生家はどこに

カテゴリ:坂本家について

龍馬の生家はどこですか? 

龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目(はりまや橋から約1.5キロメートル西へ電車通り沿いに行った所)の南側です。
現在、吉田茂元総理大臣の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っています。生家は戦災で焼けて跡形もありませんが、そのあとには上町病院が建っています。

龍馬とお龍の新婚旅行について

カテゴリ:龍馬について
龍馬とお龍の日本初の新婚旅行について教えて下さい。場所と其処を選んだ理由、その地から乙女姉さんに宛てた手紙の内容を教えて欲しいです。また、乙女へ宛てた手紙にある、「きり島の社」は「霧島神宮」ですか?また、「宮もものふり極とふとかりし」の訳と意味を教えて下さい。また、この旅の内容や関係するお話があれば教えて下さい。
【龍馬とお龍の日本初の新婚旅行の場所】鹿児島県恰良郡牧園町の霧島山のふもと周辺を中心とした鹿児島
【場所の理由】薩摩の西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待しました。このあたりは西郷や小松もよく利用していた所です。
【乙女宛ての手紙】
○お龍のおかげで自分の命が助かったこと
○お龍自身のこと(楢崎将作の娘、いま自分の妻、今年26才など)
○薩摩旅行のあらまし
 ・日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉に行ったこと
 ・犬飼の滝の見事さ。塩浸で10日ばかりも泊まり、釣りをしたり、ピストルで鳥を撃って面白かったこと
 ・霧島山に登ったこと(絵入りで紹介)
【霧島神宮について】きり島の社は霧島神宮です。
【宮もものふり】=長い歴史を感じさせるお宮
【極とふとかりし】=大変立派な雰囲気があった
この旅行は慶応2年3月大阪から船で鹿児島へ行き5月末まで、ゆっくりと滞在しますが、帰り際には刀を作らせたり久しぶりに旅行を楽しみました。何日に何をしたかは、「龍馬手帖摘要」という文書に日記風に書かれてあります。

生まれた日、生まれた場所は?

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の生まれた日はいつですか。生まれた場所は?
1835(天保6)年11月15日、郷士坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに亡くなったのは、1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。

銅像の向きとその意味と龍馬人気のひけつ

カテゴリ:龍馬について
(1)龍馬の銅像はどの方向を向いて立っているか、またその意味は?
(2)なぜ龍馬は人気があるのか? 

(1)
東南東の方角を向いています。四国の地図で言いますと、芸西村や北川村を結ぶラインになります。なぜこの方向なのか、銅像建設の中心人物だった入交好保(いりまじりよしやす)さんが語っていますが、アメリカの自由の女神のように、海を眺めるように建てたかったそうです。龍馬は海と船が大好きだったので、海を眺めるのに最高の場所を選んだようです。

(2)
龍馬は柔軟な頭脳と、人並みはずれた行動力を持っていました。それによって、誰も成し遂げられなかった薩長同盟や大政奉還を成功させます。薩長同盟や大政奉還が、よい方法だということを気付いていた人は、当時でも何人もいました。しかし、頭で考えることは出来ても、それを行動に移して成功させることが出来た人はいませんでした。それから、龍馬と同時代に生きた人たちの龍馬の評価を見ますと、龍馬は非常に度胸があって心が広く、器の大きな人間だったことが分かります。西郷隆盛は「度量の大、龍馬に如(し)く者、いまだかつてこれを見ず。」と語っていますが、これは龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない、ということです。他には、龍馬の手紙を読んでいますと、非常に優しいということと、ユーモアにあふれていることが分かります。こうしたことなどが、人気のひけつではないかと思います。

龍馬の性格は?京都とのかかわりは?

カテゴリ:龍馬について

(1)坂本龍馬の性格はわかりますか?また、なぜそう思うのかも教えてください。先生のお考えで結構です。
(2)また龍馬と京都とのかかわりは。

(1)
○龍馬の手紙より
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、非常に細やかな心配りのできる、行き届いた心の持ち主ではないかと想像します。
○龍馬と関わった人物より 
薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」
ということです。 
龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることもあったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。
○生まれ育った環境より
龍馬の性格には、生まれ育った環境にも大いに関係あると思います。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

このような龍馬の性格を生かし、
・優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめきがある。
・やさしさ:「争い」よりは「和」。ひとへの思いやりを持つ。
・目標を立て実現させる。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
につながったと思われます。

