薩長同盟・龍馬が日本に与えた影響・郷士の権利について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬は何故当時無理だと思われていた、薩長同盟を結ぶことができたと思いますか。龍馬でなくてもできたと思いますか。また、龍馬が日本に最も与えた影響は何だったと思いますか。あと、郷士の権利についても教えて下さい。

『薩長同盟について』
「いま何をすべきか。各藩の体面ばかり考え、国全体の事を考える事を忘れてはいけない。幕府を倒し新しい国(近代国家)にするためには、リードする大きな藩が対立していてはいけない。何が目的かを考えよう。」というような事で、薩摩の西郷と小松(家老)を、龍馬が徹底的に説得しました。(このことは、木戸孝允が龍馬へ書いた、1866年(慶応2年)1月23日付けのお礼状に書いてあります。)気長く自分の考え方を話してわかってもらったのがよかったでしょう。龍馬でなくても出来たかも知れませんが、龍馬は「この国を『日本』にしなければいかん」という事を、ずっと考えつづけていたので、説得力があったのでしょう。

『日本に与えた影響について』
龍馬が日本に与えた事は、「武力討幕」を避けるため、薩長同盟をバックにしながら、まず将軍が幕府を終わりにする事を決め、国内での戦いを避け、平和なうちに新しい国を誕生させるための、船中八策を示した事でしょう。

『郷士の権利について』
郷士坂本家は、本家の才谷屋坂本家から分家したもので、才谷屋三代目直益(八郎兵衛直益・ハチロベイナオマス)の時、郷士の株(権利)を買い求め、次の代の八郎兵衛直海(ハチロベイナオミ)に与え、分家させたという事です。「買い求めた・・・」という内容は、護受け郷士(誰かの権利をゆずりうける)か、郷士の募集に応じた(新規郷士)かは、よくわかっていません。
 ※『南国遺事』にある一文・・・財産を分かちて郷士職を購い。

生家はどうしてつぶれたのか

カテゴリ:坂本家について
龍馬の生まれた坂本家はもう無いと言うのは聞きましたが、いつどうしてつぶれてしまったんですか?土佐でも有数の大金持ならそうそうつぶれたりしないのでは?
土佐でも有数の大金持ち・・・であったかどうかは別として、本家の才谷屋(サイタニヤ)は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落。坂本家(龍馬の家)は残りましたが、龍馬の兄・権平(ゴンペイ)のあとを継いだ直寛(ナオヒロ・養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31~32年にかけ一家をあげて移住し、当初札幌の北、浦臼(ウラウス)に移り住みました。その後一家は札幌にも移り、いまでも本家は北海道です。高知の家はその後売却され、戦災にあって、いまはそのあとに病院が建っています。

生家はどこに

カテゴリ:坂本家について

龍馬の生家はどこですか? 

龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目(はりまや橋から約1.5キロメートル西へ電車通り沿いに行った所)の南側です。
現在、吉田茂元総理大臣の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っています。生家は戦災で焼けて跡形もありませんが、そのあとには上町病院が建っています。

坂本家と明智家

カテゴリ:龍馬について

私が以前見た本には坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔で本能寺の変ののち、土佐に逃れ光秀の居城の坂本城の地名坂本を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり坂本家の桔梗紋は明智に由来する書いてありました。これは本当のことでしょうか?(長野県 男性 34歳)

坂本家の御先祖様は明智家と何か繋がりがあるのでしょうか。当時の土佐は海路しか無く、そこまでして移住したのは何故でしょう。 (神奈川県 男性 60歳)               

そのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年~1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年~1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。

龍馬の家紋について

カテゴリ:龍馬について
坂本龍馬の家紋は?家紋の名前を教えてください。

龍馬の家紋(坂本家の家紋)についてですが、名称は、「組み合わせ角に桔梗紋(くみあわせかくにききょうもん)」といいます。この紋章は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。

坂本家の家紋に付いてですが、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年経って亡くなった直益の妻・さわの墓に付いているものが、確認できる最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えると、時期的に近いので丁度良さそうなのですが、断定できるまでには至っておりません。桔梗紋は美濃の土岐氏が用いていた家紋で、美濃地方に多い家紋になります。同じ美濃出身の明智家も桔梗紋で、明智後裔説のある坂本家も桔梗紋にしたとも言われていますが、実際のところは分りません。

龍馬と川島家と田中家

カテゴリ:ゆかりの人物について
学習研究社発行の歴史群像シリーズの第23「坂本竜馬」の37頁に、仁井田の川島家や坂本山の田中家へよく遊びに行った、とありますが両家は坂本家とはどのようなつながりが有ったのでしょうか?又そこまでの距離や子供の足でどのくらいの時間がかかったのでしょうか?
「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。川島家の当時の当主伊三郎は、「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで手漕ぎの船で30~40分くらいでしょうか。湾の眺めもよい航路です。
田中家は坂本家の山や領地の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16才年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。

「おやべ」は春猪

カテゴリ:ゆかりの人物について

龍馬の手紙で「おやべ」に宛てたものがありますが、それは乳母の事だと説明するものもあれば春猪だというものもあります。どちらが正しいのですか?

春猪=おやべ、が正解です。
〇おやべは、元治元年(1864)、龍馬が30歳の時に子供ができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元年(1865)9月7日には、「最早、風が寒くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、おやべ=乳母はありえません。
〇使用人だとすると西の部屋の縁側で日なたぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな甘やかされた使用人はいないはずですから、おやべは使用人でも乳母でもないです。
〇アバタがあって、おしろいをぬれと龍馬によく言われます。これは「春猪」の所でも出てくるので同一人です。

高松太郎が龍馬の家系を継ぐ

カテゴリ:ゆかりの人物について
高松太郎氏は一体どのようないきさつで龍馬の家系を継ぐことになったのでしょうか?
明治4年8月20日に、朝廷が坂本龍馬の功績をたたえ、後継がないのを哀れんで、甥の高松太郎に跡目相続を命じました。
高松太郎が選ばれた理由としては、母が龍馬の長姉の千鶴だったこと、龍馬と一緒に海援隊で活動していたことなどが、考えられます。

坂本家の子孫について

カテゴリ:ゆかりの人物について
坂本家の子孫は現在生きているんですか?
とてもご兄弟が多く、現在北海道に3家族、東京にも3家族くらい居られ、神戸にも1家族居られます。神戸の土居晴夫さんは、坂本家一族の本などを書いておられそれぞれ一家ご繁栄です。