龍馬と河田小龍

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は、ペリーの黒船来航の後、河田小龍を訪ねていますが、それはこの時から日本を何かの形で変えようと思い始め、河田小龍を訪ねたのでしょうか。
黒船が来た嘉永6(1853)年、龍馬は江戸の千葉定吉道場(北辰一刀流)で剣術の修行中でしたが、6月、土佐藩からの命令で品川に出て沿岸警備をしました。この時龍馬は、「黒船との戦いになったら、異人(外国人)の首を取っておみやげにする」という手紙を、父・八平(はちへい)に送っています。
1年の修行を終えて土佐に帰った龍馬は、黒船征伐の方法を聞くため、家が近くにあった河田小龍を訪ねます(1854年)。河田小龍は、漂流生活11年ののちアメリカから帰ったジョン万次郎の取り調べをしたので、外国の知識や蒸気船のこともよく知っていました。漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という取り調べ記録(現在市販されている)もまとめていましたので、河田小龍ならわかるだろうと思ったのです。しかし、答えは「それは無理だ。土佐藩の軍船(いくさふね)では太刀打ちできない。それより龍馬自身が蒸気船を持って、それを使って仕事をすることを考えなさい。乗る人は、私(河田)が町人のせがれを教育して、龍馬のところへ送ってあげる。」と約束しました。龍馬はその教えを実現させるため、8年後、江戸へ出て勝海舟の弟子になり、海軍を創設します。
また河田小龍は、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮(しんぐう)馬之助など、優秀なメンバーを神戸の海軍塾や、龍馬が隊長を務める亀山社中に送り、彼らも龍馬と共に明治維新を目指しました。

龍馬をしのんだ漢詩

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坂本龍馬の残した、あるいは他の方の残された四行、八行の漢詩があれば教えて下さい。
龍馬の和歌は10数通ありますが、漢詩はありません。書軸などであったとしても、それは本物ではない可能性が強いです。龍馬以外では、勝海舟が龍馬の死後15年経った時、龍馬をしのんで詠んだ四行詩を残しています。参考までに、その時の勝海舟の漢詩を書きだしてみます。<参考資料>『龍馬百話』著者:宮地佐一郎氏

「日月如転丸(日月は転丸の如し) 追想豈漠然(追想、豈漠然たり) 一龍蓋棺後(一龍、棺を蓋って後) 既過十五年(既に十五年を過ぐ)」
   

明治維新に向けて出会った人達

カテゴリ:ゆかりの人物について
(1)龍馬はどのようにして幕府を倒し、どのような人々と会ってきたのか?協力してきたか?
(2)その人々とはどのような関係になっていったか?
(3)龍馬からみた明治の世の中は?

(1) 
龍馬はまず、力の有る薩摩藩と長州藩を結びつけることによって(薩長同盟)、幕府に対抗できる大きな勢力を作り上げました。そして、最新式の武器を長州藩に運びました。その際に、共に協力をしあった人は、薩摩藩では、西郷隆盛・小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩では、桂小五郎・高杉晋作などがいました。

(2)
高杉晋作は龍馬が暗殺される前に死んでしまいますが、他の人とは協力しあう関係は変わりません。

(3)
憲法の制定や、議会の開設など制度の面では、近代的な国家を目指して、着実に前進しつづけた明治政府ですので、龍馬も不満はないのではないかと思います。しかし、それらを行う政府の指導者は、いつまでたっても「藩閥政府」と呼ばれたように、薩摩藩と長州藩の出身者ばかりでした。「平等な世の中」を作りたかった龍馬としては、理想の世の中とはだいぶ違っていたのではないでしょうか。
また、明治時代は世界的に帝国主義(他の国に戦争を仕掛けて侵略していくこと)が流行し、日本もその流れに乗って、朝鮮や中国を侵略していきます。これは平和を愛した龍馬の考え方とはかけ離れたものですので、龍馬は、間違った方向へ進んで行く明治政府を苦々しい思いで見ると思います。

