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龍馬のお葬式の時お龍は

カテゴリ:ゆかりの人物について
坂本龍馬のお葬式でお龍はなにをしましたか?
お龍は龍馬が暗殺された時、下関の伊藤助太夫邸に預けられていましたので、お葬式には出席しておりません。

お龍の再婚時期について

カテゴリ:ゆかりの人物について
おりょうさんが、松兵衛と再婚したのは明治18年とたいていの本には書かれていますが、『坂本竜馬全集』の「阪本竜馬の未亡人」を読むと、どうしても竜馬が死んだ直後に再婚したとしか思えません。どちらが本当なのでしょうか。西村松兵衛にとても興味があります。何を調べれば、彼のことがわかりますか?教えてください。
まず、お龍の再婚時期についてですが、確かに明治18年となっている本が多いのですが、実際には明治8年に入籍したようです。原本を確認したわけではないのですが、戸籍が資料として紹介されているようですので、かなり信頼できると思います。しかし、入籍が明治8年というだけですので、それ以前から結婚していた可能性はあります。龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚平衛宅などを転々としていましたので、龍馬の死の直後に再婚したということはありません。
次に、松兵衛についてですが、申し訳ありませんが、当館ではほとんどわかりません。松平衛のご子孫の方がいらっしゃるか分かりませんが、そういう方々に直接お聞きする以外方法はないのではないかと思います。また、横須賀市に信楽寺(しんぎょうじ)というお寺があり、そこの過去帳に少し記載があるようですので、ご住職にお尋ねになられたらよいと思います。信楽寺につきましては、当館のホームページからリンクを貼ってある「よこすか龍馬会」のホームページで紹介されています。

龍馬とお龍の新婚旅行

カテゴリ:ゆかりの地について
慶応2年のお龍との新婚旅行でどこを回ったか、詳しいコースがあればお教えください。

坂本龍馬手帖摘要(『坂本龍馬の手紙』宮地佐一郎著、P.532掲載。龍馬のメモのようなもの)によれば、以下のようになります。
 ※現代文に直しています

慶応2年
2月29日 夜、伏見邸(伏見の薩摩藩邸)ニ下り乗船。
3月朔日(1日) 大坂。
   4日 三邦丸に乗船。
   5日 朝、出帆。
   6日 夕、下関に泊まる。
   8日 長崎に至る。
  10日 鹿児府(鹿児島)に至る。
  16日 大隅霧島山の方、温泉に行き、鹿児島の東北7里(28km)ばかりのところ、浜の市に至る。但し舟で行く。日当山(ひなたやま)に至る。
  17日 塩浸(しおひたし)温泉に至る。
  28日 霧島山へ出発。霧島温泉所で泊まる。
  29日 霧島山山上に登る。そのあと霧島神宮で泊まる。
  30日 霧島温泉所に帰る。
4月    塩浸(しおひたし)温泉に帰る。
4月 8日 日当山に帰る。
  11日 浜の市に帰る。
  12日 浜の市から舟にのり鹿児島へ帰る。
  14日 改正所(藩の事務所か?)に至る。
5月 1日 桜島丸(さくらじままる)鹿児島に来る。
6月 1日 桜島丸に乗る。このあとは長崎でお龍を下ろし下関へ。(高杉を応援するため)
  17日 関門海峡へ着き、海戦を行う。

脱藩の道四国内の距離は

カテゴリ:ゆかりの地について
脱藩の道は今でも歩ける道なんですか?そして、四国内での距離はどのくらいあるのでしょうか?
脱藩の道は、四国内は伊予長浜まで約170キロメートルといわれています。今でも、歩いて越える道はかなり残っていますので、そこを整備してその町や村が、「脱藩の道を歩こう」といって、催しをやっています。(大体20キロ~10キロくらいにして、あとは車です)新人物往来社から出ている『共同研究・坂本龍馬』という本に、坂本美津子さんという人が地図を入れ、交通機関や役場のことなどを書いてまとめています。催しなどは、関連の役場である、愛媛県河辺村、高知県・梼原(ゆすはら)町などが詳しいです。最近は、愛媛県長浜町も脱藩の港で町おこしを頑張っています。

