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「英将秘訣」と龍馬の関係

カテゴリ:龍馬について

今現在わかってる、『英将秘訣』と龍馬さんの関係を教えて下さい。『坂本龍馬伝』(千頭清臣:新人物往来社)の解説で一坂太郎氏は龍馬さんと『英将秘訣』の関係を否定しておられますが、今現在でも『英将秘訣』を龍馬さんの言葉として引用している本をいくつかみかけます。実際のところ、『英将秘訣』は龍馬さんの残した(もしくは語った)言葉なのでしょうか?

「英将秘訣」は、大正3年6月に発行された千頭清臣著『坂本龍馬』ではじめて紹介されたものです。当時は、確信はないものの、龍馬が語ったものだと信じられていたようです。その後、研究が進み、おそらく平田派国学者志士グループの中に生まれたものであろう、と推定されています。(平尾道雄著『新版 龍馬のすべて』 1985年 高知新聞社発行) 「英将秘訣」は、1863年(文久3年)におきた足利将軍3代の木像梟首事件の際に、会津藩士広沢安任によって押収されたものです。その広沢の手記によると、「英将秘訣」の作者は龍馬ではなく、平田派の学者と考える方が無難であり、現在では龍馬とは無関係とする説のほうが大勢を占めているようです。現代では龍馬は英雄視されており、「英将秘訣」の中から格好良い言葉(「世に生利を得るは事を成すに在り」、「衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」など)だけをとって、さも龍馬が言った言葉のように書いている書物もありますが、「英将秘訣」には非常に危険な思想を含んだ言葉(「人を殺す事を工夫すべし。刀にてはヶ様のさま、毒類にては云々と云事をさとるべし。乞食などを2、3人ためし置くべし。」など)もあり、龍馬の言葉とは思えないものも多くあります。

中江兆民と坂本龍馬

カテゴリ:ゆかりの人物について
中江兆民は坂本龍馬と長崎で会っていて、生涯尊敬していたと本で読みました。写真好きの龍馬と兆民が一緒に写っている写真と言うのはあるのでしょうか?もしあるとしたらそちらの記念館で所蔵されていますか?
中江兆民と坂本龍馬が一緒に写った写真ですが、当館にはありませんし、一緒に撮ったという記録も見たことはないので、おそらく現存しないのではないかと思います。

坂本春猪について

カテゴリ:ゆかりの人物について

春猪の生い立ち、龍馬の死後、春猪の生涯について教えてください。

坂本春猪 (以下「坂本龍馬大事典」を参考にしています。)

天保14年(1843年)12月14日~大正4年(1915)7月22日享年73歳
土佐藩士坂本権平と千野の娘。千野は川原塚氏。
龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、年が8歳しか違わない為、龍馬に妹のように可愛がられた。
龍馬がよく春猪の顔を、アバタのある顔から、金平糖の鋳型と言ったり、長崎から「外国のおしろいと申もの」を送ったことや、龍馬にかんざしをねだったことが、龍馬が乙女や春猪に宛てた手紙からもわかる。龍馬が春猪に宛てた手紙2通が確認されている。
文久3年秋、家老山内下総の家来の鎌田実清の次男清次郎を婿養子に迎えた。
元治元年に長女鶴井、慶応元年に次女兎美(富)を生む。
清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。
春猪も三好家に入り美登と改め、長男・譲と長女・亀代をもうけた。
譲は早逝、亀代は後に税務官吏楠瀬済の後妻に入った。
夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る。
高知では、亀代の嫁ぎ先である楠瀬家で養われ、73歳の生涯を閉じた。

中岡慎太郎の銅像と海援隊と陸援隊

カテゴリ:ゆかりの人物について
中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのか?また、それはなぜか。それと、海援隊・陸援隊の活動または役割について教えてください。
中岡慎太郎の像は南向きに立っています。よく桂浜の龍馬の銅像の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もしそうするには、かなり北西を向かなくてはなりませんが、そうすると銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、もっとふさわしい開けている方角になっているわけです。
海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり商売をしたりしていますが、いざという時は土佐藩を船で応援する役目をもっています。浪人ものでも外国へ行ってみたい人は入ってきてよい、と規則には書いてあります。
陸援隊は土佐藩に属する武力集団で幕府を倒すための戦いに参加する目的でつくられました。中岡慎太郎が隊長ですが、実践は行われませんでした。

龍馬と川島家と田中家

カテゴリ:ゆかりの人物について
学習研究社発行の歴史群像シリーズの第23「坂本竜馬」の37頁に、仁井田の川島家や坂本山の田中家へよく遊びに行った、とありますが両家は坂本家とはどのようなつながりが有ったのでしょうか?又そこまでの距離や子供の足でどのくらいの時間がかかったのでしょうか?
「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。川島家の当時の当主伊三郎は、「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで手漕ぎの船で30~40分くらいでしょうか。湾の眺めもよい航路です。
田中家は坂本家の山や領地の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16才年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。

「おやべ」は春猪

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬の手紙で「おやべ」に宛てたものがありますが、それは乳母の事だと説明するものもあれば春猪だというものもあります。どちらが正しいのですか?