龍馬についての質問~中学生より~

カテゴリ:龍馬について
(1)坂本龍馬が、最も尊敬した人物は誰ですか。(私見で結構です。)
(2)現代に龍馬がいたとしたら、どんな生き方をしていると思いますか。(先生の考えで結構です。)
(3)海と船が好きなのは、外国にあこがれていたからですか。
(4)龍馬が行きたいと考えていた国はどこですか。
(5)龍馬はどんな性格でしたか。また、それは生育歴と関係していますか。
(6)どんな食事を好みましたか。
(7)記念館の先生は、龍馬のどんなところが好きですか
(8)龍馬のエピソードで先生が一番好きなものは何ですか。

【三浦学芸員回答】
(1)
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
 ◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
       ※本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
 ◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
  ・大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
  ・横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。

(2)
現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。

(3)
龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。

(4)
龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国などとは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。

(5)
龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

(6)
これは全く分りませんし、想像もできません。

(7)
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。

(8)
最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
 
【故・小椋前館長回答】(2)と(7)のみ
(2)
現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。

(7)
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ  :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)

江戸剣術修行と河田小龍との出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は当時閉鎖的と思われた土佐から江戸に留学に行っていますがそのきっかけ、背景は何があったのですか?龍馬自らの意思でいったのですか?また河田小龍と会ったのは、江戸に行く前ですか?帰ってからですか?
江戸行きが誰の意志だったかは、明確には分りません。しかし、単純に想像すれば父・八平の意志だったのではないかと思います。この当時、家は普通長男が継ぎ、財産もすべて長男が相続する事になっていました。次男以下はどこかに養子に行くか、芸で身を立てない限り、一生居候として過ごす事になり、兄のやっかいにならなければなりません。龍馬の場合、14歳から始めた剣術が性に合っていたようで、めきめきと腕を上げます。こうなると、父親は「剣で飯が食えるようにしてあげたい」と考えても不思議は有りません。しかし、江戸へ修行に出してあげられるというのは、かなりの財力があったから出来たことです。龍馬がどんなに江戸へ修行に行きたくても、1年以上も江戸に滞在するには莫大なお金がかかります。それを許可したのはまぎれもなく父・八平です。
次に他の要素を考えてみますと、龍馬には開明的なアドバイスをしてくれる人が周りにいたことが分ります。先日、60年ぶりに発見された1863(文久3)年8月19日・川原塚茂太郎〔もたろう〕宛ての龍馬の手紙に、次のようにあります。
「(前略)又兼て雅兄か御論にも土佐一国にて学問致し候へは一国たけの論がいで世界を横行すれば又それたけの目を開き自ら天よりうけ得たる知を開かずばならぬとは今に耳に残り居り申し候。(後略)」
川原塚茂太郎は、兄・権平の妻の弟で、龍馬にとっては義理の兄にあたります。茂太郎は、「土佐一国で学問をしていたら、限られた知識しか得られないが、世界を横行すれば、世界の知識が得られる。天から授かった能力を大いに活用しなければならない。」と龍馬に語っており、龍馬はこの言葉がずっと耳に残っていたようです。「狭い土佐から出て、大いに見聞を広めなさい。」ということです。龍馬は金銭的な面でも、人の面でも恵まれた環境にあったのだと思います。
最後になりましたが、河田小龍といつ会ったかですが、これは1回目の江戸留学が終わってからになります。1854(安政元)年6月23日(20歳)に高知へ帰省し、この年の秋に小龍を訪ねます。正確な月日は分っていません。そして、1856(安政3)年8月20日(22歳)再び江戸へ向かいます。

坂本龍馬と高杉晋作

カテゴリ:龍馬について
幕末の志士の中でも坂本龍馬と高杉晋作は特に型破りな人物ですが、2人のどういうところが型破りなのか、また2人の違いを教えてください。
二人の比較は非常に難しい事ですが、二人とも、亀山社中(海援隊)や奇兵隊という今までにない組織を造ったところや、人が考えつかないような事、または考えついても無理だと思えるような事を成し遂げたところが、型破りなイメージをつくりだしているのではないでしょうか。二人の相違点は色々ありますが、家柄の違いは大きいと思います。晋作は長州藩の中級藩士、龍馬は土佐藩の郷士出身ですので、藩に対する意識が全く違います。

