薩長同盟・龍馬が日本に与えた影響・郷士の権利について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は何故当時無理だと思われていた、薩長同盟を結ぶことができたと思いますか。龍馬でなくてもできたと思いますか。また、龍馬が日本に最も与えた影響は何だったと思いますか。あと、郷士の権利についても教えて下さい。

『薩長同盟について』
「いま何をすべきか。各藩の体面ばかり考え、国全体の事を考える事を忘れてはいけない。幕府を倒し新しい国(近代国家)にするためには、リードする大きな藩が対立していてはいけない。何が目的かを考えよう。」というような事で、薩摩の西郷と小松(家老)を、龍馬が徹底的に説得しました。(このことは、木戸孝允が龍馬へ書いた、1866年(慶応2年)1月23日付けのお礼状に書いてあります。)気長く自分の考え方を話してわかってもらったのがよかったでしょう。龍馬でなくても出来たかも知れませんが、龍馬は「この国を『日本』にしなければいかん」という事を、ずっと考えつづけていたので、説得力があったのでしょう。

『日本に与えた影響について』
龍馬が日本に与えた事は、「武力討幕」を避けるため、薩長同盟をバックにしながら、まず将軍が幕府を終わりにする事を決め、国内での戦いを避け、平和なうちに新しい国を誕生させるための、船中八策を示した事でしょう。

『郷士の権利について』
郷士坂本家は、本家の才谷屋坂本家から分家したもので、才谷屋三代目直益(八郎兵衛直益・ハチロベイナオマス)の時、郷士の株(権利)を買い求め、次の代の八郎兵衛直海(ハチロベイナオミ)に与え、分家させたという事です。「買い求めた・・・」という内容は、護受け郷士(誰かの権利をゆずりうける)か、郷士の募集に応じた(新規郷士)かは、よくわかっていません。
 ※『南国遺事』にある一文・・・財産を分かちて郷士職を購い。

龍馬の愛刀「吉行」

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の愛刀「吉行」について詳しく知りたいと考えています。

「吉行」についてですが、刀剣の本などには載っていると思いますが、とりあえず高知県人名事典(高知新聞社 平成12年発行)に載っているものからご紹介します。

吉行(1650~1710)刀工、通称、森下平助。吉国の弟として慶応3年、摂津国住吉に生まれた。成人ののち大阪の刀工・初代大和守吉道の門人となる。
やがて陸奥守の受領名をいただき「陸奥守吉行」または「吉行」の二次銘を切った。元禄年間土佐に招かれて鍛治奉行となる。現在の高知市仁井田に田地を与えられて住み、現在のはりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で刀を鍛えた。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり、作は地鉄(ぢがね)細やかに匂い(におい)ありて上手なり」と評価されている。特に丁字刃の名人で直刃や涛欄刃などもあり、切れ味は土佐の刀では最も優れていた。龍馬は慶応2年12月、先祖のものを持って死に臨みたいと手紙を書いて、この刀を兄権平(ごんぺい)に頼んでゆずりうけることになった。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた。西郷隆盛にこの刀をことずけて、西郷は中岡慎太郎らに頼んで龍馬のもとに届けた。慶応3年3月頃からこの刀を大切にもって居たと見られ、龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛ての手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えている。

つねに持っていたこの刀は暗殺された時、床の間にあり龍馬はそれを取って応戦。さやをはらう間もなく相手の刀をうけたが、さやに食い込んだ。敵の刀の先が龍馬の額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えた。

龍馬ブームについて

カテゴリ:龍馬について
明治を迎えてから、大政奉還を成し遂げるにいたった中心的人物が龍馬さんであると、日本人が認識し始めたのはいつ頃だったのですか?また、維新後、一時は忘れられたといわれる龍馬さんの偉業に、多くの人が注目したのは、誰の、何によってなのでしょう?
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。

「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」

カテゴリ:その他について
龍馬の言葉の中で、「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」という言葉があるらしいのですが、そのような言葉をどういった背景で、どのような心情で語ったのか、お教え下さい。
この言葉は、『英将秘訣』の中の言葉ですので、龍馬の言葉ではありません。『英将秘訣』については、別の方への回答を参照してください。

龍馬直柔とは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の名前の下に直柔とありますが、この直柔とは何ですか?
また、女の子にも直柔のように名前の下にまた名前を付けるとういう風習があったのですか?もしあれば乙女姉さんやお龍さん達の下の名前が知りたいと思います。
この風習がいつまで続いたのか分かれば教えて下さい。

普通、武士と呼ばれる人達は2~3の名前を持っていました。
 (1)子供の頃から普段呼ばれている名 『幼名、通称』=「龍馬」
 (2)正式な手紙などの署名に使用する名 『実名、諱』=「直柔」
 (3)絵や詩を書いた時などに使用する名 『号』=「自然堂」
 (4)追われる身の為、隠れみのとする名 『変名』=「才谷梅太郎」等
「直柔」(なおなり)とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの『諱』(=【いみな】その人の生涯の幸福を祈って好い音義の字を選んで用いたようです)をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。
最初は「直陰」(なおかげ)と名付けたようで、慶応元年12月頃(龍馬31才頃)までは、この「直陰」を使っていたようです。「直柔」に変わるのはそれ以後のことと思われますが、いつ変えたのかは資料として残っていないので、はっきりとは分かりません。
龍馬の手紙は、現在139通が確認されていますが、「直柔」という署名を使った手紙は慶応2年10月5日が最初のようです。諱を署名した手紙は、「直陰」=4通、「直柔」=9通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。
なお、坂本家の6代目以降の男子は皆、「直」の字が付けられています。【9代目=龍馬の父は「直足」、10代目=龍馬の兄は「直方」】
『諱』を付けることは一部の武家、公家の慣習です。女子に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。
武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

近江屋襲撃時の龍馬の刀と鞘

カテゴリ:龍馬について

「お-い!竜馬」や、以前一度写真で見たんですけど、龍馬の刀は近江屋襲撃時に暗殺者の刀を刀で受け鞘が切れていたと思うんですけど、京都国立博物館で龍馬の刀を見たら鞘の部分は全然切れていなっかたのです。これはただ単に後に修理したっていうことですか?それとも京都国立博物館の龍馬の刀は重要文化財からはずされていたのでその辺にも何か関係があるのかと思います。

近江屋で襲われた時、鞘のまま敵の刀をうけとめたのは吉行の刀です。これは坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行きました。北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやっていました。その中に切り込まれた刀の鞘(龍馬写真集にも載っている)も展示され、死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストル、鞘から出した刀なども写真に写っていましたが、残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまいました。
国立京都博物館の鞘はのちにつくったもので、その鞘には大正2年の火災のことを書いてあります。刀は焼け跡から取り出されて、打ち直されたものを展示してあるはずですが、重要文化財指定から外れたということです。

明治維新に向けて出会った人達

カテゴリ:ゆかりの人物について
(1)龍馬はどのようにして幕府を倒し、どのような人々と会ってきたのか?協力してきたか?
(2)その人々とはどのような関係になっていったか?
(3)龍馬からみた明治の世の中は?

