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龍馬最後の言葉

カテゴリ:龍馬について
龍馬が近江屋で中岡慎太郎といたところを刺客に襲われ暗殺されるのですが、その際の最後の言葉を教えて下さい。刺客に襲われ深手を負いもう駄目だと自覚した際の言葉です。そういった言葉はなかったのでしょうか?
龍馬の最後の言葉ですが、龍馬はほぼ即死でしたが、一緒に襲われた中岡慎太郎は龍馬よりも2日長く生きており、意識もはっきりしていましたので、襲われた時の様子を駆けつけた人に語っています。その話をまとめたものの中から、龍馬の最後の言葉を抜き出してみます。
まず、『谷干城遺稿』明治45年(1912年)ですが、「すっと起上って行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、石川(中岡の変名)刀はないか、刀はないか、と二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。
次に、『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)ですが、「其安否ヲ問ヘバ彼曰ク、我既ニ脳ヲ斬ラレタリ、助命ノ望ナシト一言シ、伏シテ復ビ声ナシト。」とあります。
最後に、「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)ですが、「(前略)其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが僕も是位遣られたからとても助かるまい(後略)」とあります。
以上、三人の資料を紹介しましたが、三人とも龍馬と慎太郎の遭難直後に駆けつけていますので、かなり信用できる話だと考えられています。

龍馬の身長について

カテゴリ:龍馬について
龍馬の身長はどうしてわかったのですか。
龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人おります。
3人によると、
田中光顕(元・陸援隊士)   =5尺7寸(173cm)
関龍二   (元・海援隊士)   =5尺8寸(176cm)
信太歌之助 (元・幕臣)     =5尺9寸(179cm)
となっています。
さらに、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されており、その大きさと、現代人の標準寸法とを比較してみますと、170cmより少し大きいくらいではないかと推測できます。龍馬の身長をはっきりと確定させる事はできませんが、いずれにしましても平均身長150cm台の時代に、170cmを越えていたのですから、かなり大柄な人物だといえます。

高知県人にとっての龍馬の存在

カテゴリ:龍馬について
高知県の人にとって坂本龍馬は、どんな存在ですか。
高知県の人は、龍馬のことを郷土の偉人と考えていますが、「手の届かない雲の上の人」という存在ではなく、「友達のような親しみやすい人」という存在ではないかと思います。高知県には、あちこちに「龍馬」と名前のつくものがあふれていますので、名前を知らない人はまずいないと思います。しかし、何をした人かと問われると、答えることができる人は多くないのではないかと思います。

龍馬を知るうえで欠かせない事

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬を知るうえでこれは欠かすことができないということは何ですか。
業績としては、薩長同盟や船中八策、亀山社中(のちの海援隊)は欠かせません。また、人脈では姉の乙女や勝海舟、中岡慎太郎、後藤象二郎などは重要です。

坂本龍馬と高杉晋作

カテゴリ:龍馬について
幕末の志士の中でも坂本龍馬と高杉晋作は特に型破りな人物ですが、2人のどういうところが型破りなのか、また2人の違いを教えてください。
二人の比較は非常に難しい事ですが、二人とも、亀山社中(海援隊)や奇兵隊という今までにない組織を造ったところや、人が考えつかないような事、または考えついても無理だと思えるような事を成し遂げたところが、型破りなイメージをつくりだしているのではないでしょうか。二人の相違点は色々ありますが、家柄の違いは大きいと思います。晋作は長州藩の中級藩士、龍馬は土佐藩の郷士出身ですので、藩に対する意識が全く違います。

龍馬の性格は

カテゴリ:龍馬について
龍馬はどういう性格だったのですか?
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、細やかな心配りのできる性格ではないかと想像します。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」

カテゴリ:龍馬について

もし龍馬が現在の日本に降り立ち、再び国のために奔走してくれるとしたらどのような手段をとるのでしょうか。日本は彼が生きていた頃とはずいぶん変わりました。そのなかで現代の龍馬は・・・。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」とは、龍馬ファンなら誰もが考える事だと思いますが、その答えは非常に難しく、皆違う答えになるのではないかと思います。龍馬の行動や思想から想像すると、やはり自由と平等、平和に向けて奔走すると思います。

