね。

龍馬の年表について

カテゴリ:龍馬について
龍馬の年表のほとんどが1858~1861の間が書いていないんですが、具体的にどんなことをしていたんですか?
龍馬の年表(1858年~1861年)、この間は、全国的な活動をしていませんので、あまり載せることがないのです。
それでも、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭をゆく、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)のところへ行き、そこで各藩がつぶれても、国がだめになったら何にもならない。そのために志をもつものが、早く行動を起こさないと間に合わないと言って、次の年(1862年)3月24日、江戸へ旅立つのです。

江戸での御前試合の龍馬優勝について

カテゴリ:龍馬について
江戸で開かれた御前試合で龍馬が優勝したと言うのは有名ですが、実際は行われていなかった、というはなしをきいたことがあります。本当のところはどうなんでしょうか?
平尾道雄著 新版「龍馬のすべて」(昭和60年発行、高知新聞社)P.71によれば、山内容堂は剣客を集めて剣道大会(御前試合)を行ったとあります。平尾さんの書いた試合一覧表は、1857(安政4年)の鍛治橋の土佐藩邸で行われたもので、審判員は神道無念流の斉藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人が出ている)、北辰一刀流の千葉栄次郎ら五人で、出場した剣士は、坂本龍馬、桂小五郎など、有名な剣の使い手がずらりと並んでいます。(52試合の組み合わせがのっており、龍馬も桂も勝った事になっている。)この試合表は、平尾さんが土佐藩剣道指南役・石山孫六の養子から提供され、興味をひかれて「海援隊始末記」にはのせたものの、「山内家日記」には、この試合が載っていないこと、その他の剣士の中でその時江戸にいない人も居て、結局これは作りものであるらしいという判断に至りました。
ちなみに龍馬が高知へ帰ったのは、安政5年9月3日です。つまり試合はいろいろあったが、海援隊始末記に載っている御前試合の組み合わせはニセモノということです。

土佐海援隊発行の「和英通韻伊呂波便覧」

カテゴリ:龍馬について
以前、坂本竜馬が書き残した物の中に英語の発音について書かれたものがあるとテレビで見ました。例えば、竜馬はWATERをワラと読んだなどと紹介されていました。そのことが書かれている書物について教えてください。また、それについて書かれている本などがありましたら、ご紹介よろしくお願いいたします。
当館の展示物の中に、和英通韻伊呂波便覧(わえいつういんいろはべんらん)という本があります。発行は、龍馬もいた土佐海援隊ですが、発行年が慶応4年(明治元年・1868年)ですので、実際に龍馬は出来上がったこの本を見ていないはずですが、作る段階では眼を通しているかも知れません。この本は和英辞典のようなもので、ABCからはじまって、時計の見方、英語のことばなどをいれていますが、morning(朝)を「モネン」、evening(夕)を「エブネン」など、発音記号やふりがなつきで、わかりやすく大きな字で書かれています。なおこの本には、waterを「ワラ」と読む例は出てきませんが、ジョン万次郎の取調べの話に出てきたように思います。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

カテゴリ:龍馬について
「世の中の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」という龍馬が作った詩、本当の詩はどんなものなのでしょうか?漢字も含めて教えてください。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

なに=何
ゆはゞ=土佐では言うを、ゆうといいます
いへ=ところがこちらは言へとなっています

和歌を書いた龍馬の筆跡はこうなっています。龍馬記念館でも、複製を作っていますが、時折展示しています。原資料は、京都の国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財(平成11年4月16日答申「龍馬詠草二 和歌」)の一つになっています。その写真をもとに書きましたので、上の通りで間違いありません。

