龍馬とお龍の新婚旅行について

カテゴリ:龍馬について
龍馬とお龍の日本初の新婚旅行について教えて下さい。場所と其処を選んだ理由、その地から乙女姉さんに宛てた手紙の内容を教えて欲しいです。また、乙女へ宛てた手紙にある、「きり島の社」は「霧島神宮」ですか?また、「宮もものふり極とふとかりし」の訳と意味を教えて下さい。また、この旅の内容や関係するお話があれば教えて下さい。
【龍馬とお龍の日本初の新婚旅行の場所】鹿児島県恰良郡牧園町の霧島山のふもと周辺を中心とした鹿児島
【場所の理由】薩摩の西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待しました。このあたりは西郷や小松もよく利用していた所です。
【乙女宛ての手紙】
○お龍のおかげで自分の命が助かったこと
○お龍自身のこと(楢崎将作の娘、いま自分の妻、今年26才など)
○薩摩旅行のあらまし
 ・日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉に行ったこと
 ・犬飼の滝の見事さ。塩浸で10日ばかりも泊まり、釣りをしたり、ピストルで鳥を撃って面白かったこと
 ・霧島山に登ったこと(絵入りで紹介)
【霧島神宮について】きり島の社は霧島神宮です。
【宮もものふり】=長い歴史を感じさせるお宮
【極とふとかりし】=大変立派な雰囲気があった
この旅行は慶応2年3月大阪から船で鹿児島へ行き5月末まで、ゆっくりと滞在しますが、帰り際には刀を作らせたり久しぶりに旅行を楽しみました。何日に何をしたかは、「龍馬手帖摘要」という文書に日記風に書かれてあります。

龍馬直柔とは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の名前の下に直柔とありますが、この直柔とは何ですか?
また、女の子にも直柔のように名前の下にまた名前を付けるとういう風習があったのですか?もしあれば乙女姉さんやお龍さん達の下の名前が知りたいと思います。
この風習がいつまで続いたのか分かれば教えて下さい。

普通、武士と呼ばれる人達は2~3の名前を持っていました。
 (1)子供の頃から普段呼ばれている名 『幼名、通称』=「龍馬」
 (2)正式な手紙などの署名に使用する名 『実名、諱』=「直柔」
 (3)絵や詩を書いた時などに使用する名 『号』=「自然堂」
 (4)追われる身の為、隠れみのとする名 『変名』=「才谷梅太郎」等
「直柔」(なおなり)とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの『諱』(=【いみな】その人の生涯の幸福を祈って好い音義の字を選んで用いたようです)をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。
最初は「直陰」(なおかげ)と名付けたようで、慶応元年12月頃(龍馬31才頃)までは、この「直陰」を使っていたようです。「直柔」に変わるのはそれ以後のことと思われますが、いつ変えたのかは資料として残っていないので、はっきりとは分かりません。
龍馬の手紙は、現在139通が確認されていますが、「直柔」という署名を使った手紙は慶応2年10月5日が最初のようです。諱を署名した手紙は、「直陰」=4通、「直柔」=9通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。
なお、坂本家の6代目以降の男子は皆、「直」の字が付けられています。【9代目=龍馬の父は「直足」、10代目=龍馬の兄は「直方」】
『諱』を付けることは一部の武家、公家の慣習です。女子に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。
武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

お龍との出会いと龍馬没後のお龍

カテゴリ:龍馬について

龍馬とお龍が出会ったのは、2人が何歳のときですか。また、龍馬が亡くなった後、お龍は龍馬からの手紙などを燃やしたと本に書いていたのですが、それはなぜですか。

龍馬がお龍と知り合ったのは、文久2年(1862)7月お龍の父親が、勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、獄中で病死した後になります。お龍の母が志士たちの隠れ家だった方広寺へ、食事などの世話をするために通っており、文久3年(1863)(龍馬28歳、お龍23歳)にそこで龍馬とお龍は出会ったと考えられます。お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとありますが、龍馬の手紙でお龍のことを妻と明記するのは慶応2年(1866)12月4日の手紙からです。慶応元年(1865)9月9日の姉乙女へ宛てた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、詩の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2年(1866)1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人達に取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げる事が出来ました。龍馬は、命の恩人となったお龍とこの事件の後結婚したようです(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周り中知らない人で、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、芸西村(高知から東へ車で45分位の所)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄った後、土佐から離れました。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて過去を清算したかったのでしょう。