(1) 
龍馬はまず、力の有る薩摩藩と長州藩を結びつけることによって(薩長同盟)、幕府に対抗できる大きな勢力を作り上げました。そして、最新式の武器を長州藩に運びました。その際に、共に協力をしあった人は、薩摩藩では、西郷隆盛・小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩では、桂小五郎・高杉晋作などがいました。

(2)
高杉晋作は龍馬が暗殺される前に死んでしまいますが、他の人とは協力しあう関係は変わりません。

(3)
憲法の制定や、議会の開設など制度の面では、近代的な国家を目指して、着実に前進しつづけた明治政府ですので、龍馬も不満はないのではないかと思います。しかし、それらを行う政府の指導者は、いつまでたっても「藩閥政府」と呼ばれたように、薩摩藩と長州藩の出身者ばかりでした。「平等な世の中」を作りたかった龍馬としては、理想の世の中とはだいぶ違っていたのではないでしょうか。
また、明治時代は世界的に帝国主義(他の国に戦争を仕掛けて侵略していくこと)が流行し、日本もその流れに乗って、朝鮮や中国を侵略していきます。これは平和を愛した龍馬の考え方とはかけ離れたものですので、龍馬は、間違った方向へ進んで行く明治政府を苦々しい思いで見ると思います。

龍馬についての質問~中学生より~

カテゴリ:龍馬について
(1)坂本龍馬が、最も尊敬した人物は誰ですか。(私見で結構です。)
(2)現代に龍馬がいたとしたら、どんな生き方をしていると思いますか。(先生の考えで結構です。)
(3)海と船が好きなのは、外国にあこがれていたからですか。
(4)龍馬が行きたいと考えていた国はどこですか。
(5)龍馬はどんな性格でしたか。また、それは生育歴と関係していますか。
(6)どんな食事を好みましたか。
(7)記念館の先生は、龍馬のどんなところが好きですか
(8)龍馬のエピソードで先生が一番好きなものは何ですか。

【三浦学芸員回答】
(1)
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
 ◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
       ※本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
 ◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
  ・大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
  ・横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。

(2)
現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。

(3)
龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。

(4)
龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国などとは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。

(5)
龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

(6)
これは全く分りませんし、想像もできません。

(7)
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。

(8)
最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
 
【故・小椋前館長回答】(2)と(7)のみ
(2)
現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。

(7)
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ  :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)

坂本家と明智家

カテゴリ:龍馬について

私が以前見た本には坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔で本能寺の変ののち、土佐に逃れ光秀の居城の坂本城の地名坂本を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり坂本家の桔梗紋は明智に由来する書いてありました。これは本当のことでしょうか?(長野県 男性 34歳)

坂本家の御先祖様は明智家と何か繋がりがあるのでしょうか。当時の土佐は海路しか無く、そこまでして移住したのは何故でしょう。 (神奈川県 男性 60歳)               

そのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年~1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年~1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。

龍馬のまげ

カテゴリ:龍馬について

坂本龍馬のマゲは平べったいですよね?でも他の人々は普通のマゲのように見えます。やはり、身分やその藩によって色々あるのでしょうか?マゲの種類や、どう違うか教えて下さい。

普通武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を剃り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせてまげにします。龍馬は月代を作らず、髪全部を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐でまげをしているかどちらかで「総髪」(そうはつ)と言っています。龍馬は浪人という自由な身だったので、まげを自由にしていたのではないでしょうか。なお、まげは藩によっての流行の違いがあり、土佐藩では月代を細く剃るのが流行でした。また、身分でも違いがありました。

龍馬の本でお勧めは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の本当を知る、お勧めの本は?

龍馬研究の本は色々出版されており、私達でも迷うくらいですが、次の4冊をお勧めします。
 ・土居晴夫氏著 『坂本龍馬の系譜』 (新人物往来社)
 ・山田一郎氏著 『坂本龍馬 ― 隠された肖像 ― 』 (新潮社)
 ・平尾道雄氏著 『坂本龍馬のすべて』 (高知新聞社)
 ・新事物往来社編 『共同研究・坂本龍馬』 (新人物往来社)
さらに挙げるとすれば、
 ・池田敬正氏著   『坂本龍馬』(中公新書)
 ・平尾道雄氏著   『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)
 ・飛鳥井雅道氏著  『坂本龍馬』(福武書店)
以上の3冊になります。またこの他にも沢山良い研究書もございます。ぜひ色々な本をご覧になってみて下さい。

外国での龍馬の知名度と龍馬という名前の人は

カテゴリ:龍馬について

外国で龍馬はどれぐらい知られているか?また現在全国に龍馬という名前の人は何人位いますか?坂本龍馬が生きていた当時、龍馬という名前は一般的な名前だったのですか?それともやはり当時から龍馬という名前はめずらしかったのでしょうか?

外国では龍馬はあまり知られていないでしょう。1950年~60年代にアメリカの学者で中国や日本を研究したマリアス・B・ジャンセンさん(故人、元プリンストン大学教授)が「坂本龍馬と明治維新」という本を英文で出しています。(日本語訳は時事通信社)外国人としては世界ではじめて龍馬の研究をした人で、大変詳しい方です。日本にもよく来られ高知でも色々調べています。最近では、アメリカ人のロミュラス・ヒルズボロウさんが「Ryoma」という英文の小説を出しています。読みやすく・わかりやすい本で「龍馬を知らない外国人が多すぎる・・・」と言って悔しがっていたようです。
龍馬という名前ですが、これは、わかりかねます。「龍」は伝説の動物ですから当時でもこの字を使う名前は珍しかったのでは・・・
ちなみに、過去1年間に当館に入館されてメッセージを残してくれた方の中に「龍馬」・「竜馬」という名前の方が6人いらっしゃいました。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」

カテゴリ:龍馬について

もし龍馬が現在の日本に降り立ち、再び国のために奔走してくれるとしたらどのような手段をとるのでしょうか。日本は彼が生きていた頃とはずいぶん変わりました。そのなかで現代の龍馬は・・・。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」とは、龍馬ファンなら誰もが考える事だと思いますが、その答えは非常に難しく、皆違う答えになるのではないかと思います。龍馬の行動や思想から想像すると、やはり自由と平等、平和に向けて奔走すると思います。