中江兆民と坂本龍馬

カテゴリ:ゆかりの人物について
中江兆民は坂本龍馬と長崎で会っていて、生涯尊敬していたと本で読みました。写真好きの龍馬と兆民が一緒に写っている写真と言うのはあるのでしょうか?もしあるとしたらそちらの記念館で所蔵されていますか?
中江兆民と坂本龍馬が一緒に写った写真ですが、当館にはありませんし、一緒に撮ったという記録も見たことはないので、おそらく現存しないのではないかと思います。

坂本春猪について

カテゴリ:ゆかりの人物について

春猪の生い立ち、龍馬の死後、春猪の生涯について教えてください。

坂本春猪 (以下「坂本龍馬大事典」を参考にしています。)

天保14年(1843年)12月14日~大正4年(1915)7月22日享年73歳
土佐藩士坂本権平と千野の娘。千野は川原塚氏。
龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、年が8歳しか違わない為、龍馬に妹のように可愛がられた。
龍馬がよく春猪の顔を、アバタのある顔から、金平糖の鋳型と言ったり、長崎から「外国のおしろいと申もの」を送ったことや、龍馬にかんざしをねだったことが、龍馬が乙女や春猪に宛てた手紙からもわかる。龍馬が春猪に宛てた手紙2通が確認されている。
文久3年秋、家老山内下総の家来の鎌田実清の次男清次郎を婿養子に迎えた。
元治元年に長女鶴井、慶応元年に次女兎美(富)を生む。
清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。
春猪も三好家に入り美登と改め、長男・譲と長女・亀代をもうけた。
譲は早逝、亀代は後に税務官吏楠瀬済の後妻に入った。
夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る。
高知では、亀代の嫁ぎ先である楠瀬家で養われ、73歳の生涯を閉じた。

中岡慎太郎の銅像と海援隊と陸援隊

カテゴリ:ゆかりの人物について
中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのか?また、それはなぜか。それと、海援隊・陸援隊の活動または役割について教えてください。
中岡慎太郎の像は南向きに立っています。よく桂浜の龍馬の銅像の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もしそうするには、かなり北西を向かなくてはなりませんが、そうすると銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、もっとふさわしい開けている方角になっているわけです。
海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり商売をしたりしていますが、いざという時は土佐藩を船で応援する役目をもっています。浪人ものでも外国へ行ってみたい人は入ってきてよい、と規則には書いてあります。
陸援隊は土佐藩に属する武力集団で幕府を倒すための戦いに参加する目的でつくられました。中岡慎太郎が隊長ですが、実践は行われませんでした。

龍馬と川島家と田中家

カテゴリ:ゆかりの人物について
学習研究社発行の歴史群像シリーズの第23「坂本竜馬」の37頁に、仁井田の川島家や坂本山の田中家へよく遊びに行った、とありますが両家は坂本家とはどのようなつながりが有ったのでしょうか?又そこまでの距離や子供の足でどのくらいの時間がかかったのでしょうか?
「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。川島家の当時の当主伊三郎は、「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで手漕ぎの船で30~40分くらいでしょうか。湾の眺めもよい航路です。
田中家は坂本家の山や領地の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16才年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。

「おやべ」は春猪

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬の手紙で「おやべ」に宛てたものがありますが、それは乳母の事だと説明するものもあれば春猪だというものもあります。どちらが正しいのですか?