(2)
龍馬が京都でかかわった場所、その時の様子を知っていただくには、書籍:『坂本龍馬、京をゆく』 著者:木村幸比古氏(淡文社)に一連の京都のゆかりの地が載っていますので、そちらを見ていただいたら、分かりやすいかと思います。お手数ですが、書店や図書館でご覧ください。

龍馬の遺体搬送と遺族

カテゴリ:龍馬について
龍馬の死後、遺体はどのようにどこへ搬送されたとか、遺族の過ごし方などは?
京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地{現在の護国神社の裏山}に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。尚、墓地には龍馬のほか中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。
遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4ケ月余り後、慶応4年(明治元年)4月から土佐の坂本家に行きました。明治2年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都へ帰り江戸へ出ますがその後、西村松兵衛と再婚し、横須賀で死去。お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

中岡慎太郎の銅像と海援隊と陸援隊

カテゴリ:ゆかりの人物について
中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのか?また、それはなぜか。それと、海援隊・陸援隊の活動または役割について教えてください。
中岡慎太郎の像は南向きに立っています。よく桂浜の龍馬の銅像の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もしそうするには、かなり北西を向かなくてはなりませんが、そうすると銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、もっとふさわしい開けている方角になっているわけです。
海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり商売をしたりしていますが、いざという時は土佐藩を船で応援する役目をもっています。浪人ものでも外国へ行ってみたい人は入ってきてよい、と規則には書いてあります。
陸援隊は土佐藩に属する武力集団で幕府を倒すための戦いに参加する目的でつくられました。中岡慎太郎が隊長ですが、実践は行われませんでした。

龍馬と慎太郎の墓にある「藤吉之墓」について

カテゴリ:ゆかりの人物について
京都の龍馬と慎太郎の墓と同じ敷地内に藤吉之墓と書いた墓がありますが、これは誰の墓でしょうか。向かって一番左にありました。
「藤吉之墓」ですが、藤吉(とうきち)とは、龍馬が暗殺された近江屋で龍馬たちの用心棒とお手伝いをしていた雇い人(下僕)で、もと相撲をとっていた人だそうです。刺客が来た時、出された名刺をもって龍馬たちの部屋(2階)へ上がろうとして背中から斬られ死んでしまいました。龍馬の仲間たちが気の毒に思い一緒のお墓に葬ったそうです。

龍馬とお龍の新婚旅行

カテゴリ:ゆかりの地について
慶応2年のお龍との新婚旅行でどこを回ったか、詳しいコースがあればお教えください。

坂本龍馬手帖摘要(『坂本龍馬の手紙』宮地佐一郎著、P.532掲載。龍馬のメモのようなもの)によれば、以下のようになります。
 ※現代文に直しています

慶応2年
2月29日 夜、伏見邸(伏見の薩摩藩邸)ニ下り乗船。
3月朔日(1日) 大坂。
   4日 三邦丸に乗船。
   5日 朝、出帆。
   6日 夕、下関に泊まる。
   8日 長崎に至る。
  10日 鹿児府(鹿児島)に至る。
  16日 大隅霧島山の方、温泉に行き、鹿児島の東北7里(28km)ばかりのところ、浜の市に至る。但し舟で行く。日当山(ひなたやま)に至る。
  17日 塩浸(しおひたし)温泉に至る。
  28日 霧島山へ出発。霧島温泉所で泊まる。
  29日 霧島山山上に登る。そのあと霧島神宮で泊まる。
  30日 霧島温泉所に帰る。
4月    塩浸(しおひたし)温泉に帰る。
4月 8日 日当山に帰る。
  11日 浜の市に帰る。
  12日 浜の市から舟にのり鹿児島へ帰る。
  14日 改正所(藩の事務所か?)に至る。
5月 1日 桜島丸(さくらじままる)鹿児島に来る。
6月 1日 桜島丸に乗る。このあとは長崎でお龍を下ろし下関へ。(高杉を応援するため)
  17日 関門海峡へ着き、海戦を行う。

脱藩の道四国内の距離は

カテゴリ:ゆかりの地について
脱藩の道は今でも歩ける道なんですか?そして、四国内での距離はどのくらいあるのでしょうか?
脱藩の道は、四国内は伊予長浜まで約170キロメートルといわれています。今でも、歩いて越える道はかなり残っていますので、そこを整備してその町や村が、「脱藩の道を歩こう」といって、催しをやっています。(大体20キロ~10キロくらいにして、あとは車です)新人物往来社から出ている『共同研究・坂本龍馬』という本に、坂本美津子さんという人が地図を入れ、交通機関や役場のことなどを書いてまとめています。催しなどは、関連の役場である、愛媛県河辺村、高知県・梼原(ゆすはら)町などが詳しいです。最近は、愛媛県長浜町も脱藩の港で町おこしを頑張っています。