龍馬とカツオのたたきとお酒

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の好物について調べています。土佐といえばカツオのたたきが有名ですが、龍馬も食べていたのでしょうか?確信の持てる資料が無いので教えていただきたいのですが。また龍馬が飲んでいたお酒の特徴などがわかったら嬉しいのですが・・・。
龍馬がカツオのたたきを食べたという資料はありませんが、土佐人ならば食べた可能性は高いと思います。龍馬が飲んでいたお酒も資料が残っていませんので、はっきりとは分かりません。しかし、坂本家の本家である才谷屋は、酒造業もしておりましたので、本家で造ったお酒を飲んでいた、と考えるのが妥当だと思います。当時から現在まで続いて造られているお酒は、佐川町の「司牡丹」があります。このお酒の名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものですが、佐川町出身の勤王家は沢山おり、龍馬とも繋がりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたるお酒を飲んだ可能性は有ります。ちなみに、坂本家本家の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。

中岡慎太郎の銅像と海援隊と陸援隊

カテゴリ:ゆかりの人物について
中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのか?また、それはなぜか。それと、海援隊・陸援隊の活動または役割について教えてください。
中岡慎太郎の像は南向きに立っています。よく桂浜の龍馬の銅像の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もしそうするには、かなり北西を向かなくてはなりませんが、そうすると銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、もっとふさわしい開けている方角になっているわけです。
海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり商売をしたりしていますが、いざという時は土佐藩を船で応援する役目をもっています。浪人ものでも外国へ行ってみたい人は入ってきてよい、と規則には書いてあります。
陸援隊は土佐藩に属する武力集団で幕府を倒すための戦いに参加する目的でつくられました。中岡慎太郎が隊長ですが、実践は行われませんでした。

龍馬記念館の外観デザイン

カテゴリ:記念館について

龍馬記念館ですが、なぜ昔の面影を呼び起こすと言うのではなく、あのような斬新なデザインになっているのですか?

太平洋が200度の視界に入る伸びやかな場所には、将来と海へ向かって雄飛する形、斬新なモニュメント的な形がふさわしいとおもいます。また限りなく空と海を目指す高床式になっています。龍馬は、船中八策を読んでみるとおわかりのように、それを書いた19世紀(1867年)に、今の内閣が取り組んでいる、議会・人材の登用・平等条約・為替レート・国防などについてずばり書いていますので、感覚的には21世紀に通用するものを持っています。それを象徴すると斬新なデザインがふさわしいと云えます。 (500人の中から選ばれた公募デザインです。)

卒業論文の資料「龍馬とイギリスの関係」

カテゴリ:その他について
卒業論文を書く上で、坂本龍馬とイギリス(グラバーなど)の関係というようなテーマで書きたいと思っているのですが、なかなか資料がありません。そういった資料があれば教えていただきたいのです。
龍馬とイギリスの関係を示す資料ですが、ご質問が漠然としていますので難しいですが、内容によっては結構あると思います。
グラバーについては調べたことがないので詳しくは分かりませんが、以前たまたま目にしたことがあるのは、『防長史談会雑誌』27号です。長州藩の木戸孝允が船の修理代を龍馬に借りようとしたことがありますが、龍馬も金が無く、龍馬がグラバーに相談したということだったと思います。このお金は、最終的には土佐藩の長崎出張所である土佐商会が貸しました。このことは、岩崎弥太郎の日記である『瓊浦日歴』にも出てくるのではないかと思いますが、龍馬と直接の繋がりは書かれていないかもしれません。しかし、間接的には繋がっているはずです。岩崎の日記なら、"土佐藩"とイギリスの関係が他にも出てくると思います。
同じく、"土佐藩"とイギリスという関係なら『池道之助日記』(『武市佐一郎全集』の中に収録)にも出てくるかもしれません。
あと、資料があるかどうか知らないのですが、近藤長次郎はグラバーの船でイギリスに密航しようとしていましたので、その頃の資料を探せば、亀山社中とグラバーの関係が書かれているかもしれません。
単にイギリスとの関係というならば、龍馬たちはイカルス号水夫殺害事件で大きく関わります。貿易関係ではないので、お探しの資料ではないかもしれませんが、この事件は土佐藩も巻き込んでいますので、資料は土佐藩側にも結構残っていると思います。『山内家史料 幕末維新』などです。あと『佐々木高行日記』や『保古飛呂以』など。それからアーネスト・サトウの書いたものにもこの事件は出ていると思います。
他には、『海援隊日史』や『海援隊商事秘記』はどうでしょう。たぶん直接イギリスを示す言葉は出てないかもしれませんが、イギリスと関係を持っている時期の海援隊の史料ですので、必要な史料かもしれません。これらの史料は『坂本龍馬全集』に載っています。
他には、龍馬たちはいろは丸事件というのも起こしていますが、この事件について、世界の事例を聞き、世界の常識でアドバイスをしてもらうため、長崎にいるイギリスの海軍提督に対面する手はずを整えていました。(慶応3年5月27日高柳楠之助宛て龍馬書簡)
このように色々ありますが、イギリスを扱うとなるとイギリス側の史料も見ないと片手落ちになりますので、なかなか難しいテーマですね。

HPなどで龍馬の写真を使用したい

カテゴリ:その他について

坂本龍馬関連のHPをつくりたいなと思っているのですがHPで龍馬の写真や手紙などを掲載したりするには、どちらに申請をすればよろしいのでしょうか?あと、自分たちで龍馬の名前やサインのはいったTシャツを作りたいっと思っているのですが自分たちで、このようなTシャツをつくっても問題はないのでしょうか?また、オリジナルTシャツやストラップを営利目的で製作する場合には、許可が必要ですが、もし、花押(サイン)や、自分たちでデザインした(習字などで書いた文字)「龍馬」という文字を使用する場合はどのような手順でどこに許可を取ったらよろしいのでしょうか?

龍馬の立ち姿の写真は高知県が版権を持っていて、使用目的によって、高知県立歴史民俗資料館や当館、高知県庁の許可が必要です。(その他の写真や手紙もそれぞれ所有者が版権を持っています。)ただ、営利目的ではないHPやTシャツなどを、個人的に楽しむものでしたら、特に許可も必要はないと思います。ただし、途中で販売するなどの行為がおきた場合は、許可申請が必要になります。また、その写真をとるもの(本やHPからでしょうか?)によって無断転載禁止とあれば、そこに連絡して確認を取って下さい。また、龍馬という文字を独自に作成して使用する場合は許可は必要ないです。龍馬の筆跡に似せた文字を作成してもコピーでなければ大丈夫です。龍馬の直筆の手紙からそのままコピーする時は、その手紙の所有者に確認するようになります。もし当館のHPから写真をコピーするようでしたら一度ご連絡下さい。
通常、どこかの会社や団体などが使用する場合は、使用の許可申請を行っていただき、内容を検討した上で使用を認めております。しかしながら、個人に対してもそれを行うことは極めて困難なのです。どういう内容のホームページで、どのような使い方をするのか判断しなければなりませんし、ホームページは一時のものではありませんので、今後変更なされる内容をチェックする必要もあります。龍馬を扱った個人の方のホームページは大量にあり、写真を載せているものもたくさんあると思います。それらの内容をすべてチェックすることは困難ですし、たまに当館のホームページからの無断転載と分かるものがあっても、営利目的でなければ特に何も規制しておりません。したがって、正式に許可申請をされても、上記のように内容を恒常的にチェックできないなどの理由から、個人の方に許可を出すことは難しい(例外はあります)です。現状では、個人的な目的で使用するものに関して、当館は関知しないということです。
ホームページというものは、個人的な目的で作成しても全世界からアクセス可能という点では、個人に留まらないものですが、それでも内容が良識に基づいたもので、営利目的などでなければ、関知しません。