春猪=おやべ、が正解です。
〇おやべは、元治元年(1864)、龍馬が30歳の時に子供ができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元年(1865)9月7日には、「最早、風が寒くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、おやべ=乳母はありえません。
〇使用人だとすると西の部屋の縁側で日なたぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな甘やかされた使用人はいないはずですから、おやべは使用人でも乳母でもないです。
〇アバタがあって、おしろいをぬれと龍馬によく言われます。これは「春猪」の所でも出てくるので同一人です。

沢村惣之丞について

カテゴリ:ゆかりの人物について
1、沢村惣之丞について教えてください(家族構成とか誕生日とか、くわしく教えてください)
2、彼の生まれた潮江村は、現在の高知県のどのへんなのか教えてください。
沢村惣之丞についてのご質問ですが、調べてわかった範囲でおこたえさせていただきます。
1、生年月日・・・1843年(天保14年)生まれ。家族構成・・・わかりませんでした。
2、潮江村・・・現在でも、潮江(うしおえ)地区として残っています。はりまや橋から南の方角になります。

沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)・・・1843年(天保14年)~1867年(慶応4年1月15日)。土佐国土佐郡潮江村の出身。土佐藩士。名は延世、惣之丞は通称。
文久元年(1861)8月に結成された土佐勤王党に加盟する。
文久2年(1862)3月上旬、吉村虎太郎に同調して脱藩するが、同志の説得の為に引き返し、24日龍馬を従えて再び脱藩する。
文久3年(1863)軍艦奉行並・勝海舟門下となった龍馬が上京すると、誘われて海舟の門人となり神戸海軍操練所に入って英語・数学を修めた。以後、海援隊に至るまで龍馬と行動を共にしてよく補佐し、長崎時代に関雄之助と改称した。
慶応4年(1868)1月海援隊を率いて長崎奉行所を占拠するが、誤って薩摩藩士を殺害。その責任を負って自刃して果てた。享年26歳。お墓は、長崎市筑後町本蓮寺。

吉井幸輔について

カテゴリ:ゆかりの人物について
「慶応2年12月4日乙女宛」の龍馬の書簡の中に出てくる、「吉井幸助」は龍馬とどんな関わりがあったのか、どうして霧島温泉で待っていたのかを教えて下さい。
吉井幸輔は、龍馬より7歳年上の薩摩藩士です。高知県にも来て住んだことのある歌人、吉井勇(1886~1960)のおじいさんで、龍馬のことをいつも気にかけてくれる人です。1866(慶応2)年1月23日、薩長同盟を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、指を斬られた龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱していますし、お龍さんを連れた旅行でも、吉井は案内役をつとめました。霧島温泉で待っていたのは、山に登るのが大変だったのと、山の道は一本道で迷うこともなく、仲の良い龍馬とお龍を2人だけにしてあげようと思ったからでしょう。山から下りてきた龍馬達を、また案内するためでもあります。

岡上樹庵について

カテゴリ:ゆかりの人物について
乙女の嫁ぎ相手である岡上樹庵についてお聞きしたいのですが、藩公(山内容堂)の御付医者だったというのは本当でしょうか?また、他の医者との交流はあったのでしょうか?生まれた年、亡くなった年は何年でしょうか?
岡上樹庵は150cm以下の小柄な人で、かんしゃくもちだったなどと言われています。天保10年(1839)岡上家に養子に入っています。最初の奥さんは亡くなり、安政3~4年頃(1856~57)その後妻として乙女さんが入ったようです。果たして夫婦仲が良かったかというと、1863(文久3年)6月29日乙女に宛てた龍馬の手紙の中に、「先日下さった手紙に、坊主になって山の奥へでも入りたいと言っていますが・・・」と書いてあり、この頃からあまり良くいってなかったようです。龍馬の手紙にも樹庵の事は全く出てきませんが、更に1867(慶応3)年6月24日の乙女宛の手紙で龍馬は「元気になったら京都へ出て来たいといっているが、龍馬の姉が不自由になったから出て来たと言われると、天下の人に対してはずかしい・・・」と言って一生懸命に止めています。これも樹庵と仲が良ければその必要もないはずです。元治2年乙女は岡上家から坂本家へ帰ったという説もあります。
さて、肝心の樹庵ですが、岡上家が代々藩公の御付の医者(待医)をつとめているので、樹庵もそれを受け継いでいると思います。その他の医者と交流があったかどうかについてはわかりません。
岡上樹庵 安政11(1828)年~明治4(1871)年

龍馬とお龍の出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬とお龍が出会ったのは?

龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。苦しい生活を助けるため元治元年(1846)8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となりました。
この頃から、龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。慶応元年(1865)9月9日の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えています。
この頃龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成します。そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができました。龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いています。
龍馬はけがが治ったあと慶応2年2月お龍と結婚しました(結婚は元治元年の説もある)。3月薩摩の西郷さんたちの招きで龍馬はお龍を連れ日本初といわれる新婚旅行にでました。霧島山のふもとの温泉で傷の保養をし山にものぼり、約1ヶ月間ゆっくりとすごしました。
 (参考になる本) 「坂本龍馬の妻 お龍」(新人物往来社・鈴木かほる 著)

岡田以蔵について

カテゴリ:ゆかりの人物について

「岡田以蔵」と龍馬の関係を知りたいです。

岡田以蔵(いぞう)は龍馬より3才年下で、天保9年、現在の高知市北部江の口村に生まれました。土佐藩の郷士で、武市瑞山(ずいざん)に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門しました。以蔵は、文久元年(1861)に武市を党首として結成された「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となりました。文久2(1862)年、江戸に出ると、勤王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられました。文久3年には、神戸の海軍塾に居た龍馬と交流があり、龍馬が最も尊敬し、師でもある勝海舟の暗殺を、以蔵が未然に防いだこともありました。その後、幕府の力が強くなると共に以蔵も狙われ、8月18日の政変後の勤王党弾圧で、翌元治元年(1864)土佐藩によって捕らえられ、厳しい拷問を受けました。そして慶応元年(1865)閏(うるう)5月、武市瑞山と同じ頃処刑されました。以蔵28才の時。今でも、高知市にある以蔵の墓を探す人、訪れ手を合わす人も多いようです。

龍馬の死後のお龍

カテゴリ:ゆかりの人物について
お龍が龍馬の死後、高知の龍馬の実家で暮らしていたのに長続きしなかった理由はなぜなのですか?またお龍は黒髪が美しいといわれていたらしいですが、龍馬の法事で髪を切る前はどれくらいの長さだったのですか?
龍馬の死後、約3ヶ月(12月~3月)を、長州の三吉慎蔵の家で過ごし、慶応4年(明治元年)3月、土佐の坂本家に来ます。一般的に死んだ亭主の家族と暮らすのは気詰まりなものですが、お龍の気性とか、坂本家のお龍に対する見方が厳しかったとか、色々ある中で嫌気がさし、芸西村(高知から50キロ)にいた妹(君枝)のところに立寄り、手紙などを整理し、一年足らずの明治2年夏京都へ帰りました。その後は東京に出て再婚し、明治39年66歳で横須賀でなくなります。またお龍の髪の長さですがこれはわかりません。

河田小龍とジョン万次郎について

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1.河田小龍について藩の絵師とありましたが、藩にはおかかえの絵師が存在したのか、どのような仕事をするのか、何故なれたのか。
2.ジョン万次郎について鎖国中なのに何故帰国できたのか。小龍とはどうして、会い話したのか。

1.河田小龍について
仕事は土佐藩の船の担当である船役人でした。絵の方も本業ではありましたが、藩お抱えの絵師ではありません。

2.ジョン万次郎について
この頃1851~52年頃はやや緩やかになっていたと思います。最初琉球(沖縄)に上陸したのも、その辺の事も考えていたと思います。そこでの取り調べで、船の知識、アメリカの事など、当時未知の世界だった事を詳しく知っている万次郎は、貴重な存在になるはずですから、そのことが薩摩に伝えられた上で調べを受け、さらに長崎でも吟味を受け、1852年に土佐に戻るので、もうそのころはめずらしい話を聞き、参考にするところまで行っていたでしょう。小龍に預けられたのは、小龍が蘭学をやっていた事と、新しい事に関心を持っていた事などで、まさに人を得たというべきでしょう。絵も描けるしメモにも強い人でしたから、漂流記をまとめる事が出来たのです。

