鉄砲と龍馬と薩長同盟

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は、鉄砲の社長だったらしいのですが、実際はどうですか?そこで、薩長の同盟をできたのは、龍馬が多数の鉄砲を西郷隆盛に受け渡り、
高杉晋作に受け、それで、同盟をできたそうです。それは、本当ですか?
龍馬が鉄砲の社長だったのかというお問い合せですが、龍馬は亀山社中(のちの海援隊)の隊長でした。この会社は貿易会社(武器も取り扱っていました)でもあり、海軍でもあり、様々なことが学べる研修機関でもあり、蝦夷(北海道)などを開拓も考え合わせる会社でもありました。このように、一言で言い表せる会社ではありません。
この亀山社中を使って、薩長同盟の一連として、薩摩藩名義で購入した武器や船を長州藩に売るということはしておりました。

龍馬の写真についての研究

カテゴリ:龍馬について

卒論で坂本龍馬の写真について研究しているんですが、資料だけではわからない事がたくさんでてきたので、以下の質問に回答下さい。
(1)坂本龍馬の写真を見て、なぜこの人が「坂本龍馬」だとわかったのか?いつ、どこで、誰が言ったのか?そういう手紙は残っているのか?
(2)龍馬の写真は全部で何枚あるのか?何歳から何歳までの写真が多いのか?どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由は?
(3)龍馬が何度も、何枚も撮る目的、きっかけ、なんのために撮ったのか?みんなに配っていたのか?なぜ長崎県まで行って撮影したのか?龍馬は写真の代金をどうしていたのか?
(4)龍馬の写真は元々どこにあったのか?誰が持っていたのか?いつ頃発見されたのか?

(1)
いつ、どこで、誰が言ったかという質問に答えるのは難しいと思います。この写真はかなり以前から確認されている写真で、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時もこの写真をモデルに製作されています。今、当館で簡単に見ることの出来る本を開いてみると、1912年に発行された『維新土佐勤王史』(瑞山会編)や、龍馬と慎太郎の没後50年祭(1917年)の冊子にも掲載されていますし、おそらくそれ以前の本にも掲載されていると思いますので、いつ、どこで、誰が、ということなく、龍馬の写真ということは自明のことだったのだと思います。当時は維新の志士で存命の人が何人もいました。特に、土佐藩出身の田中光顕は龍馬たちが暗殺された現場に真っ先に駆けつけた人でもあり、当然龍馬と交流のあった人ですが、大変長生きをしていまして、1939年(昭和14年)まで生きていました。銅像の製作時にも関わっていましたし、瑞山会の筆頭で『維新土佐勤王史』にも関わっていました。この瑞山会には明治4年に龍馬の家を継いだ坂本直(龍馬の甥・高松太郎)も参加していました。この人は海援隊士で、1898年まで生きていました。こういう人たちが龍馬の写真として色々なものに掲載していた写真ですので、疑う余地はないと思います。手紙は残っていません。

(2)
何枚かという問いに答えるのは難しいですが、何種類かということなら6種類と言えます。どういう違いがあるかと申しますと、例えば福井で撮られた説のある写真ですが、名刺代わりに人にあげてたものなので、現在は下関市立長府博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(しかし、この鶏卵紙の写真は現在行方不明です)。鶏卵紙の写真は名刺代わりに人に渡していたので、全国にはまだまだ龍馬の写真が存在しているかもしれません。おそらく、どこかに眠っているものがあると思います。
以下、便宜上6種類を次のように表記します。
写真A=立ち姿の写真、桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている)
写真B=イスに座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)
写真C=伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)
写真D=上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)
写真E=海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)
写真F=縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)
何歳から何歳までの写真かについては、確定はできませんが、おそらくすべて慶応元年から3年に撮られたものと推測されています。数え年で31歳~33歳。
どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由については、簡単に分かるのは、写真スタジオの特徴が出ている写真です。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴で、他の人が撮った写真にも登場します。それから、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、写真B、写真C、これら3種類の写真の手前にはすべて段差が確認できます。それから、写真Dは、服装や髷の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられていますので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオだと考えられています。このように写真の背景からどこのスタジオか推測できます。いつ撮られたかもある程度は推測できます。
写真Eはよく分かっていませんが、可能性からすると長崎で撮った可能性が一番高いので、上野彦馬スタジオではないかと考えています。
写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、撮った時期が秋頃と絞られます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されています。となると、慶応3年の秋である可能性が強く、福井に行った時に撮られたのかもしれないと想像されています。ようするに時期的なことから推測したのです。しかし、これは推測の域を出ないものですので、信用することはできません。旅館名などは特定されていません。現在これらの写真を本格的に研究している方がいらっしゃいます。その方は、福井説は完全否定されています。その理由は本として出版する予定ですので、今ここで明かすことはできません。ちなみに、福井で龍馬が利用していた旅館は莨屋(たばこや)旅館ですが、今は残っていません。越前龍馬会の方々が研究の末、所在地を突き止め、現在は碑が建てられています。「よしだ」という懐石料理・仕出しのお店がありますが、その隣です(隣ではなく吉田さんの敷地内かもしれません)。この吉田さんも越前龍馬会の会員です。越前龍馬会のHPでも何らかの情報は得られると思います。

(3)
なんの為に撮ったのか、これらを示す龍馬自身が書いたものは何も残ってないです。
写真は、いろんな人に配っていたようです。当時の人は写真を名刺代わりに渡していたと言われています。龍馬の写真もあちこちの人(龍馬と関係のあった人の子孫)が所有していることから考えて、いろんな人に配っていたと思われます。当時写真を撮る時には簡単に言えば2種類の頼み方があったようです。アンブロタイプか種板の2種類です。当時どういうふうに頼んでいたかは分かりませんが、どちらかを指定することになります。どちらを頼むかによって、用途が違うし、金額も変わります。2種類がどういう違いがあるかを調べれば目的は自ずから想像できると思います。龍馬自身が書いたものが無い以上、そういうことから想像するしかないと思います。
なぜ長崎県まで行って撮影したのかについては、龍馬は長崎の亀山という場所を拠点といていましたので、必然的に地元で撮影したものが多くなっただけだと思います。
龍馬は写真の代金をどうしていたのか?質問(4)と関連しますが、長崎で撮られた写真はおそらく井上俊三が練習で撮ったのではないかと考えられています。そのため、代金は正規の代金を払っていたか疑問を持たれています。

(4)
どこにあったかは写真によって違います。
写真Aは原板を井上俊三が所蔵していたようです。現在高知県立歴史民俗資料館にあるものは、井上家から高知県に寄贈されたもののようです。原板を井上俊三のご子孫が所蔵していたということは、上野彦馬が撮影したものではなく、井上が撮影したものだと考えられます。これもアンブロタイプと種板の性質の違いが関係してきますので、この二つの違いを把握しておいてください。Aの鶏卵紙については所蔵者が分かりません。『坂本龍馬全集』には伊藤盛吉氏所蔵の鶏卵紙が掲載されていますが、現在は不明です。もう一つ、雑誌『太陽』に掲載された別物の鶏卵紙も所蔵者不明です。この写真Aについては発見という言葉は適当でないと思います。以前からずっと確認されていた写真ですから。もともとの所蔵者は、湿板が撮影者の井上所蔵、鶏卵紙は不明。
写真Bは三吉慎蔵のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は三吉慎蔵。
写真Cは、伊藤助太夫のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は伊藤助太夫。
写真Dは、鶏卵紙については所蔵者不明です。しかし、複写されたものの一つは高知県の個人の方が所蔵しています。これは溝淵広之丞の従者の話が写真の縁に書き込まれています。溝淵の関係者が所蔵していたものかもしれませんが、明確には分かりません。他に、明治37年に昭憲皇太后に献上された写真も写真Dの複写だと言われますが、所蔵者を知りません。これはもしかすると宮内庁などに残っているのかもしれませんが、分かりません。
写真Eは所在不明です。複写されたものが現在も色々な雑誌などに掲載されています。もともとの所蔵者やいつ発見されたかは分かりません。
写真Fは、現在は東京龍馬会の個人の方と下関市立長府博物館が所蔵しています。もともとの所蔵者は分かりません。いつ発見されたのかは分かりません。

