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生まれた日、生まれた場所は?

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の生まれた日はいつですか。生まれた場所は?
1835(天保6)年11月15日、郷士坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに亡くなったのは、1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。

「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」

カテゴリ:その他について
龍馬の言葉の中で、「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」という言葉があるらしいのですが、そのような言葉をどういった背景で、どのような心情で語ったのか、お教え下さい。
この言葉は、『英将秘訣』の中の言葉ですので、龍馬の言葉ではありません。『英将秘訣』については、別の方への回答を参照してください。

銅像の向きとその意味と龍馬人気のひけつ

カテゴリ:龍馬について
(1)龍馬の銅像はどの方向を向いて立っているか、またその意味は?
(2)なぜ龍馬は人気があるのか? 

(1)
東南東の方角を向いています。四国の地図で言いますと、芸西村や北川村を結ぶラインになります。なぜこの方向なのか、銅像建設の中心人物だった入交好保(いりまじりよしやす)さんが語っていますが、アメリカの自由の女神のように、海を眺めるように建てたかったそうです。龍馬は海と船が大好きだったので、海を眺めるのに最高の場所を選んだようです。

(2)
龍馬は柔軟な頭脳と、人並みはずれた行動力を持っていました。それによって、誰も成し遂げられなかった薩長同盟や大政奉還を成功させます。薩長同盟や大政奉還が、よい方法だということを気付いていた人は、当時でも何人もいました。しかし、頭で考えることは出来ても、それを行動に移して成功させることが出来た人はいませんでした。それから、龍馬と同時代に生きた人たちの龍馬の評価を見ますと、龍馬は非常に度胸があって心が広く、器の大きな人間だったことが分かります。西郷隆盛は「度量の大、龍馬に如(し)く者、いまだかつてこれを見ず。」と語っていますが、これは龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない、ということです。他には、龍馬の手紙を読んでいますと、非常に優しいということと、ユーモアにあふれていることが分かります。こうしたことなどが、人気のひけつではないかと思います。

龍馬愛用の銃は

カテゴリ:展示資料について
龍馬が愛用していた銃は今どこに?
龍馬が所持していた短銃は、紛失と焼失により現存しません。寺田屋事件で使用し紛失したのが、(1)スミス&ウエッソン第Ⅱ型(32口径)弾は六連発で、慶応元年に初めて持った短銃になります。大正2年の釧路大火で焼失したのは、(2)スミス&ウエッソン第Ⅰ1/2型ファースト・イッシュー弾は五連発で、近江屋暗殺の際も、所持していたものです。
龍馬記念館地下2階展示室では、龍馬所持の短銃の模型として、(1)スミス&ウエッソン第Ⅱ型と、(2)スミス&ウエッソン第Ⅰ型(龍馬が死ぬまで所持していた第Ⅰ1/2型とほぼ同じ長さのもの)をご覧頂けます。

脱藩するまでの生計は

カテゴリ:龍馬について
龍馬が19歳の時、江戸へ剣術修行へ行って帰ってからの龍馬の職業は何ですか?龍馬はどのようにして脱藩するまでの間、生計を立てていたのですか?
職業はありません。当時は長男がその家を継ぐので、龍馬の兄権平(ごんぺい、龍馬とは21才差で、親子ほど年齢が違います)が、坂本家の家計をにぎっていたわけですが、龍馬は『居候』(いそうろう)となって、父や兄に養われていました。【長男が家系を継ぐ】というのが一般の慣わしで、二男からは居候という身分が多いのですが、そのままいつまでもは大変なので、他家へ養子にいってその家を継ぐとか、剣道などを教える道場を開いて独立する、自分の習得した技術で身を立てるなどしていたようです。龍馬は、勝海舟の門下生になってからは、その仕事で収入が得られましたし、亀山社中になってから(慶応元年1865~)は、薩摩藩から3両2分(当時、1両=5万円程度と考えれば3両2分は17万5千円ぐらい)をお給料として貰っていたようです。

龍馬の性格は?京都とのかかわりは?

カテゴリ:龍馬について

(1)坂本龍馬の性格はわかりますか?また、なぜそう思うのかも教えてください。先生のお考えで結構です。
(2)また龍馬と京都とのかかわりは。

(1)
○龍馬の手紙より
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、非常に細やかな心配りのできる、行き届いた心の持ち主ではないかと想像します。
○龍馬と関わった人物より 
薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」
ということです。 
龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることもあったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。
○生まれ育った環境より
龍馬の性格には、生まれ育った環境にも大いに関係あると思います。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

このような龍馬の性格を生かし、
・優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめきがある。
・やさしさ:「争い」よりは「和」。ひとへの思いやりを持つ。
・目標を立て実現させる。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
につながったと思われます。