脱藩の道新説と旧説

カテゴリ:ゆかりの地について

龍馬の生き方にあこがれ、脱藩の道を自分の足で歩いてみたくなりました。概略を書いた本は読みましたが、詳しい道がわかりません。国土地理院等の地図に記してある書籍、資料はありませんか?また、経路には新説・旧説あるとのことですので、そのことも地図上でわかる資料はありませんか?道しるべも整備されているようですがどの程度でしょうか。舗装された道を歩いても面白くないので、往還(と言うのでしょうか)、昔の道を歩いてみたいと思っています。

新人物往来社『共同研究・坂本龍馬』(1997年9月発行)の中にその道筋のわかる説明が載っています。地図は勿論あり、宿泊施設、バスの便、道中での問合せ先など書いてあり、おすすめです。ルートについての意見は色々ありますが、新旧それぞれについて、新人物往来社から新ルート『坂本龍馬脱藩の道を探る』(村上恒夫著)、旧ルート『写真集 龍馬脱藩物語』(前田秀徳著)がありますので、ご参考になさって下さい。尚、脱藩の道は殆どが土の道で、それぞれの市町村が標識をたてています。

脱藩の時白石正一郎宅に寄ったか

カテゴリ:ゆかりの地について
文久2年、龍馬脱藩のときのことですが、4月1日に下関の豪商白石正一郎宅に着いたと、多数の書籍にあります。中には、そのむね白石正一郎日記に書いてあると、明記している書物もあるのですが、下関市編集の正一郎日記には、まったくそんな記述はありません。いったい、どのような資料をもとにいわれていることなのでしょうか。お教えください。
文久2年4月1日、龍馬が白石正一郎邸に到着したという資料は、『坂本龍馬関係文書』二巻(日本史籍会叢書)に出ております。しかし、『白石正一郎日記』には記載されておりません。『坂本龍馬関係文書』と『白石正一郎日記』の資料価値を比較してみますと、『坂本龍馬関係文書』に記載されているものは、坂崎紫瀾(1853~1913)が龍馬の行動を編年体にまとめた「坂本龍馬海援隊始末」がもとになっております。坂崎は『維新土佐勤王史』をまとめた人物でもありますが、資料が無くてわからない所は、想像で補うという事をよく行います。(坂崎に限らず、当時では比較的よくある事のようです。)そういう坂崎の癖から考えても、あまり全面的には信用できない資料だと思います。それに引き換え、『白石正一郎日記』は志士との交友が詳細に記載されており、非常に資料価値の高いものです。それに記載が無いとなると、文久2年4月1日の件は疑問を抱かざるをえません。しかし、坂崎の書いた「坂本龍馬海援隊始末」以外、龍馬の行動がわかるものが無いため、多くの書籍にはそれが引用されているのだと思います。

龍馬の墓と桂浜の龍馬像について

カテゴリ:ゆかりの地について
坂本龍馬のお墓は、現在、どこにありますか?坂本龍馬の銅像も、現在、どこにありますか?教えて下さい。
龍馬のお墓は、京都市東山区清閑寺霊山町、京都霊山護国神社にあります。
坂本龍馬の銅像は、高知市桂浜龍頭岬上に、太平洋に向かって建っています。昭和3年5月27日完成除幕。製作者は本山白雲。高知市宿毛市出身。建設者は、「高知県青年」となっており募金活動の主役は、入交好保さんら4人の大学生でした。銅像の高さ5メートル30センチ、台座を含めた総高は13メートル40センチ。総工費約2万5000円(現在にして7千500万~8千万円)です。

龍馬記念館の外観デザイン

カテゴリ:記念館について

龍馬記念館ですが、なぜ昔の面影を呼び起こすと言うのではなく、あのような斬新なデザインになっているのですか?