龍馬のエピソードとミニ情報

カテゴリ:龍馬について
(1)学校でもらった資料集に、大政奉還後、竜馬は新政府の案を西郷に見せたが、龍馬自身の名前はなかった。西郷がなぜかと聞くと、龍馬は「役人は好まないし、自分以外にも向いている人が多くいる。それよりも世界の海援隊でもやろうかな」と答えた。とかいてありますが、それはどういう意味ですか?詳しく教えて下さい。
(2)坂本龍馬の知られざるエピソードやミニ情報を教えて下さい。 

(1)
慶応3年3月6日の印藤肇(いんとうはじめ)宛の手紙には、蝦夷(えぞ、北海道)の開拓のことを書いており、「新しい国を拓く(ひらく)のは前々からやりたいと思っていた自分のライフワークで、1人になってもやりとげたい」と書いていて、この時もチャンスをつくろうとしていましたし、文久3年(1863)から、元治元年(1864)にかけ、その実行ができる準備をしていましたが、仲間を池田屋事件で殺され、計画はダメになってしまいました。このようなことから、政治の争いの中にいるよりも、もっとスケールをひろげ、世界との貿易も考えに入れていたでしょう。慶応3年(1867)11月7日、陸奥宗光(むつむねみつ、有名な外務大臣になる人)にあて、「そのうちに世界のはなしができるようになるよ」ということを、たった1行ですが書き込んでいます。

(2)
(1)龍馬が暗殺された時、鞘(さや)で敵の刀をうけた。その刀は前の年、兄権平(ごんぺい)に、死ぬ時は先祖のものを持って死にたいといって送ってもらった吉行(よしゆき)の刀でした。龍馬が思っていたように、その刀は龍馬の手に握られて、死んでいく龍馬を見守りました。
(2)龍馬は手紙の中の日付を間違えて、ひと月先を書くことがあります。これは太陽暦(たいようれき、今のこよみ)を使っていたせいではないかと思います。
(3)龍馬が勝海舟の弟子になった文久2年から死ぬまでの約5年間に、船で動いた距離は、なんと2万km。これは年表に出てくる移動の距離を足したものですが、地球を半周もしているから、驚きですね。

龍馬の年表について

カテゴリ:龍馬について
龍馬の年表のほとんどが1858~1861の間が書いていないんですが、具体的にどんなことをしていたんですか?
龍馬の年表(1858年~1861年)、この間は、全国的な活動をしていませんので、あまり載せることがないのです。
それでも、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭をゆく、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)のところへ行き、そこで各藩がつぶれても、国がだめになったら何にもならない。そのために志をもつものが、早く行動を起こさないと間に合わないと言って、次の年(1862年)3月24日、江戸へ旅立つのです。

江戸での御前試合の龍馬優勝について

カテゴリ:龍馬について
江戸で開かれた御前試合で龍馬が優勝したと言うのは有名ですが、実際は行われていなかった、というはなしをきいたことがあります。本当のところはどうなんでしょうか?
平尾道雄著 新版「龍馬のすべて」(昭和60年発行、高知新聞社)P.71によれば、山内容堂は剣客を集めて剣道大会(御前試合)を行ったとあります。平尾さんの書いた試合一覧表は、1857(安政4年)の鍛治橋の土佐藩邸で行われたもので、審判員は神道無念流の斉藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人が出ている)、北辰一刀流の千葉栄次郎ら五人で、出場した剣士は、坂本龍馬、桂小五郎など、有名な剣の使い手がずらりと並んでいます。(52試合の組み合わせがのっており、龍馬も桂も勝った事になっている。)この試合表は、平尾さんが土佐藩剣道指南役・石山孫六の養子から提供され、興味をひかれて「海援隊始末記」にはのせたものの、「山内家日記」には、この試合が載っていないこと、その他の剣士の中でその時江戸にいない人も居て、結局これは作りものであるらしいという判断に至りました。
ちなみに龍馬が高知へ帰ったのは、安政5年9月3日です。つまり試合はいろいろあったが、海援隊始末記に載っている御前試合の組み合わせはニセモノということです。

土佐海援隊発行の「和英通韻伊呂波便覧」

カテゴリ:龍馬について
以前、坂本竜馬が書き残した物の中に英語の発音について書かれたものがあるとテレビで見ました。例えば、竜馬はWATERをワラと読んだなどと紹介されていました。そのことが書かれている書物について教えてください。また、それについて書かれている本などがありましたら、ご紹介よろしくお願いいたします。
当館の展示物の中に、和英通韻伊呂波便覧(わえいつういんいろはべんらん)という本があります。発行は、龍馬もいた土佐海援隊ですが、発行年が慶応4年(明治元年・1868年)ですので、実際に龍馬は出来上がったこの本を見ていないはずですが、作る段階では眼を通しているかも知れません。この本は和英辞典のようなもので、ABCからはじまって、時計の見方、英語のことばなどをいれていますが、morning(朝)を「モネン」、evening(夕)を「エブネン」など、発音記号やふりがなつきで、わかりやすく大きな字で書かれています。なおこの本には、waterを「ワラ」と読む例は出てきませんが、ジョン万次郎の取調べの話に出てきたように思います。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

カテゴリ:龍馬について
「世の中の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」という龍馬が作った詩、本当の詩はどんなものなのでしょうか?漢字も含めて教えてください。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

なに=何
ゆはゞ=土佐では言うを、ゆうといいます
いへ=ところがこちらは言へとなっています

和歌を書いた龍馬の筆跡はこうなっています。龍馬記念館でも、複製を作っていますが、時折展示しています。原資料は、京都の国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財(平成11年4月16日答申「龍馬詠草二 和歌」)の一つになっています。その写真をもとに書きましたので、上の通りで間違いありません。

龍馬と河田小龍

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は、ペリーの黒船来航の後、河田小龍を訪ねていますが、それはこの時から日本を何かの形で変えようと思い始め、河田小龍を訪ねたのでしょうか。
黒船が来た嘉永6(1853)年、龍馬は江戸の千葉定吉道場(北辰一刀流)で剣術の修行中でしたが、6月、土佐藩からの命令で品川に出て沿岸警備をしました。この時龍馬は、「黒船との戦いになったら、異人(外国人)の首を取っておみやげにする」という手紙を、父・八平(はちへい)に送っています。
1年の修行を終えて土佐に帰った龍馬は、黒船征伐の方法を聞くため、家が近くにあった河田小龍を訪ねます(1854年)。河田小龍は、漂流生活11年ののちアメリカから帰ったジョン万次郎の取り調べをしたので、外国の知識や蒸気船のこともよく知っていました。漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という取り調べ記録(現在市販されている)もまとめていましたので、河田小龍ならわかるだろうと思ったのです。しかし、答えは「それは無理だ。土佐藩の軍船(いくさふね)では太刀打ちできない。それより龍馬自身が蒸気船を持って、それを使って仕事をすることを考えなさい。乗る人は、私(河田)が町人のせがれを教育して、龍馬のところへ送ってあげる。」と約束しました。龍馬はその教えを実現させるため、8年後、江戸へ出て勝海舟の弟子になり、海軍を創設します。
また河田小龍は、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮(しんぐう)馬之助など、優秀なメンバーを神戸の海軍塾や、龍馬が隊長を務める亀山社中に送り、彼らも龍馬と共に明治維新を目指しました。

薩長同盟・龍馬が日本に与えた影響・郷士の権利について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は何故当時無理だと思われていた、薩長同盟を結ぶことができたと思いますか。龍馬でなくてもできたと思いますか。また、龍馬が日本に最も与えた影響は何だったと思いますか。あと、郷士の権利についても教えて下さい。

『薩長同盟について』
「いま何をすべきか。各藩の体面ばかり考え、国全体の事を考える事を忘れてはいけない。幕府を倒し新しい国(近代国家)にするためには、リードする大きな藩が対立していてはいけない。何が目的かを考えよう。」というような事で、薩摩の西郷と小松(家老)を、龍馬が徹底的に説得しました。(このことは、木戸孝允が龍馬へ書いた、1866年(慶応2年)1月23日付けのお礼状に書いてあります。)気長く自分の考え方を話してわかってもらったのがよかったでしょう。龍馬でなくても出来たかも知れませんが、龍馬は「この国を『日本』にしなければいかん」という事を、ずっと考えつづけていたので、説得力があったのでしょう。

『日本に与えた影響について』
龍馬が日本に与えた事は、「武力討幕」を避けるため、薩長同盟をバックにしながら、まず将軍が幕府を終わりにする事を決め、国内での戦いを避け、平和なうちに新しい国を誕生させるための、船中八策を示した事でしょう。