「竜馬がゆく」の寝侍ノ藤兵衛について

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司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』に藤兵衛という盗賊が登場します。物語の中で興味深い活躍をしますが、この藤兵衛は実在の人物なのでしょうか。もし実在したならば、この人物についての情報はお持ちですか。そして竜馬の死後、目立った活動をしていますか。

小説の中で"寝侍ノ藤兵衛"なる人物が龍馬の片腕として登場しますが、彼は現実の人物なのか、それとも想像の人物なのでしょうか? それに付きまして資料など有りましたら、是非教えて下さい。
 (北海道 男性 30歳)
「寝侍ノ藤兵衛」はもちろん架空の人物です。資料といって特にありません。なぜそのような人物が登場したかを私流に考えますと、龍馬が自分の考えをまとめた時、それを小説の方で表すには、「龍馬はこう考えたのだった・・・」と書くこともありますが、それよりも、聞き手を登場させ、その聞き手の質問にも答えながら、龍馬が語りかける方が分かり易いし面白くなるからです。つまり「寝侍ノ藤兵衛」は「聞き役」「質問者」「舞台廻し」などの小説の運び役なのです。対談や講演がすばらしい司馬さんらしいアイデア(?)ですね。

高松太郎が龍馬の家系を継ぐ

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高松太郎氏は一体どのようないきさつで龍馬の家系を継ぐことになったのでしょうか?
明治4年8月20日に、朝廷が坂本龍馬の功績をたたえ、後継がないのを哀れんで、甥の高松太郎に跡目相続を命じました。
高松太郎が選ばれた理由としては、母が龍馬の長姉の千鶴だったこと、龍馬と一緒に海援隊で活動していたことなどが、考えられます。

近藤長次郎について

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近藤長次郎の事を調べているのですが、資料によって饅頭屋は「大里屋」と「大黒屋」そして「長男」なのか「次男」なのか、名前も「近藤昶次郎」というものがあるのですが、そちらではどういう風になっていますか。本当はどうなのか教えてください。
「大里屋」と「大黒屋」は、大里屋が正しいです。「長男」と「次男」は、大里屋 伝次の長男です。名前は、近藤長次郎(ちょうじろう)が基本の名前です。近藤昶次郎(えいじろう)、近藤昶(えい)、上杉宗二労郎(そうじろう)は、亀山社中でよくこの名前を使っていました。当時は、変名をすることが多く、特に勤王運動など反幕府運動をする時は、名前を変えてあちこちへ移動していました。
龍馬も直柔(なおなり)という本名ほか、才谷梅太郎(さいだにうめたろう)、西郷伊三郎(さいごういさぶろう)がありますよね。

千葉佐那について

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坂本龍馬を愛し続け自分の墓に「坂本龍馬室」と記した彼女について知りたいのですが彼女の情報はとても少なく調べるのにとても苦労しています。是非彼女について教えてください。
龍馬は19才の時に江戸へ剣術修行に出ます。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉定吉(さだきち)の千葉道場に入門。龍馬はその千葉家の長女「佐那(さな)」(天保9年~明治29年10月15日)に恋心をもち、乙女姉さんへの手紙にも佐那のことを書いています。
『この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(奉公人と思われる)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴も弾き、絵も上手、それに、静かな人です。』と紹介しています。(文化3年8月14日)文久3年頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったことで、佐那の龍馬への想いが届かなかったのでしょうか、縁が切れてしまいました。それでも佐那は独身を通し、『私は龍馬と婚約していた・・・』と、話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と、一生龍馬を慕って淋しく他界した佐那の墓石(自然石)の裏には、「坂本龍馬室(夫人の意味)」と刻んであります。甲府市朝日5丁目(JR甲府駅から徒歩15分)の、「日蓮宗清運寺」にある墓は、もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家、小田切謙明の夫人の豊次(とよじ)が、無縁仏にならないようにと、自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。
 ※小説で、阿井景子著者 『龍馬のもう一人の妻』(文春文庫)があります。ご覧になってみてください。