当館の暦の表示について

カテゴリ:その他について

坂本龍馬の、生年月日につきまして、御サイトの龍馬の年表(English Pageも同じ)では、「1835(天保6)年11月15日、郷士坂本八平直足の次男として本町筋に生まれる。」となっています。多くの歴史書や事典類、年表などでも、坂本龍馬の生年は1835年とするのが慣行のようですが、しかしながら、坂本龍馬の生没年月日は、正しくは天保6年11月15日(1836年1月3日)-慶応3年11月15日(1867年12月10日)であり、坂本龍馬の西暦の生年は1836年と記述すべきであろうと思います。かようなことは、あるいは、ご承知の上かとは存じますが、坂本龍馬の生年の西暦表示について、御サイトのお考え(方針など)をご教示下さい。

西暦表示についてですが、確かにご指摘の通り、本来は天保6年11月15日(1836年1月3日)-慶応3年11月15日(1867年12月10日)と表記する方が正しいと思います。
当館でもそれは以前から認識しておりますし、天保6(1835)年11月15日と表記することに違和感も感じておりました。龍馬の生誕の月日だけを西暦に直し、年号もそれに合わせて1836年とすることは簡単ですが、龍馬の生誕日以外にも年月日は沢山出て来ます。それらをすべて西暦に直すのは大変なので、龍馬の生誕日や命日だけを正確な西暦に直すことは行っておりません。
現在の当館の表記は、和暦が西暦でだいたい何年なのかが分かれば良いと捉えており、一般の方が混乱しにくいように天保6年=1835年と表記しています。暦の問題は西暦と和暦の問題や、元号の変わり目など正確を期そうと思えば複雑になり、一般の方が混乱をする可能性があるため、単純な表記にしています。全ての教科書を見たわけではないですが、歴史の教科書も和暦と西暦は単純な変換になっていると思います。当館も教科書と同じように表記するようにしています。
個人的には、この表記の仕方が本当に良いのかというと、始めにも書きましたが、違和感を持つ場面も何度か有り、複雑な気持ちです。例えば、龍馬の生誕日や命日は、一般の方は秋のイメージがあるかもしれませんが、実際には冬です。また、龍馬は数え年の33歳で亡くなっていますので、よく『龍馬の33年』のような題名の本が出ています。しかし、実際には31年と11ヶ月ちょっとの人生なわけですので、かなり変わってきます。ご指摘のように表記すればそんな誤解はなくなるかもしれませんが、一般の方にとっては複雑にもなります。なかなか難しい問題ですので、分かり易さを優先しています。

龍馬と名のつくもの

カテゴリ:その他について

現在坂本龍馬について調べています。龍馬についてといっても、歴史ではなく、「現在の龍馬」です。例えば、お土産物や博物館、ひいては温泉や空港まで、龍馬と名のつくものならどのようなものでも知りたいなと思っております。また他の施設についての歴史などの資料がございましたら、いつ頃から「龍馬」とつけられたのか教えていただけないでしょうか?高知の生んだ代表的な人物である龍馬が、いつから高知の人々の間で象徴的存在となったのか、教えて下さい。

龍馬についてのご質問ですが、高知県には龍馬や龍馬にちなんだ名前(海援隊や乙女姉さんなど)が付いたものはたくさん有ります。しかし、当館にはそれらの沿革などが分かる資料はほとんどありませんし、私もほとんど知りません。とりあえず、電話帳に載っているものや、私が思いつくものを名前だけ列挙してみます。

「公共的な施設」
1.龍馬歴史館(HPあり) 2.龍馬の生まれた町記念館(HPあり) 3.高知龍馬空港 4.龍馬郵便局
「その他」
5.龍馬不動産 6.龍馬第一パーキング(駐車場) 7.代行龍馬(代行運転) 8.龍馬学園(専門学校) 9.龍馬観光(有)(観光会社だと思います) 10.リョウマコンサルタント(有)(龍馬倶楽部幹事の方が経営) 11.龍馬石材(有) 12.龍馬太鼓道場 13.葬祭会館龍馬 14.龍馬ヘアーサロン 15.龍馬屋(不明) 16.りょうま薬局 17.リョウマン・エコカンパニー(有)(HPあり。龍馬倶楽部幹事の方が経営) 18.米焼酎龍馬の海援隊(土佐鶴酒造) 19.麦焼酎竜馬(菊水酒造) 20.麦焼酎竜馬ロイヤル(菊水酒造) 21.土佐焼酎竜馬(菊水酒造) 22.日本酒龍馬からの伝言(司牡丹酒造) 23.サブレのお菓子龍馬のブーツ(西川屋老舗) 24.龍馬亭松うら(居酒屋)
「その他龍馬にちなんだ名前」
25.さいたにや(喫茶店) 26.かまぼこ乙女ねえやん(永野かまぼこ) 27.米焼酎海援隊(土佐鶴酒造)

すぐに分かるものは以上になりますが、「~龍馬」と後ろに龍馬が付くものは、NTTのタウンページのHPがありますので、そちらでキーワードを龍馬で検索するとまだまだ沢山ヒットします。これらがいつ頃から龍馬という名前が付けられたかはそれぞれにお問い合せいただく以外ないと思います。また、お土産物となるとあらゆるものがありますので、ここには書き切れません。
龍馬がいつから高知の象徴的存在となったかについては、明治時代初期の自由民権運動が盛んになった時期だと思います。詳しくは龍馬に関する図書をお読みください。(飛鳥井雅道著『坂本龍馬』福武書店をお薦めします)また、第二次大戦前の追手前小学校(高知市内)の文集では、男子の歴史上の一番人気が龍馬だったという話を聞いたことがあります。原資料は未確認です。
高知には龍馬に関する名前が付くものが氾濫しており、県民は正直なところ龍馬という名前を聞くと「またかー」とうんざりする人が少なくないと感じております。これは県民性もあるかもしれません。あまりにも龍馬・龍馬と言われすぎるので、普通の人はむしろ龍馬に対する関心は薄いと思います。

