坂本家と明智家

カテゴリ:龍馬について

私が以前見た本には坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔で本能寺の変ののち、土佐に逃れ光秀の居城の坂本城の地名坂本を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり坂本家の桔梗紋は明智に由来する書いてありました。これは本当のことでしょうか?(長野県 男性 34歳)

坂本家の御先祖様は明智家と何か繋がりがあるのでしょうか。当時の土佐は海路しか無く、そこまでして移住したのは何故でしょう。 (神奈川県 男性 60歳)               

そのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年~1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年~1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。