脱藩の道新説と旧説

カテゴリ:ゆかりの地について

龍馬の生き方にあこがれ、脱藩の道を自分の足で歩いてみたくなりました。概略を書いた本は読みましたが、詳しい道がわかりません。国土地理院等の地図に記してある書籍、資料はありませんか?また、経路には新説・旧説あるとのことですので、そのことも地図上でわかる資料はありませんか?道しるべも整備されているようですがどの程度でしょうか。舗装された道を歩いても面白くないので、往還(と言うのでしょうか)、昔の道を歩いてみたいと思っています。

新人物往来社『共同研究・坂本龍馬』(1997年9月発行)の中にその道筋のわかる説明が載っています。地図は勿論あり、宿泊施設、バスの便、道中での問合せ先など書いてあり、おすすめです。ルートについての意見は色々ありますが、新旧それぞれについて、新人物往来社から新ルート『坂本龍馬脱藩の道を探る』(村上恒夫著)、旧ルート『写真集 龍馬脱藩物語』(前田秀徳著)がありますので、ご参考になさって下さい。尚、脱藩の道は殆どが土の道で、それぞれの市町村が標識をたてています。

脱藩の時白石正一郎宅に寄ったか

カテゴリ:ゆかりの地について
文久2年、龍馬脱藩のときのことですが、4月1日に下関の豪商白石正一郎宅に着いたと、多数の書籍にあります。中には、そのむね白石正一郎日記に書いてあると、明記している書物もあるのですが、下関市編集の正一郎日記には、まったくそんな記述はありません。いったい、どのような資料をもとにいわれていることなのでしょうか。お教えください。
文久2年4月1日、龍馬が白石正一郎邸に到着したという資料は、『坂本龍馬関係文書』二巻(日本史籍会叢書)に出ております。しかし、『白石正一郎日記』には記載されておりません。『坂本龍馬関係文書』と『白石正一郎日記』の資料価値を比較してみますと、『坂本龍馬関係文書』に記載されているものは、坂崎紫瀾(1853~1913)が龍馬の行動を編年体にまとめた「坂本龍馬海援隊始末」がもとになっております。坂崎は『維新土佐勤王史』をまとめた人物でもありますが、資料が無くてわからない所は、想像で補うという事をよく行います。(坂崎に限らず、当時では比較的よくある事のようです。)そういう坂崎の癖から考えても、あまり全面的には信用できない資料だと思います。それに引き換え、『白石正一郎日記』は志士との交友が詳細に記載されており、非常に資料価値の高いものです。それに記載が無いとなると、文久2年4月1日の件は疑問を抱かざるをえません。しかし、坂崎の書いた「坂本龍馬海援隊始末」以外、龍馬の行動がわかるものが無いため、多くの書籍にはそれが引用されているのだと思います。

龍馬の墓と桂浜の龍馬像について

カテゴリ:ゆかりの地について
坂本龍馬のお墓は、現在、どこにありますか?坂本龍馬の銅像も、現在、どこにありますか?教えて下さい。
龍馬のお墓は、京都市東山区清閑寺霊山町、京都霊山護国神社にあります。
坂本龍馬の銅像は、高知市桂浜龍頭岬上に、太平洋に向かって建っています。昭和3年5月27日完成除幕。製作者は本山白雲。高知市宿毛市出身。建設者は、「高知県青年」となっており募金活動の主役は、入交好保さんら4人の大学生でした。銅像の高さ5メートル30センチ、台座を含めた総高は13メートル40センチ。総工費約2万5000円(現在にして7千500万~8千万円)です。

「龍馬ハネムーンウォークin霧島」について

カテゴリ:その他について

坂本龍馬・おりょうの格好をして登山えをすることがあるみたいなんですが、どこにアクセスすればいいんですか?

ご質問の催しは、「龍馬ハネムーンウォーク実行委員会」が主催の「龍馬ハネムーンウォークin霧島」と言います。平成21年3月14日と15日の開催で13回を数えるイベントです。

【お問い合わせ先】
霧島市役所 商工観光部 観光課 観光グループ
電話番号:0995-45-5111(内線2611・2612)
URL http://www.city-kirishima.jp/modules/page057/index.php?id=1