龍馬のお葬式の時お龍は |
カテゴリ:ゆかりの人物について |
坂本龍馬のお葬式でお龍はなにをしましたか? |
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お龍は龍馬が暗殺された時、下関の伊藤助太夫邸に預けられていましたので、お葬式には出席しておりません。 |
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お龍の再婚時期について |
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おりょうさんが、松兵衛と再婚したのは明治18年とたいていの本には書かれていますが、『坂本竜馬全集』の「阪本竜馬の未亡人」を読むと、どうしても竜馬が死んだ直後に再婚したとしか思えません。どちらが本当なのでしょうか。西村松兵衛にとても興味があります。何を調べれば、彼のことがわかりますか?教えてください。 |
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まず、お龍の再婚時期についてですが、確かに明治18年となっている本が多いのですが、実際には明治8年に入籍したようです。原本を確認したわけではないのですが、戸籍が資料として紹介されているようですので、かなり信頼できると思います。しかし、入籍が明治8年というだけですので、それ以前から結婚していた可能性はあります。龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚平衛宅などを転々としていましたので、龍馬の死の直後に再婚したということはありません。 次に、松兵衛についてですが、申し訳ありませんが、当館ではほとんどわかりません。松平衛のご子孫の方がいらっしゃるか分かりませんが、そういう方々に直接お聞きする以外方法はないのではないかと思います。また、横須賀市に信楽寺(しんぎょうじ)というお寺があり、そこの過去帳に少し記載があるようですので、ご住職にお尋ねになられたらよいと思います。信楽寺につきましては、当館のホームページからリンクを貼ってある「よこすか龍馬会」のホームページで紹介されています。 |
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龍馬とお龍の新婚旅行 |
カテゴリ:ゆかりの地について |
慶応2年のお龍との新婚旅行でどこを回ったか、詳しいコースがあればお教えください。 |
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坂本龍馬手帖摘要(『坂本龍馬の手紙』宮地佐一郎著、P.532掲載。龍馬のメモのようなもの)によれば、以下のようになります。 慶応2年 |
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脱藩の道四国内の距離は |
カテゴリ:ゆかりの地について |
脱藩の道は今でも歩ける道なんですか?そして、四国内での距離はどのくらいあるのでしょうか? |
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脱藩の道は、四国内は伊予長浜まで約170キロメートルといわれています。今でも、歩いて越える道はかなり残っていますので、そこを整備してその町や村が、「脱藩の道を歩こう」といって、催しをやっています。(大体20キロ~10キロくらいにして、あとは車です)新人物往来社から出ている『共同研究・坂本龍馬』という本に、坂本美津子さんという人が地図を入れ、交通機関や役場のことなどを書いてまとめています。催しなどは、関連の役場である、愛媛県河辺村、高知県・梼原(ゆすはら)町などが詳しいです。最近は、愛媛県長浜町も脱藩の港で町おこしを頑張っています。 |
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脱藩の道新説と旧説 |
カテゴリ:ゆかりの地について |
龍馬の生き方にあこがれ、脱藩の道を自分の足で歩いてみたくなりました。概略を書いた本は読みましたが、詳しい道がわかりません。国土地理院等の地図に記してある書籍、資料はありませんか?また、経路には新説・旧説あるとのことですので、そのことも地図上でわかる資料はありませんか?道しるべも整備されているようですがどの程度でしょうか。舗装された道を歩いても面白くないので、往還(と言うのでしょうか)、昔の道を歩いてみたいと思っています。 |
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新人物往来社『共同研究・坂本龍馬』(1997年9月発行)の中にその道筋のわかる説明が載っています。地図は勿論あり、宿泊施設、バスの便、道中での問合せ先など書いてあり、おすすめです。ルートについての意見は色々ありますが、新旧それぞれについて、新人物往来社から新ルート『坂本龍馬脱藩の道を探る』(村上恒夫著)、旧ルート『写真集 龍馬脱藩物語』(前田秀徳著)がありますので、ご参考になさって下さい。尚、脱藩の道は殆どが土の道で、それぞれの市町村が標識をたてています。 |
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脱藩の時白石正一郎宅に寄ったか |