海外へ行きたかった龍馬

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬はアメリカ行ったことがありますか?
龍馬はアメリカは勿論、一度も海外へは行ったことがありません。
しかし、先日60年ぶりに発見された川原塚茂太郎宛書簡には、海外にたいする思いが次のように語られています。
「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、 これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」
この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしているのです。
このように、龍馬は海外へ行きたいという夢は抱いておりましたが、残念ながらその夢がかなうことはなかったようです。

龍馬は人を斬った事があるか

カテゴリ:龍馬について

龍馬は人を切ったか?

龍馬が人を切ったという記録は、海援隊士・関義臣の回顧録に出てきます。他人の妻と関係を持った水夫を斬ったというものです。また、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦をし、奉行所の役人を撃っています。刀は、脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった・・・」と龍馬が兄の権平宛に手紙(慶応2年12月4日)を書いています。

龍馬の所持品について

カテゴリ:龍馬について

龍馬は靴や最新式の拳銃を所持していたといいますが、どのようにして彼の手に渡ったのでしょうか。また、拳銃の使い方は、外国人から教わったのですか、それとも書物で読んだのか、日本にあった鉄砲と同じような使い方だったのでしょうか。

龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴につきましては、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。拳銃につきましては、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡[1866年(慶応2年)2月6日]の中で、「かの高杉より送られ候ビストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の1865年(慶応元年)に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。」[1866年(慶応2年)12月4日]と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。
龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘董斎について砲術を習っていますので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867年(慶応3年)6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。

「おやべ」は春猪

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬の手紙で「おやべ」に宛てたものがありますが、それは乳母の事だと説明するものもあれば春猪だというものもあります。どちらが正しいのですか?

春猪=おやべ、が正解です。
〇おやべは、元治元年(1864)、龍馬が30歳の時に子供ができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元年(1865)9月7日には、「最早、風が寒くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、おやべ=乳母はありえません。
〇使用人だとすると西の部屋の縁側で日なたぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな甘やかされた使用人はいないはずですから、おやべは使用人でも乳母でもないです。
〇アバタがあって、おしろいをぬれと龍馬によく言われます。これは「春猪」の所でも出てくるので同一人です。

吉井幸輔について

カテゴリ:ゆかりの人物について
「慶応2年12月4日乙女宛」の龍馬の書簡の中に出てくる、「吉井幸助」は龍馬とどんな関わりがあったのか、どうして霧島温泉で待っていたのかを教えて下さい。
吉井幸輔は、龍馬より7歳年上の薩摩藩士です。高知県にも来て住んだことのある歌人、吉井勇(1886~1960)のおじいさんで、龍馬のことをいつも気にかけてくれる人です。1866(慶応2)年1月23日、薩長同盟を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、指を斬られた龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱していますし、お龍さんを連れた旅行でも、吉井は案内役をつとめました。霧島温泉で待っていたのは、山に登るのが大変だったのと、山の道は一本道で迷うこともなく、仲の良い龍馬とお龍を2人だけにしてあげようと思ったからでしょう。山から下りてきた龍馬達を、また案内するためでもあります。