(2)
龍馬が京都でかかわった場所、その時の様子を知っていただくには、書籍:『坂本龍馬、京をゆく』 著者:木村幸比古氏(淡文社)に一連の京都のゆかりの地が載っていますので、そちらを見ていただいたら、分かりやすいかと思います。お手数ですが、書店や図書館でご覧ください。

龍馬直柔とは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の名前の下に直柔とありますが、この直柔とは何ですか?
また、女の子にも直柔のように名前の下にまた名前を付けるとういう風習があったのですか?もしあれば乙女姉さんやお龍さん達の下の名前が知りたいと思います。
この風習がいつまで続いたのか分かれば教えて下さい。

普通、武士と呼ばれる人達は2~3の名前を持っていました。
 (1)子供の頃から普段呼ばれている名 『幼名、通称』=「龍馬」
 (2)正式な手紙などの署名に使用する名 『実名、諱』=「直柔」
 (3)絵や詩を書いた時などに使用する名 『号』=「自然堂」
 (4)追われる身の為、隠れみのとする名 『変名』=「才谷梅太郎」等
「直柔」(なおなり)とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの『諱』(=【いみな】その人の生涯の幸福を祈って好い音義の字を選んで用いたようです)をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。
最初は「直陰」(なおかげ)と名付けたようで、慶応元年12月頃(龍馬31才頃)までは、この「直陰」を使っていたようです。「直柔」に変わるのはそれ以後のことと思われますが、いつ変えたのかは資料として残っていないので、はっきりとは分かりません。
龍馬の手紙は、現在139通が確認されていますが、「直柔」という署名を使った手紙は慶応2年10月5日が最初のようです。諱を署名した手紙は、「直陰」=4通、「直柔」=9通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。
なお、坂本家の6代目以降の男子は皆、「直」の字が付けられています。【9代目=龍馬の父は「直足」、10代目=龍馬の兄は「直方」】
『諱』を付けることは一部の武家、公家の慣習です。女子に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。
武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

龍馬をしのんだ漢詩

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の残した、あるいは他の方の残された四行、八行の漢詩があれば教えて下さい。
龍馬の和歌は10数通ありますが、漢詩はありません。書軸などであったとしても、それは本物ではない可能性が強いです。龍馬以外では、勝海舟が龍馬の死後15年経った時、龍馬をしのんで詠んだ四行詩を残しています。参考までに、その時の勝海舟の漢詩を書きだしてみます。<参考資料>『龍馬百話』著者:宮地佐一郎氏

「日月如転丸(日月は転丸の如し) 追想豈漠然(追想、豈漠然たり) 一龍蓋棺後(一龍、棺を蓋って後) 既過十五年(既に十五年を過ぐ)」
   

近江屋襲撃時の龍馬の刀と鞘

カテゴリ:龍馬について

「お-い!竜馬」や、以前一度写真で見たんですけど、龍馬の刀は近江屋襲撃時に暗殺者の刀を刀で受け鞘が切れていたと思うんですけど、京都国立博物館で龍馬の刀を見たら鞘の部分は全然切れていなっかたのです。これはただ単に後に修理したっていうことですか?それとも京都国立博物館の龍馬の刀は重要文化財からはずされていたのでその辺にも何か関係があるのかと思います。

近江屋で襲われた時、鞘のまま敵の刀をうけとめたのは吉行の刀です。これは坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行きました。北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやっていました。その中に切り込まれた刀の鞘(龍馬写真集にも載っている)も展示され、死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストル、鞘から出した刀なども写真に写っていましたが、残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまいました。
国立京都博物館の鞘はのちにつくったもので、その鞘には大正2年の火災のことを書いてあります。刀は焼け跡から取り出されて、打ち直されたものを展示してあるはずですが、重要文化財指定から外れたということです。

お龍との出会いと龍馬没後のお龍

カテゴリ:龍馬について

龍馬とお龍が出会ったのは、2人が何歳のときですか。また、龍馬が亡くなった後、お龍は龍馬からの手紙などを燃やしたと本に書いていたのですが、それはなぜですか。

龍馬がお龍と知り合ったのは、文久2年(1862)7月お龍の父親が、勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、獄中で病死した後になります。お龍の母が志士たちの隠れ家だった方広寺へ、食事などの世話をするために通っており、文久3年(1863)(龍馬28歳、お龍23歳)にそこで龍馬とお龍は出会ったと考えられます。お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとありますが、龍馬の手紙でお龍のことを妻と明記するのは慶応2年(1866)12月4日の手紙からです。慶応元年(1865)9月9日の姉乙女へ宛てた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、詩の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2年(1866)1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人達に取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げる事が出来ました。龍馬は、命の恩人となったお龍とこの事件の後結婚したようです(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周り中知らない人で、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、芸西村(高知から東へ車で45分位の所)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄った後、土佐から離れました。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて過去を清算したかったのでしょう。

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