NHKアニメ「おーい竜馬」

カテゴリ:その他について

以前NHKで放映されていたアニメ版おーい竜馬は、ビデオで発売されているみたいですが、漫画版同様完結しているのでしょうか?当時テレビで見た分では、後半はストーリーがダイジェストになっていたような記憶があります。アニメ版も声優陣が良かっただけに中途半端で終わっているのが残念でなりません。ずっと気になっていたので、そちらで何か分かっている事があれば是非教えて頂きたいと思います。

岡上菊栄著作の本

カテゴリ:その他について

菊栄の著作を探しています、特に龍馬について、菊栄の想いを知りたいのです。ご教示くださいませ。

私どもで調べましたところでは、(市民図書館蔵書)著作は菊栄さんの福祉活動については、ご自身の回顧談のほかは特になく、しいて言えば、戦前の「高知新聞」紙上に載ったインタビューものがある程度です。菊栄さんについてのものは4冊で、終戦前が1冊、最近のものが1冊です。

  • 『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』(2003年3月 鳥影社) 
      武井優 著(書店で発売中)  
  • 『岡上菊栄の時代』(1993年5月 三文々司)
      前川浩一 著(高知市内在住の著者の自家出版。母乙女の思い出、母に次いで、養育をした公文婦喜[クモン・フキ]も亡くなり孤児となった苦労話、教慈生などを描写。龍馬のことは出てこない。)
  • 『シリーズ“福祉に生きる”3 岡上菊栄』(1998年12月 大空社) 
      一番ヶ瀬康子 著(書店で取り寄せ可能)
  • 『傳掌・岡上菊栄』(1943年3月 高知慈善協会)
      宮地竹峰 著(慈善協会は博愛園など福祉施設を経営する団体で、菊栄もこのメンバー)
  • 龍馬先生逝いて七十年・老眼を瞬いて追想する維新俊傑の面影
      (1936年11月高知新聞朝刊記事コピー)
      短いものなので目を通しましたが、叔父龍馬については多くの方が伝えておられるので・・・ということで、ほとんど触れ ていません。母乙女については、やさしさ、厳しさ、夫・樹庵の暴力に耐えたこと、使用人・公文婦喜と夫との不倫にたまらず離婚し坂本家に戻ったこと。十歳代で母も婦喜も亡くなり苦労したこと。のち5人の子どもを育て上げたことなどを語り、「叔父が亡くなってはや七十年、早いものです」と結んでいます。

『坂本龍馬と明治維新』について

カテゴリ:その他について

龍馬の本についてお尋ねいたします。アメリカ人でワシントン大学の方が龍馬の伝記を書いてあるとか聞きました。著作者名、タイトル、出版社、英語か日本語か、お教えください。

ご質問にありました書籍は、以下の物になります。

(洋書、原本)
Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration
Marius B. Jansen (著)  1961
U.S. 定価: $24.00
価格:¥2,880
ペーパーバック: 442P
出版社: Columbia Univ Pr
ISBN: 0231101732

(翻訳本)
「坂本龍馬と明治維新」 (1965/04/30 初版)
マリアス・B・ジャンセン (著), 平尾 道雄 (翻訳), 浜田 亀吉 (翻訳)
価格 ¥1,200 出版社 時事通信社
ISBN 4788700026  400ページ

書店で見つけにくい場合は、インターネットの通販(AMAZON.CO.JP)で購入する事が出来ます。以下のURLのサーチの欄で、和書、「坂本龍馬と明治維新」として調べてもらうといいと思います。 
http://www.amazon.co.jp/

マリアス・B・ジャンセン 博士…アメリカ人。ワシントン大学教授、のちプリンストン大学教授。ハーバード大学ライシャワー教授の秀才門下生。駐日大使をつとめた事もある。
プリンストン大学教授として「Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration」(坂本龍馬と明治維新)を出したのが、1961年(昭和36年)だが、この研究に着手したのは、ワシントン大学助教授の時代である。おそらく1956年頃(昭和31年)と思う。
特異な活躍をした坂本龍馬にポイントを当ててみようと考えた。彼が生まれ育った環境、成長して行くプロセスなどについて、高知で最も坂本龍馬に詳しい、平尾道雄氏(故人)を訪ね、お二人の交友関係が成り立つ。
この本はプリンストン大学から出版されているが、この日本語訳は、日本の時事通信社から昭和40年出版され、昭和48年に新装され、現在でも人気がある。
坂本龍馬記念館が開館した、1991年(平成3年)11月15日、ジャンセン先生は、ご夫人同伴で高知へ来られ、記念講演をして下さった。
さらに作家、司馬遼太郎さんが主唱してつくった、日本と外国の橋渡しをした人に贈られる、山片蟠挑(ヤマカタバントウ)賞の平成4年度の該当者にジャンセン先生が選ばれ、平成5年(1993年)3月、大阪ロイヤルホテルの授賞式にも来日された。(この時、奥様は足がご不自由で欠席)それが最後で、平成13年、プリンストンの自宅で亡くなられた。

「万国公法」について

カテゴリ:その他について

いろは丸事件の交渉で出てくる「万国公法」とは、どのようなものですか?

万国公法は、ヘンリーホイートンが1840年代にまとめたもので、アメリカ人宣教師ウイリアム・マーチンが、慶応元年漢文に訳し、更に慶応2年日本でも出版されました。のちに国際法と言う名になるが、いろは丸事件では、賠償金算出の基準に万国公法が使われたことが記録にある。

「万国公法」について

カテゴリ:その他について

いろは丸事件の交渉で出てくる「万国公法」とは、どのようなものですか?

万国公法は、ヘンリーホイートンが1840年代にまとめたもので、アメリカ人宣教師ウイリアム・マーチンが、慶応元年漢文に訳し、更に慶応2年日本でも出版されました。のちに国際法と言う名になるが、いろは丸事件では、賠償金算出の基準に万国公法が使われたことが記録にある。

龍馬の写真使用について

カテゴリ:その他について

龍馬の写真使用について教えて下さい。

龍馬の写真についてですが、当館が所蔵している写真は1枚もありません。立姿のものは、高知県が所有しており、高知県立歴史民俗資料館が管理しています。他の写真は個人蔵であったり、他の博物館の所蔵となっております。
龍馬の立姿の写真を、個人で非営利に使用される場合は関知しておりませんが、商用や広告などに使用される場合、所蔵先の許可が必要になりますのでご注意下さい。

【立姿の龍馬写真のポジフィルムの貸し出しについて】
当館では高知県立歴史民俗資料館の“窓口”として、立姿の写真のポジフィルムを貸し出す事はできますが、通常5,150円の料金を頂いております。但し、研究目的や観光ガイドブック、博物館等での使用、または館長が特別に許可をした時は無料になるケースもございますので、申請の時にお尋ねください。

【ホームページでの龍馬写真の使用について】
当館ホームページで使用している写真は、それぞれ所蔵している機関に許可を得て掲載していますが、非営利に個人的に作成されたホームページでの、写真の使用については、特に注意されることはないと思います。また、個人的な使用目的で写真をコピーすることも、特に注意されることはないと思います。しかしながら、営業目的・本への掲載などで使用する場合には許可が必要となりますので、ご注意下さい。

CD-ROM版『竜馬がゆく』

カテゴリ:その他について

龍馬記念館で見る事の出来る、龍馬のCD-ROMの購入方法は?

