【三浦学芸員回答】
(1)
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
※本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
・大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
・横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。
(2)
現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。
(3)
龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。
(4)
龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国などとは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。
(5)
龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問 坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答 過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。
(6)
これは全く分りませんし、想像もできません。
(7)
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。
(8)
最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
【故・小椋前館長回答】(2)と(7)のみ
(2)
現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。
(7)
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)