『郷士の権利について』
郷士坂本家は、本家の才谷屋坂本家から分家したもので、才谷屋三代目直益(八郎兵衛直益・ハチロベイナオマス)の時、郷士の株(権利)を買い求め、次の代の八郎兵衛直海(ハチロベイナオミ)に与え、分家させたという事です。「買い求めた・・・」という内容は、護受け郷士(誰かの権利をゆずりうける)か、郷士の募集に応じた(新規郷士)かは、よくわかっていません。
 ※『南国遺事』にある一文・・・財産を分かちて郷士職を購い。

龍馬の愛刀「吉行」

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の愛刀「吉行」について詳しく知りたいと考えています。

「吉行」についてですが、刀剣の本などには載っていると思いますが、とりあえず高知県人名事典(高知新聞社 平成12年発行)に載っているものからご紹介します。

吉行(1650~1710)刀工、通称、森下平助。吉国の弟として慶応3年、摂津国住吉に生まれた。成人ののち大阪の刀工・初代大和守吉道の門人となる。
やがて陸奥守の受領名をいただき「陸奥守吉行」または「吉行」の二次銘を切った。元禄年間土佐に招かれて鍛治奉行となる。現在の高知市仁井田に田地を与えられて住み、現在のはりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で刀を鍛えた。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり、作は地鉄(ぢがね)細やかに匂い(におい)ありて上手なり」と評価されている。特に丁字刃の名人で直刃や涛欄刃などもあり、切れ味は土佐の刀では最も優れていた。龍馬は慶応2年12月、先祖のものを持って死に臨みたいと手紙を書いて、この刀を兄権平(ごんぺい)に頼んでゆずりうけることになった。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた。西郷隆盛にこの刀をことずけて、西郷は中岡慎太郎らに頼んで龍馬のもとに届けた。慶応3年3月頃からこの刀を大切にもって居たと見られ、龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛ての手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えている。

つねに持っていたこの刀は暗殺された時、床の間にあり龍馬はそれを取って応戦。さやをはらう間もなく相手の刀をうけたが、さやに食い込んだ。敵の刀の先が龍馬の額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えた。

龍馬ブームについて

カテゴリ:龍馬について
明治を迎えてから、大政奉還を成し遂げるにいたった中心的人物が龍馬さんであると、日本人が認識し始めたのはいつ頃だったのですか?また、維新後、一時は忘れられたといわれる龍馬さんの偉業に、多くの人が注目したのは、誰の、何によってなのでしょう?
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。

龍馬はどうして殺されたのか

カテゴリ:龍馬について
なぜ、坂本龍馬は、どうして殺されたのか。教えてください。
龍馬たちを殺したのは、見廻組という説が有力ですが、誰が見廻組に指示を出したのかは分っていません。可能性が高いのは次の4つくらいになりますが、指示を出した人が誰かによって、理由がまったく変わってきます。
【黒幕】
(1)幕府(大政奉還によって幕府を倒された恨みと、寺田屋で龍馬を捕り逃がした恨み)
(2)薩摩藩(武力によって国を変えようとする薩摩と、平和的に変えようとする龍馬の意見の違い)
(3)紀州藩・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み:海援隊の船と紀州藩の船が衝突し、海援隊のいろは丸が沈没したため、紀州藩は大金を払わされた)
(4)土佐藩(龍馬の提案した船中八策を受けて、土佐藩は大政奉還を成功させるが、その手柄を独り占めするため)
他にも色々言われていますが、(1)が一番可能性は高いように思います。

龍馬の干支は?

カテゴリ:龍馬について
龍馬の干支は?辰年ですか、午年ですか?
龍馬の生まれ年は、1835(天保6)年。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)。『ひつじ年』です。辰でも午でもなく、つまり龍馬は干支とは関係ない名前なのです。

土佐藩の身分差別について龍馬は

カテゴリ:龍馬について
土佐藩の身分差別については書籍やこちらのホームページでも読みましたが,龍馬自身はその差別制度や上士から下士が虐げられるというようなことに対して、不満や怒りが明確にあったのでしょうか?だとしたら理想実現のためとはいえ、後藤象二郎はじめ土佐藩と手を組む道を選んだ当初は、やはり許せない怒りみたいなものもあったのでしょうか?そして他の海援隊士も同様だとすれば,その隊士たちは龍馬の「土佐藩と手を組む」という策を容易に受け入れることが出来たのでしょうか?
下士の身分について、龍馬も常々矛盾を感じていたと思います。『新しい国をひらくのが私のライフワークだ』と手紙にも書き、蝦夷(北海道)の開拓を実現したいと考えていましたが、そうした差別のないテリトリーを創る意味もあったでしょう。
また、文久3(1863)年6月29日乙女宛の手紙には『土佐の芋ほりともいわれぬ居候に生まれて、一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり』(芋ほりのような身分の低い郷士の二男坊という、兄に養われている僕でも、やり方によっては国の改革はできる。)と言っています。これも「身分は低くても頑張ってやれば・・・」というバネの力を表しています。実際にこのことが慶応3年6月、【船中八策】の発表として実現しました。これは、あの手紙を書く少し前に、越前福井で聞いた【国是七条】を龍馬なりにまとめ直したもので、《武力を使わず幕府が政権を朝廷に帰すこと》で新政府を作ることができれば、国力の低下を招くことなく、外国から侵略されることなく、新しい時代を迎えられることを示しています。「なんとしても内乱を避けないと、外国が入り込んでくる・・・」ということで、西郷や木戸も一旦は龍馬の考えに任せました。
この【船中八策】は【大政奉還建白書】となり将軍に提出され、慶応3年10月13日、将軍慶喜は《無条件で政権を朝廷に返す》ことを発表。ここで幕府は終止符を打ちました。
後藤象二郎は、この動きの中心となった人物で、龍馬も将軍へのルートは土佐藩を通らなければならないことを充分承知していましたので、慶応3年2月、長崎で会談した時、亀山社中のメンバーには「勤王党を弾圧した男(後藤象二郎も含む)を斬れ」という意見もありましたが、龍馬は「将来のことを話し合うべきだ」として、これを説得しました。 勝海舟の『江戸城無血開城』で、江戸が戦火から免れたのも、この考え方が西郷に理解されていたからでしょう。

生家はどうしてつぶれたのか

カテゴリ:坂本家について
龍馬の生まれた坂本家はもう無いと言うのは聞きましたが、いつどうしてつぶれてしまったんですか?土佐でも有数の大金持ならそうそうつぶれたりしないのでは?
土佐でも有数の大金持ち・・・であったかどうかは別として、本家の才谷屋(サイタニヤ)は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落。坂本家(龍馬の家)は残りましたが、龍馬の兄・権平(ゴンペイ)のあとを継いだ直寛(ナオヒロ・養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31~32年にかけ一家をあげて移住し、当初札幌の北、浦臼(ウラウス)に移り住みました。その後一家は札幌にも移り、いまでも本家は北海道です。高知の家はその後売却され、戦災にあって、いまはそのあとに病院が建っています。

生家はどこに

カテゴリ:坂本家について

龍馬の生家はどこですか? 

龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目(はりまや橋から約1.5キロメートル西へ電車通り沿いに行った所)の南側です。
現在、吉田茂元総理大臣の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っています。生家は戦災で焼けて跡形もありませんが、そのあとには上町病院が建っています。

「龍馬」と「良馬」

カテゴリ:龍馬について
「龍馬」は最初は「良馬」と書いていたという事実があったかどうか教えて下さい。
「良馬」という字が使われているものをあげますと、勝海舟「坂下良馬」(氷川清話より)、木戸孝允「坂本良馬」(何通かの手紙など)、などとなります。なぜ「良」の字を使ったのかは、りょうまの「龍」の字は「りゅう」と読むのが一般的なので、「りょう」と読むのが一般的な「良」の字を他の人は使ったのでしょう。また龍馬は、よく「りゅうま」と呼ばれる事がありますが、「りゅうま」という呼び方は明治16年に発行された龍馬の小説第一号「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」坂崎紫瀾(さかざきしらん)に、紫瀾がふりがなしたものが定着したと思われます。
しかし正しくは「りょうま」で当然本人(姪への手紙で「りょふ」)は勿論、付き合った人々もそう言っていました。

