龍馬暗殺について

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龍馬は誰に殺されたのか?

龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。しかし、証言者である(1)今井信郎と、(2)渡辺篤、(3)中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことが分かりません。なお、今井は6回証言していますが、言っていることに一貫性がありません。また、中岡慎太郎の"最期の言葉"を後世に伝えた人が3人おりますが、この人達の言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。

 《龍馬暗殺の状況》
  い つ : 慶応3年(1867)11月15日午後9時ごろ(太陽暦では、1867年12月10日)
       薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)の日記『京在日記』によると当日の天気は雨。
       しかし、犯行時の天気は、鍵屋長治郎の日記『幕末維新京都町人日記』によると、
       「雨降夜双天」となっており、夜には雨も上がり、晴天だったようです。
  場 所 : 京都四条河原町通り蛸薬師下ル西側「近江屋」(醤油屋)当主・井口新助。現在は「京阪交通社」
  犯行人数: (1)今井説=7人
         (襲撃者)渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助
         (見張り)佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の7名)
         ・今井は後の証言で、今井自身が襲撃者の中に加わっていたと証言しています。
         (2)渡辺説=6人
         佐々木唯三郎並びに拙者(渡辺篤)始5名
         (合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の6名)
         (3)中岡の最期の言葉
         『谷干城遺稿』明治45年(1912年)=人数不明
         『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)=3名
         「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)=2名
         
この他にも次のような説があります。

  実行犯 : (1)元・新選組(高台寺党)の伊東甲子太郎説
         (2)新選組の原田左之助説
         (3)薩摩の中村半次郎説(桐野利秋=人斬り半次郎)
  黒 幕 : (1)幕府(大政奉還と寺田屋の恨み),実行犯=見廻組
        (2)薩摩藩(武力改革路線と平和改革路線の意見の相違)実行犯=不明
        (3)紀州藩士・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み)実行犯=見廻組

色々な犯人や理由が考えられますが、よほど明確な証拠でも発見されない限り、誰も真犯人は特定できないと思います。
 
【参 考】京都の霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)には、「龍馬を斬った刀」が所蔵されています。
     これは、見廻組・桂隼之助のご子孫から寄贈されたもので、龍馬を斬った刀だと伝えられています。
       銘=「越前国住人兼則」 , 長さ=約65cm(脇差程度)