ホーム >  調べる >  龍馬Q&A

龍馬の遺体搬送と遺族

カテゴリ:龍馬について
龍馬の死後、遺体はどのようにどこへ搬送されたとか、遺族の過ごし方などは?
京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地{現在の護国神社の裏山}に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。尚、墓地には龍馬のほか中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。
遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4ケ月余り後、慶応4年(明治元年)4月から土佐の坂本家に行きました。明治2年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都へ帰り江戸へ出ますがその後、西村松兵衛と再婚し、横須賀で死去。お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

明治維新に向けて出会った人達

カテゴリ:ゆかりの人物について
(1)龍馬はどのようにして幕府を倒し、どのような人々と会ってきたのか?協力してきたか?
(2)その人々とはどのような関係になっていったか?
(3)龍馬からみた明治の世の中は?

(1) 
龍馬はまず、力の有る薩摩藩と長州藩を結びつけることによって(薩長同盟)、幕府に対抗できる大きな勢力を作り上げました。そして、最新式の武器を長州藩に運びました。その際に、共に協力をしあった人は、薩摩藩では、西郷隆盛・小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩では、桂小五郎・高杉晋作などがいました。

(2)
高杉晋作は龍馬が暗殺される前に死んでしまいますが、他の人とは協力しあう関係は変わりません。

(3)
憲法の制定や、議会の開設など制度の面では、近代的な国家を目指して、着実に前進しつづけた明治政府ですので、龍馬も不満はないのではないかと思います。しかし、それらを行う政府の指導者は、いつまでたっても「藩閥政府」と呼ばれたように、薩摩藩と長州藩の出身者ばかりでした。「平等な世の中」を作りたかった龍馬としては、理想の世の中とはだいぶ違っていたのではないでしょうか。
また、明治時代は世界的に帝国主義(他の国に戦争を仕掛けて侵略していくこと)が流行し、日本もその流れに乗って、朝鮮や中国を侵略していきます。これは平和を愛した龍馬の考え方とはかけ離れたものですので、龍馬は、間違った方向へ進んで行く明治政府を苦々しい思いで見ると思います。

龍馬についての質問~中学生より~

カテゴリ:龍馬について
(1)坂本龍馬が、最も尊敬した人物は誰ですか。(私見で結構です。)
(2)現代に龍馬がいたとしたら、どんな生き方をしていると思いますか。(先生の考えで結構です。)
(3)海と船が好きなのは、外国にあこがれていたからですか。
(4)龍馬が行きたいと考えていた国はどこですか。
(5)龍馬はどんな性格でしたか。また、それは生育歴と関係していますか。
(6)どんな食事を好みましたか。
(7)記念館の先生は、龍馬のどんなところが好きですか
(8)龍馬のエピソードで先生が一番好きなものは何ですか。

【三浦学芸員回答】
(1)
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
 ◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
       ※本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
 ◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
  ・大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
  ・横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。

(2)
現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。

(3)
龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。

(4)
龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国などとは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。

(5)
龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

(6)
これは全く分りませんし、想像もできません。

(7)
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。

(8)
最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
 
【故・小椋前館長回答】(2)と(7)のみ
(2)
現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。

(7)
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ  :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)

