(1)
慶応3年3月6日の印藤肇(いんとうはじめ)宛の手紙には、蝦夷(えぞ、北海道)の開拓のことを書いており、「新しい国を拓く(ひらく)のは前々からやりたいと思っていた自分のライフワークで、1人になってもやりとげたい」と書いていて、この時もチャンスをつくろうとしていましたし、文久3年(1863)から、元治元年(1864)にかけ、その実行ができる準備をしていましたが、仲間を池田屋事件で殺され、計画はダメになってしまいました。このようなことから、政治の争いの中にいるよりも、もっとスケールをひろげ、世界との貿易も考えに入れていたでしょう。慶応3年(1867)11月7日、陸奥宗光(むつむねみつ、有名な外務大臣になる人)にあて、「そのうちに世界のはなしができるようになるよ」ということを、たった1行ですが書き込んでいます。
(2)
(1)龍馬が暗殺された時、鞘(さや)で敵の刀をうけた。その刀は前の年、兄権平(ごんぺい)に、死ぬ時は先祖のものを持って死にたいといって送ってもらった吉行(よしゆき)の刀でした。龍馬が思っていたように、その刀は龍馬の手に握られて、死んでいく龍馬を見守りました。
(2)龍馬は手紙の中の日付を間違えて、ひと月先を書くことがあります。これは太陽暦(たいようれき、今のこよみ)を使っていたせいではないかと思います。
(3)龍馬が勝海舟の弟子になった文久2年から死ぬまでの約5年間に、船で動いた距離は、なんと2万km。これは年表に出てくる移動の距離を足したものですが、地球を半周もしているから、驚きですね。