カテゴリ:ゆかりの地について |
文久2年、龍馬脱藩のときのことですが、4月1日に下関の豪商白石正一郎宅に着いたと、多数の書籍にあります。中には、そのむね白石正一郎日記に書いてあると、明記している書物もあるのですが、下関市編集の正一郎日記には、まったくそんな記述はありません。いったい、どのような資料をもとにいわれていることなのでしょうか。お教えください。 |
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文久2年4月1日、龍馬が白石正一郎邸に到着したという資料は、『坂本龍馬関係文書』二巻(日本史籍会叢書)に出ております。しかし、『白石正一郎日記』には記載されておりません。『坂本龍馬関係文書』と『白石正一郎日記』の資料価値を比較してみますと、『坂本龍馬関係文書』に記載されているものは、坂崎紫瀾(1853~1913)が龍馬の行動を編年体にまとめた「坂本龍馬海援隊始末」がもとになっております。坂崎は『維新土佐勤王史』をまとめた人物でもありますが、資料が無くてわからない所は、想像で補うという事をよく行います。(坂崎に限らず、当時では比較的よくある事のようです。)そういう坂崎の癖から考えても、あまり全面的には信用できない資料だと思います。それに引き換え、『白石正一郎日記』は志士との交友が詳細に記載されており、非常に資料価値の高いものです。それに記載が無いとなると、文久2年4月1日の件は疑問を抱かざるをえません。しかし、坂崎の書いた「坂本龍馬海援隊始末」以外、龍馬の行動がわかるものが無いため、多くの書籍にはそれが引用されているのだと思います。 |
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龍馬の墓と桂浜の龍馬像について |
カテゴリ:ゆかりの地について |
坂本龍馬のお墓は、現在、どこにありますか?坂本龍馬の銅像も、現在、どこにありますか?教えて下さい。 |
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龍馬のお墓は、京都市東山区清閑寺霊山町、京都霊山護国神社にあります。 坂本龍馬の銅像は、高知市桂浜龍頭岬上に、太平洋に向かって建っています。昭和3年5月27日完成除幕。製作者は本山白雲。高知市宿毛市出身。建設者は、「高知県青年」となっており募金活動の主役は、入交好保さんら4人の大学生でした。銅像の高さ5メートル30センチ、台座を含めた総高は13メートル40センチ。総工費約2万5000円(現在にして7千500万~8千万円)です。 |
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龍馬記念館の外観デザイン |
カテゴリ:記念館について |
龍馬記念館ですが、なぜ昔の面影を呼び起こすと言うのではなく、あのような斬新なデザインになっているのですか? |
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太平洋が200度の視界に入る伸びやかな場所には、将来と海へ向かって雄飛する形、斬新なモニュメント的な形がふさわしいとおもいます。また限りなく空と海を目指す高床式になっています。龍馬は、船中八策を読んでみるとおわかりのように、それを書いた19世紀(1867年)に、今の内閣が取り組んでいる、議会・人材の登用・平等条約・為替レート・国防などについてずばり書いていますので、感覚的には21世紀に通用するものを持っています。それを象徴すると斬新なデザインがふさわしいと云えます。 (500人の中から選ばれた公募デザインです。) |
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館所蔵品について |
カテゴリ:記念館について |
常設展示品のページを見ましたが、複製品が多いのですが、実際、龍馬が持っていた、使っていた、着ていた、手紙など、複製ではない、ホンモノはどういったものが何点くらい展示してあるんですか? |
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当館は龍馬直筆の手紙を、寄託・長期借用資料も含めて次の4点を所蔵しています。 |
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記念館掲載の雑誌と設計者 |
カテゴリ:記念館について |
坂本龍馬記念館が掲載されている雑誌情報は?誰が設計を計画したのか? |
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古い雑誌になりますが、当館が掲載されている建築雑誌は、以下の3冊になります。当館の図書閲覧コーナーでもご覧いただけます。 ・建築文化 No.543 92年1月号 ・新建築 67号 92年1月号 ・Ja 6月号 92年2月号 設計は公開競技で行われ、応募総数475点の中から、最優秀賞に高橋晶子氏(当時30歳・横浜市在住)の作品が選ばれました。 平成4年3月、都市美デザイン賞特賞受賞(高知市文化振興事業団より)。平成5年8月、アーキテクチュアオブ・ザ・イヤー選定(丹下健三氏による)。 |
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