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龍馬のまげ

カテゴリ:龍馬について

坂本龍馬のマゲは平べったいですよね?でも他の人々は普通のマゲのように見えます。やはり、身分やその藩によって色々あるのでしょうか?マゲの種類や、どう違うか教えて下さい。

普通武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を剃り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせてまげにします。龍馬は月代を作らず、髪全部を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐でまげをしているかどちらかで「総髪」(そうはつ)と言っています。龍馬は浪人という自由な身だったので、まげを自由にしていたのではないでしょうか。なお、まげは藩によっての流行の違いがあり、土佐藩では月代を細く剃るのが流行でした。また、身分でも違いがありました。

龍馬の本でお勧めは

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龍馬の本当を知る、お勧めの本は?

龍馬研究の本は色々出版されており、私達でも迷うくらいですが、次の4冊をお勧めします。
 ・土居晴夫氏著 『坂本龍馬の系譜』 (新人物往来社)
 ・山田一郎氏著 『坂本龍馬 ― 隠された肖像 ― 』 (新潮社)
 ・平尾道雄氏著 『坂本龍馬のすべて』 (高知新聞社)
 ・新事物往来社編 『共同研究・坂本龍馬』 (新人物往来社)
さらに挙げるとすれば、
 ・池田敬正氏著   『坂本龍馬』(中公新書)
 ・平尾道雄氏著   『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)
 ・飛鳥井雅道氏著  『坂本龍馬』(福武書店)
以上の3冊になります。またこの他にも沢山良い研究書もございます。ぜひ色々な本をご覧になってみて下さい。

龍馬に子供はいたか

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龍馬に子供はいたのか?
龍馬はお龍と結婚はしましたが、子供はいませんでした。他の女性との間にも子供はいません。ただ、養子として、明治4年8月に龍馬の姉、千鶴の息子「高松太郎」が朝廷の沙汰により坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名しました。

外国での龍馬の知名度と龍馬という名前の人は

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外国で龍馬はどれぐらい知られているか?また現在全国に龍馬という名前の人は何人位いますか?坂本龍馬が生きていた当時、龍馬という名前は一般的な名前だったのですか?それともやはり当時から龍馬という名前はめずらしかったのでしょうか?

外国では龍馬はあまり知られていないでしょう。1950年~60年代にアメリカの学者で中国や日本を研究したマリアス・B・ジャンセンさん(故人、元プリンストン大学教授)が「坂本龍馬と明治維新」という本を英文で出しています。(日本語訳は時事通信社)外国人としては世界ではじめて龍馬の研究をした人で、大変詳しい方です。日本にもよく来られ高知でも色々調べています。最近では、アメリカ人のロミュラス・ヒルズボロウさんが「Ryoma」という英文の小説を出しています。読みやすく・わかりやすい本で「龍馬を知らない外国人が多すぎる・・・」と言って悔しがっていたようです。
龍馬という名前ですが、これは、わかりかねます。「龍」は伝説の動物ですから当時でもこの字を使う名前は珍しかったのでは・・・
ちなみに、過去1年間に当館に入館されてメッセージを残してくれた方の中に「龍馬」・「竜馬」という名前の方が6人いらっしゃいました。

龍馬は人を斬った事があるか

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龍馬は人を切ったか?

龍馬が人を切ったという記録は、海援隊士・関義臣の回顧録に出てきます。他人の妻と関係を持った水夫を斬ったというものです。また、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦をし、奉行所の役人を撃っています。刀は、脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった・・・」と龍馬が兄の権平宛に手紙(慶応2年12月4日)を書いています。

龍馬の血液型は

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龍馬の血液型は何型ですか?

血痕のある屏風・掛け軸(京都国立博物館蔵)についている血痕を調べれば(DNA鑑定)わからないことはないと思うのですが、実際には調べていません。もし鑑定をしたとしても、掛け軸の血が本当に龍馬の血であるという証明は、お墓を掘りおこして骨か毛髪などの残っている物と照合しない限り断定ができません。したがって、掛け軸の鑑定だけでは意味がないので鑑定を行わないのではないかと想像します。答えは今のところ「わからない」です。

龍馬の家紋について

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坂本龍馬の家紋は?家紋の名前を教えてください。

龍馬の家紋(坂本家の家紋)についてですが、名称は、「組み合わせ角に桔梗紋(くみあわせかくにききょうもん)」といいます。この紋章は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。

坂本家の家紋に付いてですが、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年経って亡くなった直益の妻・さわの墓に付いているものが、確認できる最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えると、時期的に近いので丁度良さそうなのですが、断定できるまでには至っておりません。桔梗紋は美濃の土岐氏が用いていた家紋で、美濃地方に多い家紋になります。同じ美濃出身の明智家も桔梗紋で、明智後裔説のある坂本家も桔梗紋にしたとも言われていますが、実際のところは分りません。

龍馬の立像写真について

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龍馬の写真(よく見る立像写真)について、わかれば撮影場所、時期、撮影者などお教えいただけませんか?

一般的に言われている説では、1866年(慶応2年)頃に、長崎の上野彦馬によって撮影されたということになっております。
上野彦馬は、幕末当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬"と並び称された名写真家の一人でした。その上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がおり、他の土佐藩出身の人々は、井上に無料で写真をとってもらうことがよくあったようです。龍馬の写真も、スタジオは間違いなく上野彦馬のスタジオですが、撮影者はこの井上だという説があります。龍馬の立像写真の原板(湿板)は井上家に保存されていましたので、撮影者は井上俊三と考える方べきだと思います。

龍馬の名前「龍馬」と「竜馬」

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坂本龍馬の名前の表記でときどき「竜馬」とやさしい漢字の「竜」を使われているのが見られます。正式には「龍馬」とは思いますが「竜馬」と名乗った時期があるのでしょうか?小説「竜馬がゆく」からきたのでしょうか?

りょうまの名前ですが、どちらの方が正しいと断定する事は坂本龍馬記念館という立場上難しいかもしれませんが、当館では以下のような考えに基づき展示等を行っています。
「龍馬」と「竜馬」についてですが、龍馬自身は「竜」の字は一度も使ったことがありませんので、当館では「竜馬」という表記は絶対しないようにしています。しかし、新字体として制定されているのは「龍」ではなく「竜」の方ですので、教科書や新聞などでは、「竜」の字を使うことがあると思います。当館は拘って「龍馬」と表記していますが、歴史上の人物すべてを旧字で表記することは不可能ですので、他の人に対しては新字体で表記していることが多々あります。

「竜馬」が一般的になったのはやはり、司馬遼太郎氏が書いた「竜馬がゆく」の影響だと思います。司馬氏は「小説の中では僕のリョウマを動かすのだから竜馬にした」と語っておられたそうで、実在した龍馬と架空の竜馬を漢字によって区別したそうです。

龍馬の所持品について

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龍馬は靴や最新式の拳銃を所持していたといいますが、どのようにして彼の手に渡ったのでしょうか。また、拳銃の使い方は、外国人から教わったのですか、それとも書物で読んだのか、日本にあった鉄砲と同じような使い方だったのでしょうか。

龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴につきましては、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。拳銃につきましては、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡[1866年(慶応2年)2月6日]の中で、「かの高杉より送られ候ビストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の1865年(慶応元年)に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。」[1866年(慶応2年)12月4日]と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。
龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘董斎について砲術を習っていますので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867年(慶応3年)6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。

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