龍馬は「りょうま」

カテゴリ:龍馬について
龍馬という名前は一見すると「りゅうま」と読んでしまいますが、実際には「りょうま」ですよね。ではなぜ坂本龍馬の場合は「りょうま」と読む事が分かったのでしょうか?私が知らないだけで龍馬の手紙や書物の中に「りょうま」とフリガナをふった物があるのでしょうか。それとも、ただ単に龍馬を知る生き証人の方がいて、これは「りょうま」と読むと伝えたのでしょうか?
慶応3年1月20日付、姪・春猪(はるい)宛ての龍馬の手紙には、文末に『正月 廿日(はつか)夜 りよふより 春猪様』 と書いてあり、「りよふ」は、今の仮名遣いでは「りょう」と書きますので、「りょうま」となります。

龍馬銅像の懐手について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬銅像の懐手についての本当の理由はなんですか?
龍馬の懐手については、一般に「鉄砲を持っている」「寺田屋で負った傷を隠している」「万国公法(本)を持っている」という3つの説がよく言われますが、本当のところはわかりません。

龍馬とお龍の新婚旅行について

カテゴリ:龍馬について
龍馬とお龍の日本初の新婚旅行について教えて下さい。場所と其処を選んだ理由、その地から乙女姉さんに宛てた手紙の内容を教えて欲しいです。また、乙女へ宛てた手紙にある、「きり島の社」は「霧島神宮」ですか?また、「宮もものふり極とふとかりし」の訳と意味を教えて下さい。また、この旅の内容や関係するお話があれば教えて下さい。
【龍馬とお龍の日本初の新婚旅行の場所】鹿児島県恰良郡牧園町の霧島山のふもと周辺を中心とした鹿児島
【場所の理由】薩摩の西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待しました。このあたりは西郷や小松もよく利用していた所です。
【乙女宛ての手紙】
○お龍のおかげで自分の命が助かったこと
○お龍自身のこと(楢崎将作の娘、いま自分の妻、今年26才など)
○薩摩旅行のあらまし
 ・日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉に行ったこと
 ・犬飼の滝の見事さ。塩浸で10日ばかりも泊まり、釣りをしたり、ピストルで鳥を撃って面白かったこと
 ・霧島山に登ったこと(絵入りで紹介)
【霧島神宮について】きり島の社は霧島神宮です。
【宮もものふり】=長い歴史を感じさせるお宮
【極とふとかりし】=大変立派な雰囲気があった
この旅行は慶応2年3月大阪から船で鹿児島へ行き5月末まで、ゆっくりと滞在しますが、帰り際には刀を作らせたり久しぶりに旅行を楽しみました。何日に何をしたかは、「龍馬手帖摘要」という文書に日記風に書かれてあります。

生まれた日、生まれた場所は?

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の生まれた日はいつですか。生まれた場所は?
1835(天保6)年11月15日、郷士坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに亡くなったのは、1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。

「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」

カテゴリ:その他について
龍馬の言葉の中で、「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」という言葉があるらしいのですが、そのような言葉をどういった背景で、どのような心情で語ったのか、お教え下さい。
この言葉は、『英将秘訣』の中の言葉ですので、龍馬の言葉ではありません。『英将秘訣』については、別の方への回答を参照してください。

銅像の向きとその意味と龍馬人気のひけつ

カテゴリ:龍馬について
(1)龍馬の銅像はどの方向を向いて立っているか、またその意味は?
(2)なぜ龍馬は人気があるのか? 

(1)
東南東の方角を向いています。四国の地図で言いますと、芸西村や北川村を結ぶラインになります。なぜこの方向なのか、銅像建設の中心人物だった入交好保(いりまじりよしやす)さんが語っていますが、アメリカの自由の女神のように、海を眺めるように建てたかったそうです。龍馬は海と船が大好きだったので、海を眺めるのに最高の場所を選んだようです。

(2)
龍馬は柔軟な頭脳と、人並みはずれた行動力を持っていました。それによって、誰も成し遂げられなかった薩長同盟や大政奉還を成功させます。薩長同盟や大政奉還が、よい方法だということを気付いていた人は、当時でも何人もいました。しかし、頭で考えることは出来ても、それを行動に移して成功させることが出来た人はいませんでした。それから、龍馬と同時代に生きた人たちの龍馬の評価を見ますと、龍馬は非常に度胸があって心が広く、器の大きな人間だったことが分かります。西郷隆盛は「度量の大、龍馬に如(し)く者、いまだかつてこれを見ず。」と語っていますが、これは龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない、ということです。他には、龍馬の手紙を読んでいますと、非常に優しいということと、ユーモアにあふれていることが分かります。こうしたことなどが、人気のひけつではないかと思います。

龍馬愛用の銃は

カテゴリ:展示資料について
龍馬が愛用していた銃は今どこに?
龍馬が所持していた短銃は、紛失と焼失により現存しません。寺田屋事件で使用し紛失したのが、(1)スミス&ウエッソン第Ⅱ型(32口径)弾は六連発で、慶応元年に初めて持った短銃になります。大正2年の釧路大火で焼失したのは、(2)スミス&ウエッソン第Ⅰ1/2型ファースト・イッシュー弾は五連発で、近江屋暗殺の際も、所持していたものです。
龍馬記念館地下2階展示室では、龍馬所持の短銃の模型として、(1)スミス&ウエッソン第Ⅱ型と、(2)スミス&ウエッソン第Ⅰ型(龍馬が死ぬまで所持していた第Ⅰ1/2型とほぼ同じ長さのもの)をご覧頂けます。

脱藩するまでの生計は

カテゴリ:龍馬について
龍馬が19歳の時、江戸へ剣術修行へ行って帰ってからの龍馬の職業は何ですか?龍馬はどのようにして脱藩するまでの間、生計を立てていたのですか?
職業はありません。当時は長男がその家を継ぐので、龍馬の兄権平(ごんぺい、龍馬とは21才差で、親子ほど年齢が違います)が、坂本家の家計をにぎっていたわけですが、龍馬は『居候』(いそうろう)となって、父や兄に養われていました。【長男が家系を継ぐ】というのが一般の慣わしで、二男からは居候という身分が多いのですが、そのままいつまでもは大変なので、他家へ養子にいってその家を継ぐとか、剣道などを教える道場を開いて独立する、自分の習得した技術で身を立てるなどしていたようです。龍馬は、勝海舟の門下生になってからは、その仕事で収入が得られましたし、亀山社中になってから(慶応元年1865~)は、薩摩藩から3両2分(当時、1両=5万円程度と考えれば3両2分は17万5千円ぐらい)をお給料として貰っていたようです。

龍馬の性格は?京都とのかかわりは?

カテゴリ:龍馬について

(1)坂本龍馬の性格はわかりますか?また、なぜそう思うのかも教えてください。先生のお考えで結構です。
(2)また龍馬と京都とのかかわりは。

(1)
○龍馬の手紙より
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、非常に細やかな心配りのできる、行き届いた心の持ち主ではないかと想像します。
○龍馬と関わった人物より 
薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」
ということです。 
龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることもあったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。
○生まれ育った環境より
龍馬の性格には、生まれ育った環境にも大いに関係あると思います。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

このような龍馬の性格を生かし、
・優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめきがある。
・やさしさ:「争い」よりは「和」。ひとへの思いやりを持つ。
・目標を立て実現させる。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
につながったと思われます。

(2)
龍馬が京都でかかわった場所、その時の様子を知っていただくには、書籍:『坂本龍馬、京をゆく』 著者:木村幸比古氏(淡文社)に一連の京都のゆかりの地が載っていますので、そちらを見ていただいたら、分かりやすいかと思います。お手数ですが、書店や図書館でご覧ください。

龍馬直柔とは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の名前の下に直柔とありますが、この直柔とは何ですか?
また、女の子にも直柔のように名前の下にまた名前を付けるとういう風習があったのですか?もしあれば乙女姉さんやお龍さん達の下の名前が知りたいと思います。
この風習がいつまで続いたのか分かれば教えて下さい。

