千葉佐那について |
カテゴリ:ゆかりの人物について |
坂本龍馬を愛し続け自分の墓に「坂本龍馬室」と記した彼女について知りたいのですが彼女の情報はとても少なく調べるのにとても苦労しています。是非彼女について教えてください。 |
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龍馬は19才の時に江戸へ剣術修行に出ます。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉定吉(さだきち)の千葉道場に入門。龍馬はその千葉家の長女「佐那(さな)」(天保9年~明治29年10月15日)に恋心をもち、乙女姉さんへの手紙にも佐那のことを書いています。 『この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(奉公人と思われる)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴も弾き、絵も上手、それに、静かな人です。』と紹介しています。(文化3年8月14日)文久3年頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったことで、佐那の龍馬への想いが届かなかったのでしょうか、縁が切れてしまいました。それでも佐那は独身を通し、『私は龍馬と婚約していた・・・』と、話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と、一生龍馬を慕って淋しく他界した佐那の墓石(自然石)の裏には、「坂本龍馬室(夫人の意味)」と刻んであります。甲府市朝日5丁目(JR甲府駅から徒歩15分)の、「日蓮宗清運寺」にある墓は、もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家、小田切謙明の夫人の豊次(とよじ)が、無縁仏にならないようにと、自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。 ※小説で、阿井景子著者 『龍馬のもう一人の妻』(文春文庫)があります。ご覧になってみてください。 千葉佐那さんは、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、1838年(天保9年)に生まれ、1896年(明治29年)に没しました。龍馬より3歳年下になります。兄弟は他に、兄が一人、妹が二人おりました。龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、そこには、千葉佐那女と署名されています。 龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っており、婚約していたことも語られています。1858年か1859年(佐那が21・22歳)に千葉家から結納として短刀一振り、龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。しかし、この年代では少し早すぎるので、実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。 龍馬の手紙では、1863年(文久3年)に佐那さんを乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、"乙女"という名前だったそうです。 「今年26才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力はなみなみの男子より強く、例えて言えば、昔家にいた"ぎん"という女と同じくらい力がある。顔かたちは平井(加尾)より少し良い。さらに、13弦の琴を上手に弾き、14才の時には皆伝していた。そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。その上、静かで、余計なことを言わない人。まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、美人だったと言われており、龍馬も好意を抱いていたようですが、それよりも美人だと紹介しています。"今の平井、平井"とは、「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。 以上のように、すばらしい女性だったようです。それにしてもよほど好きだったのか、誉めすぎくらい誉めていますね。開放的な龍馬らしい手紙で、乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。 |
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