当館では龍馬のCD-ROM、司馬遼太郎氏原作の「竜馬がゆく」がご覧いただけるようになっております。全国のパソコンショップで購入できるようです。詳しくは下記お問い合せ先をご覧下さい。

●「竜馬がゆく」CD-ROM  企画・制作・発売=㈱フラッグシップ TEL 03-5215-7175 
http://www.flagship.co.jp/products/products.htm

「龍馬ハネムーンウォークin霧島」について

カテゴリ:その他について

坂本龍馬・おりょうの格好をして登山えをすることがあるみたいなんですが、どこにアクセスすればいいんですか?

ご質問の催しは、「龍馬ハネムーンウォーク実行委員会」が主催の「龍馬ハネムーンウォークin霧島」と言います。平成21年3月14日と15日の開催で13回を数えるイベントです。

【お問い合わせ先】
霧島市役所 商工観光部 観光課 観光グループ
電話番号:0995-45-5111(内線2611・2612)
URL http://www.city-kirishima.jp/modules/page057/index.php?id=1

亀山社中について

カテゴリ:その他について

亀山社中の構成員は何人で具体的な名簿がほしいです。そして龍馬亡き後は、各自どんな半生を歩んだか関心あります。あの龍馬の影響を受けていろいろ頑張ったと思われますから。また「亀山社中」に関する本を紹介して下さい。

亀山社中については正確な名簿はありませんが、それをそのまま引きついだ海援隊は出身藩も記入して記録されています。
メンバーは全体で約50人(水夫、火夫を含む)です。
内訳としては・・・
土佐藩からは坂本龍馬、高松太郎(龍馬の甥、のち坂本直となって龍馬のあととりとなる)、石田英吉(イシダエイキチ、のち京都府知事)、菅野覚兵衛(スガノカクベエ、のち海軍少佐、お龍の妹君枝と結婚)、長岡謙吉(ナガオカケンキチ、海援隊書記、龍馬の死後海援隊隊長)、新宮馬之助(シングウウマノスケ、龍馬と幼友達、のち薩摩にうつり寺内信左衛門)、沢村惣之丞(サワムラソウノジョウ、のち関雄之助、龍馬と共に脱藩した、長崎で薩摩藩士誤殺事件の責任を負って切腹)、など12名。
越前からは関義臣(セキヨシオミ、山形県知事、徳島県知事などつとめる)、小谷耕蔵(コタニコウゾウ)ら6名。
越後からは白峰駿馬(シラミネシュンメ、航海造船の専門家、アメリカ ラトガース大学へ留学、自分で造船会社をつくる)、橋本久太夫ら2名。
紀伊からは陸奥宗光(ムツムネミツ、当時は陸奥陽之助、日清戦争の時の外務大臣として講和条約を締結、多くの不平等条約を改訂)
亀山社中に関する本をご紹介します。
 『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』 著者 山田一郎 他 発行所 新人物往来社
 『ある海援隊士の生涯ー菅野覚兵衛伝ー』 佐藤寿良著(絶版)
 『続・ある海援隊士の生涯ー白峰駿馬伝ー』 佐藤寿良著

江戸時代の郵便について

カテゴリ:その他について

龍馬は生前に、たくさんの手紙を送りましたが、当時は現代の様に郵便が発達していなかったと思います。当時、龍馬は飛脚を雇って手紙を送ったと思いますが、京都から土佐まで、江戸から土佐まで、それぞれ手紙が届くまでどれ位、日数がかかったのでしょうか?また、それぞれ手紙一通分の値段はどれ位かかったのでしょうか?現代では、一通五十円で日本全国に葉書が送れますが当時は徒歩で郵送するのですから、やはり距離によって値段も違ってくるのでしょうか?

京都から土佐まで、江戸から土佐まではどのくらいかかるか。これは、歴史研究家の広谷喜十郎先生にうかがいました。それによりますと、
江戸からは、
●至急便(公用便)で、4日(昼夜走りっぱなし)、5日(昼夜走りっぱなし)、7日(それよりはすこしゆっくり)
●普通便では、半月くらいかかったそうです。
また、
●船に乗る人にたのむ方法
●公用便に便乗させてもらう方法
●大阪、土佐では、定期の船便があり、それにたのむ方法
などがあったということです。
「ささおくり」といって、笹の葉が枯れないうちに送るという至急便もあったそうで、面白い呼び名ですね。
いずれにしても、1人の飛脚が全部の道を1人で走るのではなく、駅(中継ぎ所)でリレーをして届ける。夜は灯りをつけて走る。もっと急ぐものは馬で走るでしょうが、いずれにしても四国へは船で渡らなければなりません。この時間を入れて4、5日とすれば、大変早いことになります。料金は貧しいものには手がとどかない制度だったので、公式のものは高かったのでしょう。「応急の手当で」という書き方をしているので、「それなりの料金」でたのむこともできたと思います。
料金について何両というように具体的には広谷先生もわからないそうです。    

写真「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」

カテゴリ:その他について

明治のオールスターが勢ぞろいしている幕末の写真がある。偽物説も多いが、本物と言う話も多い。

この写真はかなり出まわっており、中にはかなりの代価を払って求められた方もあるようですが、書かれている人物の名前も、フルベッキ博士とその子供さん以外は、全部「ウソ」です。つまり、後代の人がそっくりさん写真にしてしまって、もっともらしいいわれをつけたものです。
この写真を撮ったのは上野彦馬で、文久2年(1862)長崎で営業写真館をオープンし、京の下岡連杖と並んで草分け的存在です。龍馬もこの上野彦馬のところで、何枚かの肖像写真を残していますが、有名なのは(1)台の横に立ち手を懐に入れているもの、(2)椅子に座り横向きで大小の刀を差しているもの2つその他バストショット(胸から上)のものも1~2枚あります。(いずれも慶応2~3年撮影)この龍馬の顔と、集合写真の龍馬の姿と見比べてみれば、同じ年、或るいは1~2年の差と考えても、あまりにも違い過ぎることがわかると思います。また、横井小楠は龍馬より25歳も年上で、おでこに沢山皺のある人ですから、これも大違いです。
私どもの館にも、全く同じ写真がありますが、写真そのものは、佐賀藩の青年たちが、英語や科学を習っていたフルベッキ博士が、江戸へ赴任するのを機会に送別の意味で撮ったもので、私どもの館で展示するときは、「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」明治2年上野彦馬撮影とします。
そして、これについては、ソックリさん的説明がつけられ、話題を呼んだがそれぞれの人物の本物の写真と比べれば、本物でないことは容易にわかる・・・と解説をつけています。