普通、武士と呼ばれる人達は2~3の名前を持っていました。
 (1)子供の頃から普段呼ばれている名 『幼名、通称』=「龍馬」
 (2)正式な手紙などの署名に使用する名 『実名、諱』=「直柔」
 (3)絵や詩を書いた時などに使用する名 『号』=「自然堂」
 (4)追われる身の為、隠れみのとする名 『変名』=「才谷梅太郎」等
「直柔」(なおなり)とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの『諱』(=【いみな】その人の生涯の幸福を祈って好い音義の字を選んで用いたようです)をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。
最初は「直陰」(なおかげ)と名付けたようで、慶応元年12月頃(龍馬31才頃)までは、この「直陰」を使っていたようです。「直柔」に変わるのはそれ以後のことと思われますが、いつ変えたのかは資料として残っていないので、はっきりとは分かりません。
龍馬の手紙は、現在139通が確認されていますが、「直柔」という署名を使った手紙は慶応2年10月5日が最初のようです。諱を署名した手紙は、「直陰」=4通、「直柔」=9通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。
なお、坂本家の6代目以降の男子は皆、「直」の字が付けられています。【9代目=龍馬の父は「直足」、10代目=龍馬の兄は「直方」】
『諱』を付けることは一部の武家、公家の慣習です。女子に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。
武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

龍馬をしのんだ漢詩

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の残した、あるいは他の方の残された四行、八行の漢詩があれば教えて下さい。
龍馬の和歌は10数通ありますが、漢詩はありません。書軸などであったとしても、それは本物ではない可能性が強いです。龍馬以外では、勝海舟が龍馬の死後15年経った時、龍馬をしのんで詠んだ四行詩を残しています。参考までに、その時の勝海舟の漢詩を書きだしてみます。<参考資料>『龍馬百話』著者:宮地佐一郎氏

「日月如転丸(日月は転丸の如し) 追想豈漠然(追想、豈漠然たり) 一龍蓋棺後(一龍、棺を蓋って後) 既過十五年(既に十五年を過ぐ)」
   

近江屋襲撃時の龍馬の刀と鞘

カテゴリ:龍馬について

「お-い!竜馬」や、以前一度写真で見たんですけど、龍馬の刀は近江屋襲撃時に暗殺者の刀を刀で受け鞘が切れていたと思うんですけど、京都国立博物館で龍馬の刀を見たら鞘の部分は全然切れていなっかたのです。これはただ単に後に修理したっていうことですか?それとも京都国立博物館の龍馬の刀は重要文化財からはずされていたのでその辺にも何か関係があるのかと思います。

近江屋で襲われた時、鞘のまま敵の刀をうけとめたのは吉行の刀です。これは坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行きました。北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやっていました。その中に切り込まれた刀の鞘(龍馬写真集にも載っている)も展示され、死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストル、鞘から出した刀なども写真に写っていましたが、残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまいました。
国立京都博物館の鞘はのちにつくったもので、その鞘には大正2年の火災のことを書いてあります。刀は焼け跡から取り出されて、打ち直されたものを展示してあるはずですが、重要文化財指定から外れたということです。

お龍との出会いと龍馬没後のお龍

カテゴリ:龍馬について

龍馬とお龍が出会ったのは、2人が何歳のときですか。また、龍馬が亡くなった後、お龍は龍馬からの手紙などを燃やしたと本に書いていたのですが、それはなぜですか。

龍馬がお龍と知り合ったのは、文久2年(1862)7月お龍の父親が、勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、獄中で病死した後になります。お龍の母が志士たちの隠れ家だった方広寺へ、食事などの世話をするために通っており、文久3年(1863)(龍馬28歳、お龍23歳)にそこで龍馬とお龍は出会ったと考えられます。お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとありますが、龍馬の手紙でお龍のことを妻と明記するのは慶応2年(1866)12月4日の手紙からです。慶応元年(1865)9月9日の姉乙女へ宛てた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、詩の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2年(1866)1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人達に取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げる事が出来ました。龍馬は、命の恩人となったお龍とこの事件の後結婚したようです(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周り中知らない人で、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、芸西村(高知から東へ車で45分位の所)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄った後、土佐から離れました。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて過去を清算したかったのでしょう。

龍馬の遺体搬送と遺族

カテゴリ:龍馬について
龍馬の死後、遺体はどのようにどこへ搬送されたとか、遺族の過ごし方などは?
京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地{現在の護国神社の裏山}に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。尚、墓地には龍馬のほか中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。
遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4ケ月余り後、慶応4年(明治元年)4月から土佐の坂本家に行きました。明治2年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都へ帰り江戸へ出ますがその後、西村松兵衛と再婚し、横須賀で死去。お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

明治維新に向けて出会った人達

カテゴリ:ゆかりの人物について
(1)龍馬はどのようにして幕府を倒し、どのような人々と会ってきたのか?協力してきたか?
(2)その人々とはどのような関係になっていったか?
(3)龍馬からみた明治の世の中は?

(1) 
龍馬はまず、力の有る薩摩藩と長州藩を結びつけることによって(薩長同盟)、幕府に対抗できる大きな勢力を作り上げました。そして、最新式の武器を長州藩に運びました。その際に、共に協力をしあった人は、薩摩藩では、西郷隆盛・小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩では、桂小五郎・高杉晋作などがいました。

(2)
高杉晋作は龍馬が暗殺される前に死んでしまいますが、他の人とは協力しあう関係は変わりません。

(3)
憲法の制定や、議会の開設など制度の面では、近代的な国家を目指して、着実に前進しつづけた明治政府ですので、龍馬も不満はないのではないかと思います。しかし、それらを行う政府の指導者は、いつまでたっても「藩閥政府」と呼ばれたように、薩摩藩と長州藩の出身者ばかりでした。「平等な世の中」を作りたかった龍馬としては、理想の世の中とはだいぶ違っていたのではないでしょうか。
また、明治時代は世界的に帝国主義(他の国に戦争を仕掛けて侵略していくこと)が流行し、日本もその流れに乗って、朝鮮や中国を侵略していきます。これは平和を愛した龍馬の考え方とはかけ離れたものですので、龍馬は、間違った方向へ進んで行く明治政府を苦々しい思いで見ると思います。

龍馬についての質問~中学生より~

カテゴリ:龍馬について
(1)坂本龍馬が、最も尊敬した人物は誰ですか。(私見で結構です。)
(2)現代に龍馬がいたとしたら、どんな生き方をしていると思いますか。(先生の考えで結構です。)
(3)海と船が好きなのは、外国にあこがれていたからですか。
(4)龍馬が行きたいと考えていた国はどこですか。
(5)龍馬はどんな性格でしたか。また、それは生育歴と関係していますか。
(6)どんな食事を好みましたか。
(7)記念館の先生は、龍馬のどんなところが好きですか
(8)龍馬のエピソードで先生が一番好きなものは何ですか。

【三浦学芸員回答】
(1)
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
 ◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
       ※本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
 ◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
  ・大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
  ・横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。

(2)
現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。

(3)
龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。

(4)
龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国などとは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。

(5)
龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問  坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答  過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。

(6)
これは全く分りませんし、想像もできません。

(7)
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。

(8)
最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
 
【故・小椋前館長回答】(2)と(7)のみ
(2)
現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。

(7)
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ  :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)

江戸剣術修行と河田小龍との出会い

カテゴリ:ゆかりの人物について
龍馬は当時閉鎖的と思われた土佐から江戸に留学に行っていますがそのきっかけ、背景は何があったのですか?龍馬自らの意思でいったのですか?また河田小龍と会ったのは、江戸に行く前ですか?帰ってからですか?
江戸行きが誰の意志だったかは、明確には分りません。しかし、単純に想像すれば父・八平の意志だったのではないかと思います。この当時、家は普通長男が継ぎ、財産もすべて長男が相続する事になっていました。次男以下はどこかに養子に行くか、芸で身を立てない限り、一生居候として過ごす事になり、兄のやっかいにならなければなりません。龍馬の場合、14歳から始めた剣術が性に合っていたようで、めきめきと腕を上げます。こうなると、父親は「剣で飯が食えるようにしてあげたい」と考えても不思議は有りません。しかし、江戸へ修行に出してあげられるというのは、かなりの財力があったから出来たことです。龍馬がどんなに江戸へ修行に行きたくても、1年以上も江戸に滞在するには莫大なお金がかかります。それを許可したのはまぎれもなく父・八平です。
次に他の要素を考えてみますと、龍馬には開明的なアドバイスをしてくれる人が周りにいたことが分ります。先日、60年ぶりに発見された1863(文久3)年8月19日・川原塚茂太郎〔もたろう〕宛ての龍馬の手紙に、次のようにあります。
「(前略)又兼て雅兄か御論にも土佐一国にて学問致し候へは一国たけの論がいで世界を横行すれば又それたけの目を開き自ら天よりうけ得たる知を開かずばならぬとは今に耳に残り居り申し候。(後略)」
川原塚茂太郎は、兄・権平の妻の弟で、龍馬にとっては義理の兄にあたります。茂太郎は、「土佐一国で学問をしていたら、限られた知識しか得られないが、世界を横行すれば、世界の知識が得られる。天から授かった能力を大いに活用しなければならない。」と龍馬に語っており、龍馬はこの言葉がずっと耳に残っていたようです。「狭い土佐から出て、大いに見聞を広めなさい。」ということです。龍馬は金銭的な面でも、人の面でも恵まれた環境にあったのだと思います。
最後になりましたが、河田小龍といつ会ったかですが、これは1回目の江戸留学が終わってからになります。1854(安政元)年6月23日(20歳)に高知へ帰省し、この年の秋に小龍を訪ねます。正確な月日は分っていません。そして、1856(安政3)年8月20日(22歳)再び江戸へ向かいます。