春猪=おやべ、が正解です。
〇おやべは、元治元年(1864)、龍馬が30歳の時に子供ができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元年(1865)9月7日には、「最早、風が寒くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、おやべ=乳母はありえません。
〇使用人だとすると西の部屋の縁側で日なたぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな甘やかされた使用人はいないはずですから、おやべは使用人でも乳母でもないです。
〇アバタがあって、おしろいをぬれと龍馬によく言われます。これは「春猪」の所でも出てくるので同一人です。

沢村惣之丞について

カテゴリ:ゆかりの人物について
1、沢村惣之丞について教えてください(家族構成とか誕生日とか、くわしく教えてください)
2、彼の生まれた潮江村は、現在の高知県のどのへんなのか教えてください。
沢村惣之丞についてのご質問ですが、調べてわかった範囲でおこたえさせていただきます。
1、生年月日・・・1843年(天保14年)生まれ。家族構成・・・わかりませんでした。
2、潮江村・・・現在でも、潮江(うしおえ)地区として残っています。はりまや橋から南の方角になります。

沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)・・・1843年(天保14年)~1867年(慶応4年1月15日)。土佐国土佐郡潮江村の出身。土佐藩士。名は延世、惣之丞は通称。
文久元年(1861)8月に結成された土佐勤王党に加盟する。
文久2年(1862)3月上旬、吉村虎太郎に同調して脱藩するが、同志の説得の為に引き返し、24日龍馬を従えて再び脱藩する。
文久3年(1863)軍艦奉行並・勝海舟門下となった龍馬が上京すると、誘われて海舟の門人となり神戸海軍操練所に入って英語・数学を修めた。以後、海援隊に至るまで龍馬と行動を共にしてよく補佐し、長崎時代に関雄之助と改称した。
慶応4年(1868)1月海援隊を率いて長崎奉行所を占拠するが、誤って薩摩藩士を殺害。その責任を負って自刃して果てた。享年26歳。お墓は、長崎市筑後町本蓮寺。

吉井幸輔について

カテゴリ:ゆかりの人物について
「慶応2年12月4日乙女宛」の龍馬の書簡の中に出てくる、「吉井幸助」は龍馬とどんな関わりがあったのか、どうして霧島温泉で待っていたのかを教えて下さい。
吉井幸輔は、龍馬より7歳年上の薩摩藩士です。高知県にも来て住んだことのある歌人、吉井勇(1886~1960)のおじいさんで、龍馬のことをいつも気にかけてくれる人です。1866(慶応2)年1月23日、薩長同盟を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、指を斬られた龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱していますし、お龍さんを連れた旅行でも、吉井は案内役をつとめました。霧島温泉で待っていたのは、山に登るのが大変だったのと、山の道は一本道で迷うこともなく、仲の良い龍馬とお龍を2人だけにしてあげようと思ったからでしょう。山から下りてきた龍馬達を、また案内するためでもあります。

岡上樹庵について

カテゴリ:ゆかりの人物について
乙女の嫁ぎ相手である岡上樹庵についてお聞きしたいのですが、藩公(山内容堂)の御付医者だったというのは本当でしょうか?また、他の医者との交流はあったのでしょうか?生まれた年、亡くなった年は何年でしょうか?
岡上樹庵は150cm以下の小柄な人で、かんしゃくもちだったなどと言われています。天保10年(1839)岡上家に養子に入っています。最初の奥さんは亡くなり、安政3~4年頃(1856~57)その後妻として乙女さんが入ったようです。果たして夫婦仲が良かったかというと、1863(文久3年)6月29日乙女に宛てた龍馬の手紙の中に、「先日下さった手紙に、坊主になって山の奥へでも入りたいと言っていますが・・・」と書いてあり、この頃からあまり良くいってなかったようです。龍馬の手紙にも樹庵の事は全く出てきませんが、更に1867(慶応3)年6月24日の乙女宛の手紙で龍馬は「元気になったら京都へ出て来たいといっているが、龍馬の姉が不自由になったから出て来たと言われると、天下の人に対してはずかしい・・・」と言って一生懸命に止めています。これも樹庵と仲が良ければその必要もないはずです。元治2年乙女は岡上家から坂本家へ帰ったという説もあります。
さて、肝心の樹庵ですが、岡上家が代々藩公の御付の医者(待医)をつとめているので、樹庵もそれを受け継いでいると思います。その他の医者と交流があったかどうかについてはわかりません。
岡上樹庵 安政11(1828)年~明治4(1871)年

龍馬とお龍の出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬とお龍が出会ったのは?

龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。苦しい生活を助けるため元治元年(1846)8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となりました。
この頃から、龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。慶応元年(1865)9月9日の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えています。
この頃龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成します。そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができました。龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いています。
龍馬はけがが治ったあと慶応2年2月お龍と結婚しました(結婚は元治元年の説もある)。3月薩摩の西郷さんたちの招きで龍馬はお龍を連れ日本初といわれる新婚旅行にでました。霧島山のふもとの温泉で傷の保養をし山にものぼり、約1ヶ月間ゆっくりとすごしました。
 (参考になる本) 「坂本龍馬の妻 お龍」(新人物往来社・鈴木かほる 著)

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