【フルベッキ VERBECK・Guido Herman Fridolin】
 オランダ・ユトレヒトツァイスト出身。宣教師。
安政6年11月、ダッチリフォームド教会宣教師として、長崎に来航。元治元年8月より幕府の長崎外語伝習所、済美館の校長兼教授として、週5日、英語や科学などを教授した。また、慶応2年6月からは佐賀藩設立の長崎致遠館の教師に任ぜられ、多くの人材を育成した。維新後は新政府の顧問格として、諸施策に参画した。明治2年に長崎から東上する際、多くの門弟たちとともに撮影した集合写真を残しています。(この写真が問題のもので、元治元年には、この広い写場は、上野彦馬の所になく、スタジオを増築したのは明治2年と言われています。)

[参考文献] 「幕末維新-写真が語る-」 安田克廣 編 株式会社明石書店(1997年3月20日)発行 定価 2575円

公文菊遷について

カテゴリ:その他について

「公文菊僊欽馬」と「公文菊僊」は同一人物なのでしょうか?我が家に公文菊僊欽馬という人の竜馬の掛け軸が何故かあります。価値的にどのようなものか全くわかりません。教えて頂ければ幸いです。

当館にも「公文菊僊欽冩」と書かれた画があります。ご所蔵のものもおそらく「欽馬」ではなく、「欽冩」ではないかと思います。これは間違いなく公文菊僊の書いたものです。この「欽冩」は人の名前ではなく、“うやまいながら写す”とか“仰ぎしたいながら写す”というような意味だと思います。「冩」は「寫」の俗字で、「寫」は「写」の旧字です。
公文菊僊の本名は公文時衛で、明治6年高知市の鉄砲町に生まれます。菊僊は号になります。維新の志士たちの肖像画をおもに描いていましたが、なかでも龍馬を描かせると、並ぶ者はなかったようです。同じ構図で何点も描いており、当館にも2点あります。他の所でも10点以上確認されており、さらに個人蔵となると倍以上はあるのではないかと思われます。よって、希少価値はほとんどないのですが、龍馬の雰囲気はよく表れた作品なので、人気はあります。

公文菊遷は明治6年(1873)高知市生まれ、現在の追手前高校で当時の高知尋常(じんじょう)[ふつうのという意味]中学校を卒業。在校中に楠永直衛(くすながなおえ)から、西洋画を教えられたのがきっかけで東京に出、日本画の師について人物画の修行をしてきました。講談社(現在もある出版社)でさし絵を書いたこともあり、龍馬の銅像が高知に建てられた昭和3年(1928)頃から起こった龍馬人気に支えられ、肖像画を求める人が多かったため、維新での若者の活躍を理解してもらうためになればと、龍馬をはじめ当時行動をともにした武市半平太、中岡慎太郎などの肖像(日本画)を数多く描きました。
菊遷は、昭和20年(1945)に亡くなりますが、それまでに描いたものは数えきれないくらいで、同じ人物の絵は印刷したと思うくらい同じに描かれています。どれが本物でどれが偽者ということではなく、自分で描いたもとの絵を、菊遷自身がよろこび(欽)を以って描き写したということです。画の上にある賛(さん)[詩のことば]は中島気が書いたものが多いようで、日露戦争の時は、皇后陛下の夢枕に立ち日本の勝利を予言したことなどいろいろあります。

郷士の差別について

カテゴリ:その他について

郷士の差別にはどんなものがあったのか詳しく教えてください。

郷士の差別についてですが、土佐藩の身分は下のように、大きく分けて上士と下士の2つに分かれます。
上士は、「家老、中老、馬廻組、小姓組、留守居組」の5つです。
下士は、「郷士、用人、徒士、足軽、小者」の5つです。
このように郷士は下士の最上位に位置付けられており、その中でも特別格が白札郷士になります。
上士とは、関ヶ原の戦いの後、土佐に入国してきた山内氏が連れてきた侍がおもで、郭中(かちゅう・かくちゅうとも言う)と呼ばれる高知城周辺の決められた場所に屋敷を持っていました。
下士たちは、この郭中に屋敷を持つことを禁じられ、郭中の西側にある上町や、反対の東側にある下町や、村に住んでいました。龍馬の家は上町です。それからこの郭中では、下士たちは日傘をさすことを禁じられていました。ただし、1760年以降は上士に無礼の無い限り許されていましたので、龍馬の時はさしても大丈夫です。また、下駄をはくことも禁じられており、衣服の質も差をつけられています。さらに、下士と上士の結婚も認められていませんでした。
切捨て御免については、土佐の上士と下士に限らず、他の藩であっても下級武士が上級武士に対して無礼な行為をした場合は、切捨てられることがありますので、土佐藩に限った差別ではありませんが、実際に下士が切り捨てられた事件も何件かはありました。
ちなみに、まんがの『お~い竜馬!』の中では、郷士が馬に乗ってはいけないかのように描かれていましたが、郷士は江戸時代初期から馬に乗るための侍として組織されていましたので、そういう差別はありませんでした。

いろは丸事件での龍馬の対応

カテゴリ:その他について

いろは丸事件で紀州藩に対して龍馬はどうゆう交渉を行ったんですか?

いろは丸事件での龍馬の対応をまとめてみました。
○慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。
○紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。
○航海日誌や談判記録を確保。
○海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。
○寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」
○下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」
○京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。
○紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。
 ●土佐の連中を放ったまま出港したのはけしからん!
 ●2度も衝突させた責任はどうなるのか!
 ●万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か!
 ●長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いて決着をつけよう!
○土佐藩から参政後藤象二郎ら応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てたので、紀州藩も薩摩藩五代友厚へ仲裁を依頼。ほぼ1ヵ月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。
○この間龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっけろと励ましに来るなど大いに効果を上げた。
○いろは丸事件で龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一ヶ月間に上手に展開していて感心させられる。
 ●一戦交える臨戦体制
 ●世論操作と情報発信
 ●身内の安全確保
 ●筋を通した交渉
 ●強力な応援体制の確保
 ●交渉の結着点・結着対応などを決める