太平洋が200度の視界に入る伸びやかな場所には、将来と海へ向かって雄飛する形、斬新なモニュメント的な形がふさわしいとおもいます。また限りなく空と海を目指す高床式になっています。龍馬は、船中八策を読んでみるとおわかりのように、それを書いた19世紀(1867年)に、今の内閣が取り組んでいる、議会・人材の登用・平等条約・為替レート・国防などについてずばり書いていますので、感覚的には21世紀に通用するものを持っています。それを象徴すると斬新なデザインがふさわしいと云えます。 (500人の中から選ばれた公募デザインです。)

館所蔵品について

カテゴリ:記念館について

常設展示品のページを見ましたが、複製品が多いのですが、実際、龍馬が持っていた、使っていた、着ていた、手紙など、複製ではない、ホンモノはどういったものが何点くらい展示してあるんですか?

当館は龍馬直筆の手紙を、寄託・長期借用資料も含めて次の4点を所蔵しています。
姉・乙女、姪・春猪宛て、文久3(1863)年秋頃『天誅組の敗北を嘆く手紙』
姉・乙女宛て、慶応3(1867)年4月7日、通称『海援隊隊長就任直後の手紙』、
兄・権平宛て、慶応3(1867)年6月24日、『吉行のお礼といろは丸事件の手紙』
陸奥宗光宛て、慶応3(1867)年11月13日、通称『暗殺二日前の手紙』 です。
その他、海援隊約規の真物や複製や写真などで手紙は28点所蔵しており、これらを多少の入れ替えを行いながら展示しています。
地下2階では現在63点の資料や写真、パネル類などを展示していますが、中心は龍馬の手紙であり、直筆・複製取り混ぜて、常時18点前後を展示しています。龍馬の手紙は、古文書を読めない一般の方々にも"ご覧いただく"だけでなく、"お読みいただく"ための展示を心掛けているため、手紙の下に、読み下し文、現代語訳、時代背景や内容の解説というように、4段構成で展示を行っています。
直筆の手紙は内容が重要なものばかりなので、常時展示を行いたいところではありますが、保存を考えるとそれは不可能なので、すべて複製を作り、通常は複製を展示するようにしています。
龍馬直筆の書簡は、毎年11月15日前後の1ヶ月と、気候が良く、来館者の多いゴールデンウィーク前後の1ヶ月に限って展示していきたいと考えておりますので、ご理解いただければ幸いです。
龍馬の手紙は現在139点確認されていますが、その中には、今では所在が確認できない物が多数あります。所在が確認できる物も分散して所蔵されており、最もまとまって所蔵している所でも8~9点が最高です。しかもそれらは、京都国立博物館や宮内庁書陵部のように常設展示をしない所であったり、個人の方の所蔵であります。
京都国立博物館の手紙は、5mの手紙以外はすべて複製させていただいており、当館で見ることが可能ですが、各地に分散している龍馬の手紙は、特別展でもない限り、まとめて一ヶ所で見ることは不可能です。常設展示している所でも多くて5点以下です。それを考えると、複製とは言え、常時18点前後の手紙を見られる当館は、一応意義を果たしているのではないかと自負しております。
龍馬は非常に人気の高い人物で、所蔵者が資料を手放すことは考えにくいため、今後も複製による資料充実を中心に考えています。それと同時に、未発見の資料や再発見の資料の調査も進めております。
龍馬の直筆の手紙は4点ですが、この他当館には、万国公法や海援隊の英語辞書的な和英通韻伊呂波便覧、いろは丸事件始末、才谷屋の年譜書などの龍馬関係資料を所蔵しています。
なお、紋付や血痕のある屏風、掛軸、三徳、吉行の刀などの本物は京都国立博物館に所蔵されています。ピストルの本物は現存しておりません。

記念館掲載の雑誌と設計者

カテゴリ:記念館について
坂本龍馬記念館が掲載されている雑誌情報は?誰が設計を計画したのか?
古い雑誌になりますが、当館が掲載されている建築雑誌は、以下の3冊になります。当館の図書閲覧コーナーでもご覧いただけます。
 ・建築文化 No.543 92年1月号
 ・新建築 67号 92年1月号
 ・Ja 6月号 92年2月号
設計は公開競技で行われ、応募総数475点の中から、最優秀賞に高橋晶子氏(当時30歳・横浜市在住)の作品が選ばれました。
平成4年3月、都市美デザイン賞特賞受賞(高知市文化振興事業団より)。平成5年8月、アーキテクチュアオブ・ザ・イヤー選定(丹下健三氏による)。
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