龍馬と河田小龍

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は、ペリーの黒船来航の後、河田小龍を訪ねていますが、それはこの時から日本を何かの形で変えようと思い始め、河田小龍を訪ねたのでしょうか。
黒船が来た嘉永6(1853)年、龍馬は江戸の千葉定吉道場(北辰一刀流)で剣術の修行中でしたが、6月、土佐藩からの命令で品川に出て沿岸警備をしました。この時龍馬は、「黒船との戦いになったら、異人(外国人)の首を取っておみやげにする」という手紙を、父・八平(はちへい)に送っています。
1年の修行を終えて土佐に帰った龍馬は、黒船征伐の方法を聞くため、家が近くにあった河田小龍を訪ねます(1854年)。河田小龍は、漂流生活11年ののちアメリカから帰ったジョン万次郎の取り調べをしたので、外国の知識や蒸気船のこともよく知っていました。漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という取り調べ記録(現在市販されている)もまとめていましたので、河田小龍ならわかるだろうと思ったのです。しかし、答えは「それは無理だ。土佐藩の軍船(いくさふね)では太刀打ちできない。それより龍馬自身が蒸気船を持って、それを使って仕事をすることを考えなさい。乗る人は、私(河田)が町人のせがれを教育して、龍馬のところへ送ってあげる。」と約束しました。龍馬はその教えを実現させるため、8年後、江戸へ出て勝海舟の弟子になり、海軍を創設します。
また河田小龍は、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮(しんぐう)馬之助など、優秀なメンバーを神戸の海軍塾や、龍馬が隊長を務める亀山社中に送り、彼らも龍馬と共に明治維新を目指しました。

薩長同盟・龍馬が日本に与えた影響・郷士の権利について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は何故当時無理だと思われていた、薩長同盟を結ぶことができたと思いますか。龍馬でなくてもできたと思いますか。また、龍馬が日本に最も与えた影響は何だったと思いますか。あと、郷士の権利についても教えて下さい。

『薩長同盟について』
「いま何をすべきか。各藩の体面ばかり考え、国全体の事を考える事を忘れてはいけない。幕府を倒し新しい国(近代国家)にするためには、リードする大きな藩が対立していてはいけない。何が目的かを考えよう。」というような事で、薩摩の西郷と小松(家老)を、龍馬が徹底的に説得しました。(このことは、木戸孝允が龍馬へ書いた、1866年(慶応2年)1月23日付けのお礼状に書いてあります。)気長く自分の考え方を話してわかってもらったのがよかったでしょう。龍馬でなくても出来たかも知れませんが、龍馬は「この国を『日本』にしなければいかん」という事を、ずっと考えつづけていたので、説得力があったのでしょう。

『日本に与えた影響について』
龍馬が日本に与えた事は、「武力討幕」を避けるため、薩長同盟をバックにしながら、まず将軍が幕府を終わりにする事を決め、国内での戦いを避け、平和なうちに新しい国を誕生させるための、船中八策を示した事でしょう。

『郷士の権利について』
郷士坂本家は、本家の才谷屋坂本家から分家したもので、才谷屋三代目直益(八郎兵衛直益・ハチロベイナオマス)の時、郷士の株(権利)を買い求め、次の代の八郎兵衛直海(ハチロベイナオミ)に与え、分家させたという事です。「買い求めた・・・」という内容は、護受け郷士(誰かの権利をゆずりうける)か、郷士の募集に応じた(新規郷士)かは、よくわかっていません。
 ※『南国遺事』にある一文・・・財産を分かちて郷士職を購い。

龍馬の愛刀「吉行」

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の愛刀「吉行」について詳しく知りたいと考えています。

「吉行」についてですが、刀剣の本などには載っていると思いますが、とりあえず高知県人名事典(高知新聞社 平成12年発行)に載っているものからご紹介します。

吉行(1650~1710)刀工、通称、森下平助。吉国の弟として慶応3年、摂津国住吉に生まれた。成人ののち大阪の刀工・初代大和守吉道の門人となる。
やがて陸奥守の受領名をいただき「陸奥守吉行」または「吉行」の二次銘を切った。元禄年間土佐に招かれて鍛治奉行となる。現在の高知市仁井田に田地を与えられて住み、現在のはりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で刀を鍛えた。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり、作は地鉄(ぢがね)細やかに匂い(におい)ありて上手なり」と評価されている。特に丁字刃の名人で直刃や涛欄刃などもあり、切れ味は土佐の刀では最も優れていた。龍馬は慶応2年12月、先祖のものを持って死に臨みたいと手紙を書いて、この刀を兄権平(ごんぺい)に頼んでゆずりうけることになった。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた。西郷隆盛にこの刀をことずけて、西郷は中岡慎太郎らに頼んで龍馬のもとに届けた。慶応3年3月頃からこの刀を大切にもって居たと見られ、龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛ての手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えている。

つねに持っていたこの刀は暗殺された時、床の間にあり龍馬はそれを取って応戦。さやをはらう間もなく相手の刀をうけたが、さやに食い込んだ。敵の刀の先が龍馬の額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えた。

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