龍馬とカツオのたたきとお酒

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の好物について調べています。土佐といえばカツオのたたきが有名ですが、龍馬も食べていたのでしょうか?確信の持てる資料が無いので教えていただきたいのですが。また龍馬が飲んでいたお酒の特徴などがわかったら嬉しいのですが・・・。
龍馬がカツオのたたきを食べたという資料はありませんが、土佐人ならば食べた可能性は高いと思います。龍馬が飲んでいたお酒も資料が残っていませんので、はっきりとは分かりません。しかし、坂本家の本家である才谷屋は、酒造業もしておりましたので、本家で造ったお酒を飲んでいた、と考えるのが妥当だと思います。当時から現在まで続いて造られているお酒は、佐川町の「司牡丹」があります。このお酒の名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものですが、佐川町出身の勤王家は沢山おり、龍馬とも繋がりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたるお酒を飲んだ可能性は有ります。ちなみに、坂本家本家の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。

龍馬暗殺について

カテゴリ:龍馬について

龍馬は誰に殺されたのか?

龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。しかし、証言者である(1)今井信郎と、(2)渡辺篤、(3)中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことが分かりません。なお、今井は6回証言していますが、言っていることに一貫性がありません。また、中岡慎太郎の"最期の言葉"を後世に伝えた人が3人おりますが、この人達の言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。

 《龍馬暗殺の状況》
  い つ : 慶応3年(1867)11月15日午後9時ごろ(太陽暦では、1867年12月10日)
       薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)の日記『京在日記』によると当日の天気は雨。
       しかし、犯行時の天気は、鍵屋長治郎の日記『幕末維新京都町人日記』によると、
       「雨降夜双天」となっており、夜には雨も上がり、晴天だったようです。
  場 所 : 京都四条河原町通り蛸薬師下ル西側「近江屋」(醤油屋)当主・井口新助。現在は「京阪交通社」
  犯行人数: (1)今井説=7人
         (襲撃者)渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助
         (見張り)佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の7名)
         ・今井は後の証言で、今井自身が襲撃者の中に加わっていたと証言しています。
         (2)渡辺説=6人
         佐々木唯三郎並びに拙者(渡辺篤)始5名
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の6名)
         (3)中岡の最期の言葉
         『谷干城遺稿』明治45年(1912年)=人数不明
         『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)=3名
         「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)=2名
         
この他にも次のような説があります。

  実行犯 : (1)元・新選組(高台寺党)の伊東甲子太郎説
         (2)新選組の原田左之助説
         (3)薩摩の中村半次郎説(桐野利秋=人斬り半次郎)
  黒 幕 : (1)幕府(大政奉還と寺田屋の恨み),実行犯=見廻組
        (2)薩摩藩(武力改革路線と平和改革路線の意見の相違)実行犯=不明
        (3)紀州藩士・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み)実行犯=見廻組

色々な犯人や理由が考えられますが、よほど明確な証拠でも発見されない限り、誰も真犯人は特定できないと思います。
 
【参 考】京都の霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)には、「龍馬を斬った刀」が所蔵されています。
     これは、見廻組・桂隼之助のご子孫から寄贈されたもので、龍馬を斬った刀だと伝えられています。
       銘=「越前国住人兼則」 , 長さ=約65cm(脇差程度)

龍馬は梅毒?

カテゴリ:龍馬について
龍馬さんって梅毒?
中江兆民は龍馬の事を「其額は梅毒の為め抜上がり居たり」と語っているようですが、梅毒で髪が抜けるということはないようです。兆民以外で、龍馬の事を梅毒と語っている人はいない上に、兆民自身が龍馬と特に親しかったわけでもないですので、兆民の勘違いという事は十分考えられます。
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