坂本家と明智家

カテゴリ:龍馬について

私が以前見た本には坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔で本能寺の変ののち、土佐に逃れ光秀の居城の坂本城の地名坂本を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり坂本家の桔梗紋は明智に由来する書いてありました。これは本当のことでしょうか?(長野県 男性 34歳)

坂本家の御先祖様は明智家と何か繋がりがあるのでしょうか。当時の土佐は海路しか無く、そこまでして移住したのは何故でしょう。 (神奈川県 男性 60歳)               

そのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年~1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年~1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。

海外へ行きたかった龍馬

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬はアメリカ行ったことがありますか?
龍馬はアメリカは勿論、一度も海外へは行ったことがありません。
しかし、先日60年ぶりに発見された川原塚茂太郎宛書簡には、海外にたいする思いが次のように語られています。
「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、 これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」
この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしているのです。
このように、龍馬は海外へ行きたいという夢は抱いておりましたが、残念ながらその夢がかなうことはなかったようです。

紋服からみる龍馬の体型

カテゴリ:龍馬について
龍馬のスリーサイズ、体重は?
残っている紋服などから以下の様に想像されます。
 身長=173cm 体重=約80kg
以下、紋服の寸法です。
 着丈=149cm 肩巾=32cm 袖丈=50cm 袖巾=33.5cm 裄丈=65cm 前巾=26cm 後巾=30.5cm
実際のスリーサイズまではわかりませんが、ご参考になさって下さい。

龍馬のあだ名は?

カテゴリ:龍馬について
龍馬の子供の頃のあだなは?
子どもの頃は分かりませんが、青年時代には、龍馬は武市から"痣(あざ)"とよばれていたということが、『維新土佐勤王史』に出てきます。痣(あざ)とはホクロのことですが、龍馬の妻であるお龍が、龍馬の死後に語った言葉に「龍馬は眉の上に大きなイボがあり、顔にはホクロがボツボツあった。」というのがあります。

「酒と女を愛さぬ男は人生の半分を損をする」は龍馬の言葉?

カテゴリ:龍馬について
「酒と女を愛さぬ男は人生の半分を損をする」というのは龍馬の言葉ですか?
この言葉は、館長をはじめ職員一同聞いたことがありませんし、龍馬関係の本をいくつか調べてみましたが、見つかりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、お教えください。

龍馬の変名

カテゴリ:龍馬について

龍馬はいくつ変名を使っていたのですか。

「西郷伊三郎」さいごういさぶろう(この名前で手紙を送ってほしいと家族に依頼)
「才谷梅太郎」さいだにうめたろう(手紙の署名として使用)
「取巻の抜六」とりまきのぬけろく/慶応2年11月(手紙の署名として使用)
「大浜涛次郎」おおはまとうじろう/慶応3年5~6月(手紙の署名として使用)
「高坂龍次郎」たかさかりゅうじろう/慶応3年2月(手紙の文中に登場)

「自然堂」じねんどうかじぜんどう(自分の居た下関の家の名前)は龍馬の号

以上、変名5種類、号1種類になります。

龍馬のまげ

カテゴリ:龍馬について

坂本龍馬のマゲは平べったいですよね?でも他の人々は普通のマゲのように見えます。やはり、身分やその藩によって色々あるのでしょうか?マゲの種類や、どう違うか教えて下さい。

普通武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を剃り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせてまげにします。龍馬は月代を作らず、髪全部を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐でまげをしているかどちらかで「総髪」(そうはつ)と言っています。龍馬は浪人という自由な身だったので、まげを自由にしていたのではないでしょうか。なお、まげは藩によっての流行の違いがあり、土佐藩では月代を細く剃るのが流行でした。また、身分でも違いがありました。

龍馬の本でお勧めは

カテゴリ:龍馬について

龍馬の本当を知る、お勧めの本は?

龍馬研究の本は色々出版されており、私達でも迷うくらいですが、次の4冊をお勧めします。
 ・土居晴夫氏著 『坂本龍馬の系譜』 (新人物往来社)
 ・山田一郎氏著 『坂本龍馬 ― 隠された肖像 ― 』 (新潮社)
 ・平尾道雄氏著 『坂本龍馬のすべて』 (高知新聞社)
 ・新事物往来社編 『共同研究・坂本龍馬』 (新人物往来社)
さらに挙げるとすれば、
 ・池田敬正氏著   『坂本龍馬』(中公新書)
 ・平尾道雄氏著   『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)
 ・飛鳥井雅道氏著  『坂本龍馬』(福武書店)
以上の3冊になります。またこの他にも沢山良い研究書もございます。ぜひ色々な本をご覧になってみて下さい。

龍馬に子供はいたか

カテゴリ:龍馬について
龍馬に子供はいたのか?
龍馬はお龍と結婚はしましたが、子供はいませんでした。他の女性との間にも子供はいません。ただ、養子として、明治4年8月に龍馬の姉、千鶴の息子「高松太郎」が朝廷の沙汰により坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名しました。

外国での龍馬の知名度と龍馬という名前の人は

カテゴリ:龍馬について

外国で龍馬はどれぐらい知られているか?また現在全国に龍馬という名前の人は何人位いますか?坂本龍馬が生きていた当時、龍馬という名前は一般的な名前だったのですか?それともやはり当時から龍馬という名前はめずらしかったのでしょうか?

外国では龍馬はあまり知られていないでしょう。1950年~60年代にアメリカの学者で中国や日本を研究したマリアス・B・ジャンセンさん(故人、元プリンストン大学教授)が「坂本龍馬と明治維新」という本を英文で出しています。(日本語訳は時事通信社)外国人としては世界ではじめて龍馬の研究をした人で、大変詳しい方です。日本にもよく来られ高知でも色々調べています。最近では、アメリカ人のロミュラス・ヒルズボロウさんが「Ryoma」という英文の小説を出しています。読みやすく・わかりやすい本で「龍馬を知らない外国人が多すぎる・・・」と言って悔しがっていたようです。
龍馬という名前ですが、これは、わかりかねます。「龍」は伝説の動物ですから当時でもこの字を使う名前は珍しかったのでは・・・
ちなみに、過去1年間に当館に入館されてメッセージを残してくれた方の中に「龍馬」・「竜馬」という名前の方が6人いらっしゃいました。

龍馬は人を斬った事があるか

カテゴリ:龍馬について

龍馬は人を切ったか?

龍馬が人を切ったという記録は、海援隊士・関義臣の回顧録に出てきます。他人の妻と関係を持った水夫を斬ったというものです。また、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦をし、奉行所の役人を撃っています。刀は、脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった・・・」と龍馬が兄の権平宛に手紙(慶応2年12月4日)を書いています。

龍馬の血液型は

カテゴリ:龍馬について

龍馬の血液型は何型ですか?

血痕のある屏風・掛け軸(京都国立博物館蔵)についている血痕を調べれば(DNA鑑定)わからないことはないと思うのですが、実際には調べていません。もし鑑定をしたとしても、掛け軸の血が本当に龍馬の血であるという証明は、お墓を掘りおこして骨か毛髪などの残っている物と照合しない限り断定ができません。したがって、掛け軸の鑑定だけでは意味がないので鑑定を行わないのではないかと想像します。答えは今のところ「わからない」です。

龍馬の家紋について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の家紋は?家紋の名前を教えてください。

龍馬の家紋(坂本家の家紋)についてですが、名称は、「組み合わせ角に桔梗紋(くみあわせかくにききょうもん)」といいます。この紋章は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。

坂本家の家紋に付いてですが、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年経って亡くなった直益の妻・さわの墓に付いているものが、確認できる最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えると、時期的に近いので丁度良さそうなのですが、断定できるまでには至っておりません。桔梗紋は美濃の土岐氏が用いていた家紋で、美濃地方に多い家紋になります。同じ美濃出身の明智家も桔梗紋で、明智後裔説のある坂本家も桔梗紋にしたとも言われていますが、実際のところは分りません。

龍馬の立像写真について

カテゴリ:龍馬について

龍馬の写真(よく見る立像写真)について、わかれば撮影場所、時期、撮影者などお教えいただけませんか?