岡上樹庵について

カテゴリ:ゆかりの人物について
乙女の嫁ぎ相手である岡上樹庵についてお聞きしたいのですが、藩公(山内容堂)の御付医者だったというのは本当でしょうか?また、他の医者との交流はあったのでしょうか?生まれた年、亡くなった年は何年でしょうか?
岡上樹庵は150cm以下の小柄な人で、かんしゃくもちだったなどと言われています。天保10年(1839)岡上家に養子に入っています。最初の奥さんは亡くなり、安政3~4年頃(1856~57)その後妻として乙女さんが入ったようです。果たして夫婦仲が良かったかというと、1863(文久3年)6月29日乙女に宛てた龍馬の手紙の中に、「先日下さった手紙に、坊主になって山の奥へでも入りたいと言っていますが・・・」と書いてあり、この頃からあまり良くいってなかったようです。龍馬の手紙にも樹庵の事は全く出てきませんが、更に1867(慶応3)年6月24日の乙女宛の手紙で龍馬は「元気になったら京都へ出て来たいといっているが、龍馬の姉が不自由になったから出て来たと言われると、天下の人に対してはずかしい・・・」と言って一生懸命に止めています。これも樹庵と仲が良ければその必要もないはずです。元治2年乙女は岡上家から坂本家へ帰ったという説もあります。
さて、肝心の樹庵ですが、岡上家が代々藩公の御付の医者(待医)をつとめているので、樹庵もそれを受け継いでいると思います。その他の医者と交流があったかどうかについてはわかりません。
岡上樹庵 安政11(1828)年~明治4(1871)年

龍馬とお龍の出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬とお龍が出会ったのは?

龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。苦しい生活を助けるため元治元年(1846)8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となりました。
この頃から、龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。慶応元年(1865)9月9日の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えています。
この頃龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成します。そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができました。龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いています。
龍馬はけがが治ったあと慶応2年2月お龍と結婚しました(結婚は元治元年の説もある)。3月薩摩の西郷さんたちの招きで龍馬はお龍を連れ日本初といわれる新婚旅行にでました。霧島山のふもとの温泉で傷の保養をし山にものぼり、約1ヶ月間ゆっくりとすごしました。
 (参考になる本) 「坂本龍馬の妻 お龍」(新人物往来社・鈴木かほる 著)

千葉佐那について

カテゴリ:ゆかりの人物について
坂本龍馬を愛し続け自分の墓に「坂本龍馬室」と記した彼女について知りたいのですが彼女の情報はとても少なく調べるのにとても苦労しています。是非彼女について教えてください。
龍馬は19才の時に江戸へ剣術修行に出ます。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉定吉(さだきち)の千葉道場に入門。龍馬はその千葉家の長女「佐那(さな)」(天保9年~明治29年10月15日)に恋心をもち、乙女姉さんへの手紙にも佐那のことを書いています。
『この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(奉公人と思われる)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴も弾き、絵も上手、それに、静かな人です。』と紹介しています。(文化3年8月14日)文久3年頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったことで、佐那の龍馬への想いが届かなかったのでしょうか、縁が切れてしまいました。それでも佐那は独身を通し、『私は龍馬と婚約していた・・・』と、話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と、一生龍馬を慕って淋しく他界した佐那の墓石(自然石)の裏には、「坂本龍馬室(夫人の意味)」と刻んであります。甲府市朝日5丁目(JR甲府駅から徒歩15分)の、「日蓮宗清運寺」にある墓は、もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家、小田切謙明の夫人の豊次(とよじ)が、無縁仏にならないようにと、自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。
 ※小説で、阿井景子著者 『龍馬のもう一人の妻』(文春文庫)があります。ご覧になってみてください。

千葉佐那さんは、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、1838年(天保9年)に生まれ、1896年(明治29年)に没しました。龍馬より3歳年下になります。兄弟は他に、兄が一人、妹が二人おりました。龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、そこには、千葉佐那女と署名されています。
龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っており、婚約していたことも語られています。1858年か1859年(佐那が21・22歳)に千葉家から結納として短刀一振り、龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。しかし、この年代では少し早すぎるので、実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。
龍馬の手紙では、1863年(文久3年)に佐那さんを乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、"乙女"という名前だったそうです。
「今年26才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力はなみなみの男子より強く、例えて言えば、昔家にいた"ぎん"という女と同じくらい力がある。顔かたちは平井(加尾)より少し良い。さらに、13弦の琴を上手に弾き、14才の時には皆伝していた。そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。その上、静かで、余計なことを言わない人。まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、美人だったと言われており、龍馬も好意を抱いていたようですが、それよりも美人だと紹介しています。"今の平井、平井"とは、「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。
以上のように、すばらしい女性だったようです。それにしてもよほど好きだったのか、誉めすぎくらい誉めていますね。開放的な龍馬らしい手紙で、乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。