いろは丸事件についての本

カテゴリ:その他について

いろは丸事件に感心があります。分かる範囲内でいいですから、いろは丸事件について、詳しく述べてある本を教えて下さい。

いろは丸事件に付いてかかれた本で、おすすめの物は、次の2冊になります。
『いろは丸事件の謎を解く』森本繁(新人物往来社 1990年10月10日)
『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社編 
 織田毅「再考・いろは丸事件-賠償金はなぜ減額されたか-」(新人物往来社 1997年9月10日)
また、広島県福山市に「いろは丸展示館 084-982-1681」がございますので、お問い合せいただいたらもっと詳しい事がわかるかもしれません。展示内容としましては、潜水調査で引き揚げられたいろは丸の一部や、龍馬の隠れ部屋が再現されているようです。

龍馬と「軍鶏鍋」

カテゴリ:その他について

龍馬が生前食べたかったものとして軍鶏鍋が挙げられるそうですが、インターネット上でもあちこち調べてみたのですが、結局その情報を得ることができませんでした。軍鶏鍋が好物なのか・・・。これには何か理由があるのでしょうか?それに関するエピソードなどがありましたら教えていただきたいのですが・・・。

龍馬は手紙に食べ物のことを書いていませんので、好物やどこでどんなものを食べたのかはわかりません。従って、これは言い伝えられていることとしてお返事しますが、慶応3年11月15日(暗殺された日)の夜、中岡慎太郎と話し込んでいた龍馬がそばにいた峰吉に「軍鶏鍋でも食おうか、買うてきてや」といい使いに出します。ところが、その直後、龍馬と中岡と藤吉しかいなくなった近江屋の2階に刺客が上がり3人ともやられてしまいます。軍鶏を買いにいった峰吉が戻った時には龍馬は息絶えていました。いつもの店に軍鶏が無くて、遠い店まで買いに行った・・・とも書かれていますが、龍馬にとっては「食べそこなった軍鶏鍋」になりました。龍馬が中岡の来訪をもてなすため11月の寒い折から、温まる軍鶏鍋を思いついたのではないでしょうか。『海援隊始末記』をはじめ殆どの本に書いてありますが、これはのちに峰吉が話したことを材料としていると考えられます。

土佐の地酒について

カテゴリ:その他について

「龍馬と酒」というテーマで龍馬の時代に飲まれていた酒(特に土佐の地酒)の資料をさがしています。何か情報や手がかりがあれば教えてください。

土佐の地酒の資料ですが、「高知県酒造組合」(電話:088-823-3558)に『高知県酒造史』(廣谷喜十郎・著)があり、第1集と第2集とに分かれているそうです。それぞれ、1500円と2000円で本来非売品ですが、販売もしてくれるそうです。

『歴史街道』に掲載された龍馬の写真

カテゴリ:その他について

三年程前龍馬について出された『歴史街道』という雑誌に掲載された「海軍操練所の制服を着た龍馬の写真」というのはなぜまだ公に発表されないのでしょうか。まだ100%龍馬であると断定されていないからなのでしょうか。

あの写真は私も一瞬びっくりしましたが、耳の形がそげているのと、その他、側によってコンピューターに入れてみると合わないところもあるようです。実はこの写真の本人の名前がその後わかり、現在では100%龍馬でないことが証明されています。この本の出版元でも、それを認めています。

「紙入れ」とは

カテゴリ:その他について

「紙入れ」とはどういうものか。

「紙入れ」は「三徳」とも言います。「紙幣」を入れるものではなく、なんでもちょっと入れておく「小物入れ」のことです。『広辞苑』によれば、「三徳(3つの徳用があるという意味)は、鼻紙袋の一種。江戸時代に流行したもので、鼻紙を入れるところの他に書き付けや楊枝を入れる2つの口もある。」とあります。

ロミュラス・ヒルズボロウ著『Ryoma』

カテゴリ:その他について

ロミュラス・ヒルズボロウ著「Ryoma」はどこで買えますか?

ロミュラス・ヒルズボロウ氏の『Ryoma』(英語で書かれた坂本龍馬の伝記小説)ですが、当館では販売しておりません。
日本では紀伊国屋書店の店頭販売でのみ取り扱っております。東京の新宿に紀伊国屋書店の本店と南店がありますが、そこの洋書売り場で扱っております。電話番号は「本店」03-3354-0131(洋書売り場)、「南店」03-5361-3301(洋書売り場)です。
また、アメリカから直接購入する方法もございます。詳しくは、(電話)415-841-0508 (FAX)415-841-0592 にてお問い合わせ下さい。

書店で見つけにくい場合は、インターネットの通販(AMAZON.CO.JP)で購入する事が出来ます。以下のURLのサーチの欄で、洋書、「ryoma」として調べてもらうといいと思います。 
http://www.amazon.co.jp/

ロミュラス・ヒルズボロウ著 『Ryoma』 (英語で書かれた坂本龍馬の伝記小説)
Ryoma: Life of a Renaissance Samurai
Romulus Hillsborough (著)
ハードカバー (1999/05/01)
U.S. 定価: $40.00
価格: ¥5,279

NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」

カテゴリ:その他について

司馬先生の『竜馬がゆく』がNHKで以前、大河ドラマ化されたことを知りいろいろ探すのですが、視聴率が低かったこともあり、レンタルビデオ店はおろか、その存在さえ知る人は少ないようです?私の記憶違いかもしれませんが、存在を知る方、テープを持っておられる方、ご一報下さい!

全編のビデオ等はNHKにも現存しておらず、個人でお持ちという情報も聞いたことがありません。NHKには16回目の放送分(脱藩)だけが残っています。現在は「NHK思い出倶楽部2~黎明期の大河ドラマ編~(4)竜馬がゆく」と題してDVD販売されています。どなたかテープをお持ちでしたら「お問い合せ」の欄にご一報下さい。

FAQにあった、NHKの大河「竜馬がゆく」ですが、1967か68年放映のはずです。ビデオが出ていないのも当然で、なにしろNHKにさえ、部分的にしか保存されておらず、全篇は残っていません。したがって、将来的にもビデオが出るはずはなく、レンタルショップを探しても見つかることはないと思います。古い時代のことなので、個人でビデオを撮った人がいる可能性も低く、入手はまず不可能だと思います。(東京都 男性 29歳)

TBSドラマ「竜馬がゆく」

カテゴリ:その他について

何年か前にTBSで放映された、「竜馬がゆく」のビデオを探してます。レンタルビデオ屋を探してもありません。売っている所や、譲ってくれる人、探してます。あとその番組で使ったテ-マソングは何ですか?誰が歌っているのですか?タイトルは?教えてください。

TBSで放映された「竜馬がゆく」のビデオですが、TBSのHPの ビデオリストを見る限り販売されていない様です。テ-マソングは「生きる歓び」沢田知可子&KATSUMI(wea japan)です。

FAQコーナーにあった、97年TBS放映の「竜馬がゆく」ビデオですが、発売元TBS、販売元ワーナーヴィデオジャパンで出ています。価格は、税抜16,000円(上下2巻組)です。 (東京都 男性 30歳)