一般的に言われている説では、1866年(慶応2年)頃に、長崎の上野彦馬によって撮影されたということになっております。
上野彦馬は、幕末当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬"と並び称された名写真家の一人でした。その上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がおり、他の土佐藩出身の人々は、井上に無料で写真をとってもらうことがよくあったようです。龍馬の写真も、スタジオは間違いなく上野彦馬のスタジオですが、撮影者はこの井上だという説があります。龍馬の立像写真の原板(湿板)は井上家に保存されていましたので、撮影者は井上俊三と考える方べきだと思います。

龍馬の名前「龍馬」と「竜馬」

カテゴリ:龍馬について

坂本龍馬の名前の表記でときどき「竜馬」とやさしい漢字の「竜」を使われているのが見られます。正式には「龍馬」とは思いますが「竜馬」と名乗った時期があるのでしょうか?小説「竜馬がゆく」からきたのでしょうか?

りょうまの名前ですが、どちらの方が正しいと断定する事は坂本龍馬記念館という立場上難しいかもしれませんが、当館では以下のような考えに基づき展示等を行っています。
「龍馬」と「竜馬」についてですが、龍馬自身は「竜」の字は一度も使ったことがありませんので、当館では「竜馬」という表記は絶対しないようにしています。しかし、新字体として制定されているのは「龍」ではなく「竜」の方ですので、教科書や新聞などでは、「竜」の字を使うことがあると思います。当館は拘って「龍馬」と表記していますが、歴史上の人物すべてを旧字で表記することは不可能ですので、他の人に対しては新字体で表記していることが多々あります。

「竜馬」が一般的になったのはやはり、司馬遼太郎氏が書いた「竜馬がゆく」の影響だと思います。司馬氏は「小説の中では僕のリョウマを動かすのだから竜馬にした」と語っておられたそうで、実在した龍馬と架空の竜馬を漢字によって区別したそうです。

龍馬の所持品について

カテゴリ:龍馬について

龍馬は靴や最新式の拳銃を所持していたといいますが、どのようにして彼の手に渡ったのでしょうか。また、拳銃の使い方は、外国人から教わったのですか、それとも書物で読んだのか、日本にあった鉄砲と同じような使い方だったのでしょうか。

龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴につきましては、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。拳銃につきましては、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡[1866年(慶応2年)2月6日]の中で、「かの高杉より送られ候ビストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の1865年(慶応元年)に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。」[1866年(慶応2年)12月4日]と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。
龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘董斎について砲術を習っていますので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867年(慶応3年)6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。

龍馬最後の言葉

カテゴリ:龍馬について
龍馬が近江屋で中岡慎太郎といたところを刺客に襲われ暗殺されるのですが、その際の最後の言葉を教えて下さい。刺客に襲われ深手を負いもう駄目だと自覚した際の言葉です。そういった言葉はなかったのでしょうか?
龍馬の最後の言葉ですが、龍馬はほぼ即死でしたが、一緒に襲われた中岡慎太郎は龍馬よりも2日長く生きており、意識もはっきりしていましたので、襲われた時の様子を駆けつけた人に語っています。その話をまとめたものの中から、龍馬の最後の言葉を抜き出してみます。
まず、『谷干城遺稿』明治45年(1912年)ですが、「すっと起上って行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、石川(中岡の変名)刀はないか、刀はないか、と二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。
次に、『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)ですが、「其安否ヲ問ヘバ彼曰ク、我既ニ脳ヲ斬ラレタリ、助命ノ望ナシト一言シ、伏シテ復ビ声ナシト。」とあります。
最後に、「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)ですが、「(前略)其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが僕も是位遣られたからとても助かるまい(後略)」とあります。
以上、三人の資料を紹介しましたが、三人とも龍馬と慎太郎の遭難直後に駆けつけていますので、かなり信用できる話だと考えられています。

龍馬の身長について

カテゴリ:龍馬について
龍馬の身長はどうしてわかったのですか。
龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人おります。
3人によると、
田中光顕(元・陸援隊士)   =5尺7寸(173cm)
関龍二   (元・海援隊士)   =5尺8寸(176cm)
信太歌之助 (元・幕臣)     =5尺9寸(179cm)
となっています。
さらに、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されており、その大きさと、現代人の標準寸法とを比較してみますと、170cmより少し大きいくらいではないかと推測できます。龍馬の身長をはっきりと確定させる事はできませんが、いずれにしましても平均身長150cm台の時代に、170cmを越えていたのですから、かなり大柄な人物だといえます。

高知県人にとっての龍馬の存在

カテゴリ:龍馬について
高知県の人にとって坂本龍馬は、どんな存在ですか。
高知県の人は、龍馬のことを郷土の偉人と考えていますが、「手の届かない雲の上の人」という存在ではなく、「友達のような親しみやすい人」という存在ではないかと思います。高知県には、あちこちに「龍馬」と名前のつくものがあふれていますので、名前を知らない人はまずいないと思います。しかし、何をした人かと問われると、答えることができる人は多くないのではないかと思います。

龍馬を知るうえで欠かせない事

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬を知るうえでこれは欠かすことができないということは何ですか。
業績としては、薩長同盟や船中八策、亀山社中(のちの海援隊)は欠かせません。また、人脈では姉の乙女や勝海舟、中岡慎太郎、後藤象二郎などは重要です。

坂本龍馬と高杉晋作

カテゴリ:龍馬について
幕末の志士の中でも坂本龍馬と高杉晋作は特に型破りな人物ですが、2人のどういうところが型破りなのか、また2人の違いを教えてください。
二人の比較は非常に難しい事ですが、二人とも、亀山社中(海援隊)や奇兵隊という今までにない組織を造ったところや、人が考えつかないような事、または考えついても無理だと思えるような事を成し遂げたところが、型破りなイメージをつくりだしているのではないでしょうか。二人の相違点は色々ありますが、家柄の違いは大きいと思います。晋作は長州藩の中級藩士、龍馬は土佐藩の郷士出身ですので、藩に対する意識が全く違います。

龍馬の性格は

カテゴリ:龍馬について
龍馬はどういう性格だったのですか?
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、細やかな心配りのできる性格ではないかと想像します。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」

カテゴリ:龍馬について

もし龍馬が現在の日本に降り立ち、再び国のために奔走してくれるとしたらどのような手段をとるのでしょうか。日本は彼が生きていた頃とはずいぶん変わりました。そのなかで現代の龍馬は・・・。

「龍馬が現代に生きていれば・・・」とは、龍馬ファンなら誰もが考える事だと思いますが、その答えは非常に難しく、皆違う答えになるのではないかと思います。龍馬の行動や思想から想像すると、やはり自由と平等、平和に向けて奔走すると思います。

龍馬とカツオのたたきとお酒

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の好物について調べています。土佐といえばカツオのたたきが有名ですが、龍馬も食べていたのでしょうか?確信の持てる資料が無いので教えていただきたいのですが。また龍馬が飲んでいたお酒の特徴などがわかったら嬉しいのですが・・・。
龍馬がカツオのたたきを食べたという資料はありませんが、土佐人ならば食べた可能性は高いと思います。龍馬が飲んでいたお酒も資料が残っていませんので、はっきりとは分かりません。しかし、坂本家の本家である才谷屋は、酒造業もしておりましたので、本家で造ったお酒を飲んでいた、と考えるのが妥当だと思います。当時から現在まで続いて造られているお酒は、佐川町の「司牡丹」があります。このお酒の名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものですが、佐川町出身の勤王家は沢山おり、龍馬とも繋がりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたるお酒を飲んだ可能性は有ります。ちなみに、坂本家本家の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。

龍馬暗殺について

カテゴリ:龍馬について

龍馬は誰に殺されたのか?

龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。しかし、証言者である(1)今井信郎と、(2)渡辺篤、(3)中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことが分かりません。なお、今井は6回証言していますが、言っていることに一貫性がありません。また、中岡慎太郎の"最期の言葉"を後世に伝えた人が3人おりますが、この人達の言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。

 《龍馬暗殺の状況》
  い つ : 慶応3年(1867)11月15日午後9時ごろ(太陽暦では、1867年12月10日)
       薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)の日記『京在日記』によると当日の天気は雨。
       しかし、犯行時の天気は、鍵屋長治郎の日記『幕末維新京都町人日記』によると、
       「雨降夜双天」となっており、夜には雨も上がり、晴天だったようです。
  場 所 : 京都四条河原町通り蛸薬師下ル西側「近江屋」(醤油屋)当主・井口新助。現在は「京阪交通社」
  犯行人数: (1)今井説=7人
         (襲撃者)渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助
         (見張り)佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の7名)
         ・今井は後の証言で、今井自身が襲撃者の中に加わっていたと証言しています。
         (2)渡辺説=6人
         佐々木唯三郎並びに拙者(渡辺篤)始5名
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の6名)
         (3)中岡の最期の言葉
         『谷干城遺稿』明治45年(1912年)=人数不明
         『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)=3名
         「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)=2名
         
この他にも次のような説があります。

  実行犯 : (1)元・新選組(高台寺党)の伊東甲子太郎説
         (2)新選組の原田左之助説
         (3)薩摩の中村半次郎説(桐野利秋=人斬り半次郎)
  黒 幕 : (1)幕府(大政奉還と寺田屋の恨み),実行犯=見廻組
        (2)薩摩藩(武力改革路線と平和改革路線の意見の相違)実行犯=不明
        (3)紀州藩士・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み)実行犯=見廻組

色々な犯人や理由が考えられますが、よほど明確な証拠でも発見されない限り、誰も真犯人は特定できないと思います。
 
【参 考】京都の霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)には、「龍馬を斬った刀」が所蔵されています。
     これは、見廻組・桂隼之助のご子孫から寄贈されたもので、龍馬を斬った刀だと伝えられています。
       銘=「越前国住人兼則」 , 長さ=約65cm(脇差程度)

龍馬は梅毒?

カテゴリ:龍馬について
龍馬さんって梅毒?
中江兆民は龍馬の事を「其額は梅毒の為め抜上がり居たり」と語っているようですが、梅毒で髪が抜けるということはないようです。兆民以外で、龍馬の事を梅毒と語っている人はいない上に、兆民自身が龍馬と特に親しかったわけでもないですので、兆民の勘違いという事は十分考えられます。

「英将秘訣」と龍馬の関係

カテゴリ:龍馬について

今現在わかってる、『英将秘訣』と龍馬さんの関係を教えて下さい。『坂本龍馬伝』(千頭清臣:新人物往来社)の解説で一坂太郎氏は龍馬さんと『英将秘訣』の関係を否定しておられますが、今現在でも『英将秘訣』を龍馬さんの言葉として引用している本をいくつかみかけます。実際のところ、『英将秘訣』は龍馬さんの残した(もしくは語った)言葉なのでしょうか?

「英将秘訣」は、大正3年6月に発行された千頭清臣著『坂本龍馬』ではじめて紹介されたものです。当時は、確信はないものの、龍馬が語ったものだと信じられていたようです。その後、研究が進み、おそらく平田派国学者志士グループの中に生まれたものであろう、と推定されています。(平尾道雄著『新版 龍馬のすべて』 1985年 高知新聞社発行) 「英将秘訣」は、1863年(文久3年)におきた足利将軍3代の木像梟首事件の際に、会津藩士広沢安任によって押収されたものです。その広沢の手記によると、「英将秘訣」の作者は龍馬ではなく、平田派の学者と考える方が無難であり、現在では龍馬とは無関係とする説のほうが大勢を占めているようです。現代では龍馬は英雄視されており、「英将秘訣」の中から格好良い言葉(「世に生利を得るは事を成すに在り」、「衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」など)だけをとって、さも龍馬が言った言葉のように書いている書物もありますが、「英将秘訣」には非常に危険な思想を含んだ言葉(「人を殺す事を工夫すべし。刀にてはヶ様のさま、毒類にては云々と云事をさとるべし。乞食などを2、3人ためし置くべし。」など)もあり、龍馬の言葉とは思えないものも多くあります。

龍馬の写真使用について

カテゴリ:その他について

龍馬の写真使用について教えて下さい。

龍馬の写真についてですが、当館が所蔵している写真は1枚もありません。立姿のものは、高知県が所有しており、高知県立歴史民俗資料館が管理しています。他の写真は個人蔵であったり、他の博物館の所蔵となっております。
龍馬の立姿の写真を、個人で非営利に使用される場合は関知しておりませんが、商用や広告などに使用される場合、所蔵先の許可が必要になりますのでご注意下さい。

【立姿の龍馬写真のポジフィルムの貸し出しについて】
当館では高知県立歴史民俗資料館の“窓口”として、立姿の写真のポジフィルムを貸し出す事はできますが、通常5,150円の料金を頂いております。但し、研究目的や観光ガイドブック、博物館等での使用、または館長が特別に許可をした時は無料になるケースもございますので、申請の時にお尋ねください。

【ホームページでの龍馬写真の使用について】
当館ホームページで使用している写真は、それぞれ所蔵している機関に許可を得て掲載していますが、非営利に個人的に作成されたホームページでの、写真の使用については、特に注意されることはないと思います。また、個人的な使用目的で写真をコピーすることも、特に注意されることはないと思います。しかしながら、営業目的・本への掲載などで使用する場合には許可が必要となりますので、ご注意下さい。

いろは丸事件での龍馬の対応

カテゴリ:その他について

いろは丸事件で紀州藩に対して龍馬はどうゆう交渉を行ったんですか?

いろは丸事件での龍馬の対応をまとめてみました。
○慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。
○紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。
○航海日誌や談判記録を確保。
○海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。
○寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」
○下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」
○京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。
○紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。
 ●土佐の連中を放ったまま出港したのはけしからん!
 ●2度も衝突させた責任はどうなるのか!
 ●万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か!
 ●長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いて決着をつけよう!
○土佐藩から参政後藤象二郎ら応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てたので、紀州藩も薩摩藩五代友厚へ仲裁を依頼。ほぼ1ヵ月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。
○この間龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっけろと励ましに来るなど大いに効果を上げた。
○いろは丸事件で龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一ヶ月間に上手に展開していて感心させられる。
 ●一戦交える臨戦体制
 ●世論操作と情報発信
 ●身内の安全確保
 ●筋を通した交渉
 ●強力な応援体制の確保
 ●交渉の結着点・結着対応などを決める

龍馬と「軍鶏鍋」

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龍馬が生前食べたかったものとして軍鶏鍋が挙げられるそうですが、インターネット上でもあちこち調べてみたのですが、結局その情報を得ることができませんでした。軍鶏鍋が好物なのか・・・。これには何か理由があるのでしょうか?それに関するエピソードなどがありましたら教えていただきたいのですが・・・。

龍馬は手紙に食べ物のことを書いていませんので、好物やどこでどんなものを食べたのかはわかりません。従って、これは言い伝えられていることとしてお返事しますが、慶応3年11月15日(暗殺された日)の夜、中岡慎太郎と話し込んでいた龍馬がそばにいた峰吉に「軍鶏鍋でも食おうか、買うてきてや」といい使いに出します。ところが、その直後、龍馬と中岡と藤吉しかいなくなった近江屋の2階に刺客が上がり3人ともやられてしまいます。軍鶏を買いにいった峰吉が戻った時には龍馬は息絶えていました。いつもの店に軍鶏が無くて、遠い店まで買いに行った・・・とも書かれていますが、龍馬にとっては「食べそこなった軍鶏鍋」になりました。龍馬が中岡の来訪をもてなすため11月の寒い折から、温まる軍鶏鍋を思いついたのではないでしょうか。『海援隊始末記』をはじめ殆どの本に書いてありますが、これはのちに峰吉が話したことを材料としていると考えられます。

『歴史街道』に掲載された龍馬の写真

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三年程前龍馬について出された『歴史街道』という雑誌に掲載された「海軍操練所の制服を着た龍馬の写真」というのはなぜまだ公に発表されないのでしょうか。まだ100%龍馬であると断定されていないからなのでしょうか。

あの写真は私も一瞬びっくりしましたが、耳の形がそげているのと、その他、側によってコンピューターに入れてみると合わないところもあるようです。実はこの写真の本人の名前がその後わかり、現在では100%龍馬でないことが証明されています。この本の出版元でも、それを認めています。