千葉佐那さんは、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、1838年(天保9年)に生まれ、1896年(明治29年)に没しました。龍馬より3歳年下になります。兄弟は他に、兄が一人、妹が二人おりました。龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、そこには、千葉佐那女と署名されています。
龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っており、婚約していたことも語られています。1858年か1859年(佐那が21・22歳)に千葉家から結納として短刀一振り、龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。しかし、この年代では少し早すぎるので、実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。
龍馬の手紙では、1863年(文久3年)に佐那さんを乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、"乙女"という名前だったそうです。
「今年26才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力はなみなみの男子より強く、例えて言えば、昔家にいた"ぎん"という女と同じくらい力がある。顔かたちは平井(加尾)より少し良い。さらに、13弦の琴を上手に弾き、14才の時には皆伝していた。そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。その上、静かで、余計なことを言わない人。まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、美人だったと言われており、龍馬も好意を抱いていたようですが、それよりも美人だと紹介しています。"今の平井、平井"とは、「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。
以上のように、すばらしい女性だったようです。それにしてもよほど好きだったのか、誉めすぎくらい誉めていますね。開放的な龍馬らしい手紙で、乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。

ジョン万次郎の所蔵品について

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館内にはジョン万次郎に関して、どのような資料がございますか。
万次郎関係の資料ですが、現在展示中のものは、「ジョン・ハウランド号」の模型と、万次郎が河田小龍に送った「ABCの掛け軸」(複製)になります。展示していないものでは、「漂流記」・「北亜墨利加漂流記」があります。
また以前『ジョン万・小龍・そして龍馬』という3人を取り上げた企画展を行いました。

龍馬と慎太郎の墓にある「藤吉之墓」について

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京都の龍馬と慎太郎の墓と同じ敷地内に藤吉之墓と書いた墓がありますが、これは誰の墓でしょうか。向かって一番左にありました。
「藤吉之墓」ですが、藤吉(とうきち)とは、龍馬が暗殺された近江屋で龍馬たちの用心棒とお手伝いをしていた雇い人(下僕)で、もと相撲をとっていた人だそうです。刺客が来た時、出された名刺をもって龍馬たちの部屋(2階)へ上がろうとして背中から斬られ死んでしまいました。龍馬の仲間たちが気の毒に思い一緒のお墓に葬ったそうです。

坂本家の子孫について

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坂本家の子孫は現在生きているんですか?
とてもご兄弟が多く、現在北海道に3家族、東京にも3家族くらい居られ、神戸にも1家族居られます。神戸の土居晴夫さんは、坂本家一族の本などを書いておられそれぞれ一家ご繁栄です。

龍馬のお葬式の時お龍は

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坂本龍馬のお葬式でお龍はなにをしましたか?
お龍は龍馬が暗殺された時、下関の伊藤助太夫邸に預けられていましたので、お葬式には出席しておりません。

お龍の再婚時期について

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おりょうさんが、松兵衛と再婚したのは明治18年とたいていの本には書かれていますが、『坂本竜馬全集』の「阪本竜馬の未亡人」を読むと、どうしても竜馬が死んだ直後に再婚したとしか思えません。どちらが本当なのでしょうか。西村松兵衛にとても興味があります。何を調べれば、彼のことがわかりますか?教えてください。
まず、お龍の再婚時期についてですが、確かに明治18年となっている本が多いのですが、実際には明治8年に入籍したようです。原本を確認したわけではないのですが、戸籍が資料として紹介されているようですので、かなり信頼できると思います。しかし、入籍が明治8年というだけですので、それ以前から結婚していた可能性はあります。龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚平衛宅などを転々としていましたので、龍馬の死の直後に再婚したということはありません。
次に、松兵衛についてですが、申し訳ありませんが、当館ではほとんどわかりません。松平衛のご子孫の方がいらっしゃるか分かりませんが、そういう方々に直接お聞きする以外方法はないのではないかと思います。また、横須賀市に信楽寺(しんぎょうじ)というお寺があり、そこの過去帳に少し記載があるようですので、ご住職にお尋ねになられたらよいと思います。信楽寺につきましては、当館のホームページからリンクを貼ってある「よこすか龍馬会」のホームページで紹介されています。