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岡田以蔵について

カテゴリ:ゆかりの人物について

「岡田以蔵」と龍馬の関係を知りたいです。

岡田以蔵(いぞう)は龍馬より3才年下で、天保9年、現在の高知市北部江の口村に生まれました。土佐藩の郷士で、武市瑞山(ずいざん)に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門しました。以蔵は、文久元年(1861)に武市を党首として結成された「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となりました。文久2(1862)年、江戸に出ると、勤王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられました。文久3年には、神戸の海軍塾に居た龍馬と交流があり、龍馬が最も尊敬し、師でもある勝海舟の暗殺を、以蔵が未然に防いだこともありました。その後、幕府の力が強くなると共に以蔵も狙われ、8月18日の政変後の勤王党弾圧で、翌元治元年(1864)土佐藩によって捕らえられ、厳しい拷問を受けました。そして慶応元年(1865)閏(うるう)5月、武市瑞山と同じ頃処刑されました。以蔵28才の時。今でも、高知市にある以蔵の墓を探す人、訪れ手を合わす人も多いようです。

龍馬の死後のお龍

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お龍が龍馬の死後、高知の龍馬の実家で暮らしていたのに長続きしなかった理由はなぜなのですか?またお龍は黒髪が美しいといわれていたらしいですが、龍馬の法事で髪を切る前はどれくらいの長さだったのですか?
龍馬の死後、約3ヶ月(12月~3月)を、長州の三吉慎蔵の家で過ごし、慶応4年(明治元年)3月、土佐の坂本家に来ます。一般的に死んだ亭主の家族と暮らすのは気詰まりなものですが、お龍の気性とか、坂本家のお龍に対する見方が厳しかったとか、色々ある中で嫌気がさし、芸西村(高知から50キロ)にいた妹(君枝)のところに立寄り、手紙などを整理し、一年足らずの明治2年夏京都へ帰りました。その後は東京に出て再婚し、明治39年66歳で横須賀でなくなります。またお龍の髪の長さですがこれはわかりません。

河田小龍とジョン万次郎について

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1.河田小龍について藩の絵師とありましたが、藩にはおかかえの絵師が存在したのか、どのような仕事をするのか、何故なれたのか。
2.ジョン万次郎について鎖国中なのに何故帰国できたのか。小龍とはどうして、会い話したのか。

1.河田小龍について
仕事は土佐藩の船の担当である船役人でした。絵の方も本業ではありましたが、藩お抱えの絵師ではありません。

2.ジョン万次郎について
この頃1851~52年頃はやや緩やかになっていたと思います。最初琉球(沖縄)に上陸したのも、その辺の事も考えていたと思います。そこでの取り調べで、船の知識、アメリカの事など、当時未知の世界だった事を詳しく知っている万次郎は、貴重な存在になるはずですから、そのことが薩摩に伝えられた上で調べを受け、さらに長崎でも吟味を受け、1852年に土佐に戻るので、もうそのころはめずらしい話を聞き、参考にするところまで行っていたでしょう。小龍に預けられたのは、小龍が蘭学をやっていた事と、新しい事に関心を持っていた事などで、まさに人を得たというべきでしょう。絵も描けるしメモにも強い人でしたから、漂流記をまとめる事が出来たのです。

「竜馬がゆく」の寝侍ノ藤兵衛について

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司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』に藤兵衛という盗賊が登場します。物語の中で興味深い活躍をしますが、この藤兵衛は実在の人物なのでしょうか。もし実在したならば、この人物についての情報はお持ちですか。そして竜馬の死後、目立った活動をしていますか。

小説の中で"寝侍ノ藤兵衛"なる人物が龍馬の片腕として登場しますが、彼は現実の人物なのか、それとも想像の人物なのでしょうか? それに付きまして資料など有りましたら、是非教えて下さい。
 (北海道 男性 30歳)
「寝侍ノ藤兵衛」はもちろん架空の人物です。資料といって特にありません。なぜそのような人物が登場したかを私流に考えますと、龍馬が自分の考えをまとめた時、それを小説の方で表すには、「龍馬はこう考えたのだった・・・」と書くこともありますが、それよりも、聞き手を登場させ、その聞き手の質問にも答えながら、龍馬が語りかける方が分かり易いし面白くなるからです。つまり「寝侍ノ藤兵衛」は「聞き役」「質問者」「舞台廻し」などの小説の運び役なのです。対談や講演がすばらしい司馬さんらしいアイデア(?)ですね。

高松太郎が龍馬の家系を継ぐ

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高松太郎氏は一体どのようないきさつで龍馬の家系を継ぐことになったのでしょうか?
明治4年8月20日に、朝廷が坂本龍馬の功績をたたえ、後継がないのを哀れんで、甥の高松太郎に跡目相続を命じました。
高松太郎が選ばれた理由としては、母が龍馬の長姉の千鶴だったこと、龍馬と一緒に海援隊で活動していたことなどが、考えられます。

