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龍馬ブームについて

カテゴリ:龍馬について
明治を迎えてから、大政奉還を成し遂げるにいたった中心的人物が龍馬さんであると、日本人が認識し始めたのはいつ頃だったのですか?また、維新後、一時は忘れられたといわれる龍馬さんの偉業に、多くの人が注目したのは、誰の、何によってなのでしょう?
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。

龍馬はどうして殺されたのか

カテゴリ:龍馬について
なぜ、坂本龍馬は、どうして殺されたのか。教えてください。
龍馬たちを殺したのは、見廻組という説が有力ですが、誰が見廻組に指示を出したのかは分っていません。可能性が高いのは次の4つくらいになりますが、指示を出した人が誰かによって、理由がまったく変わってきます。
【黒幕】
(1)幕府(大政奉還によって幕府を倒された恨みと、寺田屋で龍馬を捕り逃がした恨み)
(2)薩摩藩(武力によって国を変えようとする薩摩と、平和的に変えようとする龍馬の意見の違い)
(3)紀州藩・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み:海援隊の船と紀州藩の船が衝突し、海援隊のいろは丸が沈没したため、紀州藩は大金を払わされた)
(4)土佐藩(龍馬の提案した船中八策を受けて、土佐藩は大政奉還を成功させるが、その手柄を独り占めするため)
他にも色々言われていますが、(1)が一番可能性は高いように思います。

龍馬の干支は?

カテゴリ:龍馬について
龍馬の干支は?辰年ですか、午年ですか?
龍馬の生まれ年は、1835(天保6)年。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)。『ひつじ年』です。辰でも午でもなく、つまり龍馬は干支とは関係ない名前なのです。

土佐藩の身分差別について龍馬は

カテゴリ:龍馬について
土佐藩の身分差別については書籍やこちらのホームページでも読みましたが,龍馬自身はその差別制度や上士から下士が虐げられるというようなことに対して、不満や怒りが明確にあったのでしょうか?だとしたら理想実現のためとはいえ、後藤象二郎はじめ土佐藩と手を組む道を選んだ当初は、やはり許せない怒りみたいなものもあったのでしょうか?そして他の海援隊士も同様だとすれば,その隊士たちは龍馬の「土佐藩と手を組む」という策を容易に受け入れることが出来たのでしょうか?
下士の身分について、龍馬も常々矛盾を感じていたと思います。『新しい国をひらくのが私のライフワークだ』と手紙にも書き、蝦夷(北海道)の開拓を実現したいと考えていましたが、そうした差別のないテリトリーを創る意味もあったでしょう。
また、文久3(1863)年6月29日乙女宛の手紙には『土佐の芋ほりともいわれぬ居候に生まれて、一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり』(芋ほりのような身分の低い郷士の二男坊という、兄に養われている僕でも、やり方によっては国の改革はできる。)と言っています。これも「身分は低くても頑張ってやれば・・・」というバネの力を表しています。実際にこのことが慶応3年6月、【船中八策】の発表として実現しました。これは、あの手紙を書く少し前に、越前福井で聞いた【国是七条】を龍馬なりにまとめ直したもので、《武力を使わず幕府が政権を朝廷に帰すこと》で新政府を作ることができれば、国力の低下を招くことなく、外国から侵略されることなく、新しい時代を迎えられることを示しています。「なんとしても内乱を避けないと、外国が入り込んでくる・・・」ということで、西郷や木戸も一旦は龍馬の考えに任せました。
この【船中八策】は【大政奉還建白書】となり将軍に提出され、慶応3年10月13日、将軍慶喜は《無条件で政権を朝廷に返す》ことを発表。ここで幕府は終止符を打ちました。
後藤象二郎は、この動きの中心となった人物で、龍馬も将軍へのルートは土佐藩を通らなければならないことを充分承知していましたので、慶応3年2月、長崎で会談した時、亀山社中のメンバーには「勤王党を弾圧した男(後藤象二郎も含む)を斬れ」という意見もありましたが、龍馬は「将来のことを話し合うべきだ」として、これを説得しました。 勝海舟の『江戸城無血開城』で、江戸が戦火から免れたのも、この考え方が西郷に理解されていたからでしょう。

生家はどうしてつぶれたのか

カテゴリ:坂本家について
龍馬の生まれた坂本家はもう無いと言うのは聞きましたが、いつどうしてつぶれてしまったんですか?土佐でも有数の大金持ならそうそうつぶれたりしないのでは?
土佐でも有数の大金持ち・・・であったかどうかは別として、本家の才谷屋(サイタニヤ)は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落。坂本家(龍馬の家)は残りましたが、龍馬の兄・権平(ゴンペイ)のあとを継いだ直寛(ナオヒロ・養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31~32年にかけ一家をあげて移住し、当初札幌の北、浦臼(ウラウス)に移り住みました。その後一家は札幌にも移り、いまでも本家は北海道です。高知の家はその後売却され、戦災にあって、いまはそのあとに病院が建っています。

生家はどこに

カテゴリ:坂本家について

龍馬の生家はどこですか? 

龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目(はりまや橋から約1.5キロメートル西へ電車通り沿いに行った所)の南側です。
現在、吉田茂元総理大臣の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っています。生家は戦災で焼けて跡形もありませんが、そのあとには上町病院が建っています。

「龍馬」と「良馬」

カテゴリ:龍馬について
「龍馬」は最初は「良馬」と書いていたという事実があったかどうか教えて下さい。
「良馬」という字が使われているものをあげますと、勝海舟「坂下良馬」(氷川清話より)、木戸孝允「坂本良馬」(何通かの手紙など)、などとなります。なぜ「良」の字を使ったのかは、りょうまの「龍」の字は「りゅう」と読むのが一般的なので、「りょう」と読むのが一般的な「良」の字を他の人は使ったのでしょう。また龍馬は、よく「りゅうま」と呼ばれる事がありますが、「りゅうま」という呼び方は明治16年に発行された龍馬の小説第一号「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」坂崎紫瀾(さかざきしらん)に、紫瀾がふりがなしたものが定着したと思われます。
しかし正しくは「りょうま」で当然本人(姪への手紙で「りょふ」)は勿論、付き合った人々もそう言っていました。

龍馬は「りょうま」

カテゴリ:龍馬について
龍馬という名前は一見すると「りゅうま」と読んでしまいますが、実際には「りょうま」ですよね。ではなぜ坂本龍馬の場合は「りょうま」と読む事が分かったのでしょうか?私が知らないだけで龍馬の手紙や書物の中に「りょうま」とフリガナをふった物があるのでしょうか。それとも、ただ単に龍馬を知る生き証人の方がいて、これは「りょうま」と読むと伝えたのでしょうか?
慶応3年1月20日付、姪・春猪(はるい)宛ての龍馬の手紙には、文末に『正月 廿日(はつか)夜 りよふより 春猪様』 と書いてあり、「りよふ」は、今の仮名遣いでは「りょう」と書きますので、「りょうま」となります。

龍馬銅像の懐手について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬銅像の懐手についての本当の理由はなんですか?
龍馬の懐手については、一般に「鉄砲を持っている」「寺田屋で負った傷を隠している」「万国公法(本)を持っている」という3つの説がよく言われますが、本当のところはわかりません。

龍馬とお龍の新婚旅行について

カテゴリ:龍馬について
龍馬とお龍の日本初の新婚旅行について教えて下さい。場所と其処を選んだ理由、その地から乙女姉さんに宛てた手紙の内容を教えて欲しいです。また、乙女へ宛てた手紙にある、「きり島の社」は「霧島神宮」ですか?また、「宮もものふり極とふとかりし」の訳と意味を教えて下さい。また、この旅の内容や関係するお話があれば教えて下さい。
【龍馬とお龍の日本初の新婚旅行の場所】鹿児島県恰良郡牧園町の霧島山のふもと周辺を中心とした鹿児島
【場所の理由】薩摩の西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待しました。このあたりは西郷や小松もよく利用していた所です。
【乙女宛ての手紙】
○お龍のおかげで自分の命が助かったこと
○お龍自身のこと(楢崎将作の娘、いま自分の妻、今年26才など)
○薩摩旅行のあらまし
 ・日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉に行ったこと
 ・犬飼の滝の見事さ。塩浸で10日ばかりも泊まり、釣りをしたり、ピストルで鳥を撃って面白かったこと
 ・霧島山に登ったこと(絵入りで紹介)
【霧島神宮について】きり島の社は霧島神宮です。
【宮もものふり】=長い歴史を感じさせるお宮
【極とふとかりし】=大変立派な雰囲気があった
この旅行は慶応2年3月大阪から船で鹿児島へ行き5月末まで、ゆっくりと滞在しますが、帰り際には刀を作らせたり久しぶりに旅行を楽しみました。何日に何をしたかは、「龍馬手帖摘要」という文書に日記風に書かれてあります。
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