江戸剣術修行と河田小龍との出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は当時閉鎖的と思われた土佐から江戸に留学に行っていますがそのきっかけ、背景は何があったのですか?龍馬自らの意思でいったのですか?また河田小龍と会ったのは、江戸に行く前ですか?帰ってからですか?
江戸行きが誰の意志だったかは、明確には分りません。しかし、単純に想像すれば父・八平の意志だったのではないかと思います。この当時、家は普通長男が継ぎ、財産もすべて長男が相続する事になっていました。次男以下はどこかに養子に行くか、芸で身を立てない限り、一生居候として過ごす事になり、兄のやっかいにならなければなりません。龍馬の場合、14歳から始めた剣術が性に合っていたようで、めきめきと腕を上げます。こうなると、父親は「剣で飯が食えるようにしてあげたい」と考えても不思議は有りません。しかし、江戸へ修行に出してあげられるというのは、かなりの財力があったから出来たことです。龍馬がどんなに江戸へ修行に行きたくても、1年以上も江戸に滞在するには莫大なお金がかかります。それを許可したのはまぎれもなく父・八平です。
次に他の要素を考えてみますと、龍馬には開明的なアドバイスをしてくれる人が周りにいたことが分ります。先日、60年ぶりに発見された1863(文久3)年8月19日・川原塚茂太郎〔もたろう〕宛ての龍馬の手紙に、次のようにあります。
「(前略)又兼て雅兄か御論にも土佐一国にて学問致し候へは一国たけの論がいで世界を横行すれば又それたけの目を開き自ら天よりうけ得たる知を開かずばならぬとは今に耳に残り居り申し候。(後略)」
川原塚茂太郎は、兄・権平の妻の弟で、龍馬にとっては義理の兄にあたります。茂太郎は、「土佐一国で学問をしていたら、限られた知識しか得られないが、世界を横行すれば、世界の知識が得られる。天から授かった能力を大いに活用しなければならない。」と龍馬に語っており、龍馬はこの言葉がずっと耳に残っていたようです。「狭い土佐から出て、大いに見聞を広めなさい。」ということです。龍馬は金銭的な面でも、人の面でも恵まれた環境にあったのだと思います。
最後になりましたが、河田小龍といつ会ったかですが、これは1回目の江戸留学が終わってからになります。1854(安政元)年6月23日(20歳)に高知へ帰省し、この年の秋に小龍を訪ねます。正確な月日は分っていません。そして、1856(安政3)年8月20日(22歳)再び江戸へ向かいます。

坂本家と明智家

カテゴリ:龍馬について

私が以前見た本には坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔で本能寺の変ののち、土佐に逃れ光秀の居城の坂本城の地名坂本を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり坂本家の桔梗紋は明智に由来する書いてありました。これは本当のことでしょうか?(長野県 男性 34歳)

坂本家の御先祖様は明智家と何か繋がりがあるのでしょうか。当時の土佐は海路しか無く、そこまでして移住したのは何故でしょう。 (神奈川県 男性 60歳)               

そのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年~1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年~1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。

海外へ行きたかった龍馬

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬はアメリカ行ったことがありますか?
龍馬はアメリカは勿論、一度も海外へは行ったことがありません。
しかし、先日60年ぶりに発見された川原塚茂太郎宛書簡には、海外にたいする思いが次のように語られています。
「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、 これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」
この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしているのです。
このように、龍馬は海外へ行きたいという夢は抱いておりましたが、残念ながらその夢がかなうことはなかったようです。

紋服からみる龍馬の体型

カテゴリ:龍馬について
龍馬のスリーサイズ、体重は?
残っている紋服などから以下の様に想像されます。
 身長=173cm 体重=約80kg
以下、紋服の寸法です。
 着丈=149cm 肩巾=32cm 袖丈=50cm 袖巾=33.5cm 裄丈=65cm 前巾=26cm 後巾=30.5cm
実際のスリーサイズまではわかりませんが、ご参考になさって下さい。

龍馬のあだ名は?

カテゴリ:龍馬について
龍馬の子供の頃のあだなは?
子どもの頃は分かりませんが、青年時代には、龍馬は武市から"痣(あざ)"とよばれていたということが、『維新土佐勤王史』に出てきます。痣(あざ)とはホクロのことですが、龍馬の妻であるお龍が、龍馬の死後に語った言葉に「龍馬は眉の上に大きなイボがあり、顔にはホクロがボツボツあった。」というのがあります。

「酒と女を愛さぬ男は人生の半分を損をする」は龍馬の言葉?

カテゴリ:龍馬について
「酒と女を愛さぬ男は人生の半分を損をする」というのは龍馬の言葉ですか?
この言葉は、館長をはじめ職員一同聞いたことがありませんし、龍馬関係の本をいくつか調べてみましたが、見つかりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、お教えください。

龍馬の変名

カテゴリ:龍馬について

龍馬はいくつ変名を使っていたのですか。

「西郷伊三郎」さいごういさぶろう(この名前で手紙を送ってほしいと家族に依頼)
「才谷梅太郎」さいだにうめたろう(手紙の署名として使用)
「取巻の抜六」とりまきのぬけろく/慶応2年11月(手紙の署名として使用)
「大浜涛次郎」おおはまとうじろう/慶応3年5~6月(手紙の署名として使用)
「高坂龍次郎」たかさかりゅうじろう/慶応3年2月(手紙の文中に登場)

「自然堂」じねんどうかじぜんどう(自分の居た下関の家の名前)は龍馬の号

以上、変名5種類、号1種類になります。

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11