近藤長次郎について

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近藤長次郎の事を調べているのですが、資料によって饅頭屋は「大里屋」と「大黒屋」そして「長男」なのか「次男」なのか、名前も「近藤昶次郎」というものがあるのですが、そちらではどういう風になっていますか。本当はどうなのか教えてください。
「大里屋」と「大黒屋」は、大里屋が正しいです。「長男」と「次男」は、大里屋 伝次の長男です。名前は、近藤長次郎(ちょうじろう)が基本の名前です。近藤昶次郎(えいじろう)、近藤昶(えい)、上杉宗二労郎(そうじろう)は、亀山社中でよくこの名前を使っていました。当時は、変名をすることが多く、特に勤王運動など反幕府運動をする時は、名前を変えてあちこちへ移動していました。
龍馬も直柔(なおなり)という本名ほか、才谷梅太郎(さいだにうめたろう)、西郷伊三郎(さいごういさぶろう)がありますよね。

千葉佐那について

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坂本龍馬を愛し続け自分の墓に「坂本龍馬室」と記した彼女について知りたいのですが彼女の情報はとても少なく調べるのにとても苦労しています。是非彼女について教えてください。
龍馬は19才の時に江戸へ剣術修行に出ます。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉定吉(さだきち)の千葉道場に入門。龍馬はその千葉家の長女「佐那(さな)」(天保9年~明治29年10月15日)に恋心をもち、乙女姉さんへの手紙にも佐那のことを書いています。
『この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(奉公人と思われる)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴も弾き、絵も上手、それに、静かな人です。』と紹介しています。(文化3年8月14日)文久3年頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったことで、佐那の龍馬への想いが届かなかったのでしょうか、縁が切れてしまいました。それでも佐那は独身を通し、『私は龍馬と婚約していた・・・』と、話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と、一生龍馬を慕って淋しく他界した佐那の墓石(自然石)の裏には、「坂本龍馬室(夫人の意味)」と刻んであります。甲府市朝日5丁目(JR甲府駅から徒歩15分)の、「日蓮宗清運寺」にある墓は、もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家、小田切謙明の夫人の豊次(とよじ)が、無縁仏にならないようにと、自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。
 ※小説で、阿井景子著者 『龍馬のもう一人の妻』(文春文庫)があります。ご覧になってみてください。

千葉佐那さんは、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、1838年(天保9年)に生まれ、1896年(明治29年)に没しました。龍馬より3歳年下になります。兄弟は他に、兄が一人、妹が二人おりました。龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、そこには、千葉佐那女と署名されています。
龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っており、婚約していたことも語られています。1858年か1859年(佐那が21・22歳)に千葉家から結納として短刀一振り、龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。しかし、この年代では少し早すぎるので、実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。
龍馬の手紙では、1863年(文久3年)に佐那さんを乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、"乙女"という名前だったそうです。
「今年26才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力はなみなみの男子より強く、例えて言えば、昔家にいた"ぎん"という女と同じくらい力がある。顔かたちは平井(加尾)より少し良い。さらに、13弦の琴を上手に弾き、14才の時には皆伝していた。そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。その上、静かで、余計なことを言わない人。まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、美人だったと言われており、龍馬も好意を抱いていたようですが、それよりも美人だと紹介しています。"今の平井、平井"とは、「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。
以上のように、すばらしい女性だったようです。それにしてもよほど好きだったのか、誉めすぎくらい誉めていますね。開放的な龍馬らしい手紙で、乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。

ジョン万次郎の所蔵品について

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館内にはジョン万次郎に関して、どのような資料がございますか。
万次郎関係の資料ですが、現在展示中のものは、「ジョン・ハウランド号」の模型と、万次郎が河田小龍に送った「ABCの掛け軸」(複製)になります。展示していないものでは、「漂流記」・「北亜墨利加漂流記」があります。
また以前『ジョン万・小龍・そして龍馬』という3人を取り上げた企画展を行いました。

龍馬と慎太郎の墓にある「藤吉之墓」について

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京都の龍馬と慎太郎の墓と同じ敷地内に藤吉之墓と書いた墓がありますが、これは誰の墓でしょうか。向かって一番左にありました。
「藤吉之墓」ですが、藤吉(とうきち)とは、龍馬が暗殺された近江屋で龍馬たちの用心棒とお手伝いをしていた雇い人(下僕)で、もと相撲をとっていた人だそうです。刺客が来た時、出された名刺をもって龍馬たちの部屋(2階)へ上がろうとして背中から斬られ死んでしまいました。龍馬の仲間たちが気の毒に思い一緒のお墓に葬ったそうです。

坂本家の子孫について

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坂本家の子孫は現在生きているんですか?
とてもご兄弟が多く、現在北海道に3家族、東京にも3家族くらい居られ、神戸にも1家族居られます。神戸の土居晴夫さんは、坂本家一族の本などを書いておられそれぞれ一家ご繁栄です。
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